Vol.2
『W/F ダブルファンタジー』
村山由佳
~男と女がどれだけ違うところを見ているか~

新作『W/Fダブル・ファンタジー』
(文藝春秋 2009年1月10日発売 定価¥1780・税込)
村山由佳(作家)×池上冬樹(文芸評論家)
●「新生・村山由佳」の第一弾の性愛小説
―― 『W/F ダブルファンタジー』(文藝春秋。※09年1月10日発売。定価1780円(税込))のヒロインは、テレビ・ドラマの売れっ子の脚本家の奈津(筆名「高遠ナツメ」)です。仕事でも私生活でも行き詰まり、長年の仕事のパートナーであり、夫でもある省吾のもとを離れ、長年の田舎暮らしを捨てて、東京で独り暮らしをはじめる。そしておもに三人の男性と性に溺れる。
直木賞を受賞された『星々の舟』(文藝春秋、2003年。→文春文庫)も、書かざるをえない衝動にみちたすばらしい家族小説だと思いましたが、ここにもまた別の衝動を感じますね。従来の自分の小説の殻をやぶりたいという衝動です。なにか、心境の変化のがあったのでしょうか。

村山 『星々の舟』のときからかわってきたのです。一言でいうなら、「好きなものを書きたい」というものです。私が書きたいと思うものが、あるものごとの考え方からすれば、「村山由佳」として不利である、といわれた。今までに作り上げた自分のイメージが壊れるといわれたんですね。
でも私は、それを大事にしていては、私がものを書いていくモチベーションを保てないと思った。書いていく人間として腹を括って生きていこうと決断したのです。
--冒頭からベッドシーンです。それも、愛し合っている男女のベッドシーンではなく、ヒロインが相手にしているのは、出張ホスト。これは、まさに「新生・村山由佳」の第1弾という作品ですね。
村山 冒頭、ホストとのベッドシーンからはじめたのは、この小説が「週刊文春」の連載だったからなんです。これまでにない読者に読んでいただき、これまでにない「村山由佳」を印象付けたいと思ったときに、「冒頭からかましてやろうではないか。やるなら派手にやれ」という気持ちがあったからですね(笑)。そのような覚悟というものが、今回の『ダブルファンタジー』には端的に現れているかなと思います。
―― いままでの「村山由佳」の読者が離れていく、という怖れはなかったですか?
村山 ないといえば語弊があるけれども、私はどちらかといえばエキサイティングな期待感のほうがありましたね。いままでの読者は半分くらい離れるかもしれないけれども、半分くらいは新しい読者を獲得できるかもしれないと。
●“身体のなかの獣”/書くことの“業罰”
―― 奈津の相手となるのは、自分を見いだしてくれた有名な演出家、学生時代のサークルの先輩である雑誌の編集者、そして若い俳優です。これは性愛小説でもありますが、実は、演出家との対話(長いメールのやりとりが前半続くのですが)にあるように、書くとは何かという問題をめぐる話でもありますね。“書ける、創造できるというのは、どちらかというと罰に近い事柄なんだよ”という印象的な表現がでてきます。

村山 身体のなかに暴れたがる獣を飼っている感じなんですね。常になんらかの餌を投げておかないと、その獣は機嫌が悪い。それをなだめるために一生懸命書き、そして書くために必要な経験を重ねようとする。でも、そんな衝動や欠落感を持たないまま生きていけるんだったら、ある意味それはとても幸せなことなのではないか、とないものねだりするときがあるんですね。
ただ、その欠落感なり、「私はこうまでして書かずにいられないのか、なんてさもしいんだろう、なんていじましいんだろう」と思う自分を嫌いになる感じですら、逆に愛しいんですね。私を書かせるためのなんらかのモチベーションになっているから。
この業界と無縁で作家を見ている人は、作家というものは天から与えられた明るい才能である、と思いがちかもしれないけれども、私はそれをどちらかというと欠落とか業罰、刑罰のように捉えていますね。だから、“書ける、創造できるというのは、どちらかというと罰に近い事柄なんだよ”という言葉が出てきたんです。
―― 冒頭の性描写からしてそうですが、女性が男性の性欲を冷ややかに観察するところがありますね。女性は覚悟を決めて性欲に溺れようとするんだけれども、男は勝手な妄想でやってしまうところが非常に上手く書けています。書いていてどうでしたか?
村山 書くときは虚構という目でぜんぶ捉えて書きますが、もう一方の私の俯瞰する目では、おそらく多くの読者がこれを私自身だと思って読むんだろうな、と思います。そこは常に腹きり覚悟で書いているんですよ。
●支配と被支配の関係/蕩けるセックスを求める自由
―― 面白いのは、夫婦小説、家族小説としての側面もあることです。前半、夫の省吾との関係に頁がさかれる。そして夫の省吾が妻の奈津を支配する関係が、実は奈津と奈津のお母さんとの関係に起因している、と判明するくだりがある。奈津はお母さんの言いなりだったんですね。
村山 支配と非支配の関係ですよね。決して悪人ではない夫と長年連れ添っていたわけだけれども、奈津は彼に対してどうしても反抗や反発ができない。周りはどうしていまどきの、しかも社会的な立場を得ているような女の人が反論できないのかと疑問に思う。夫に違うと一言どうして言えないのか、なぜ、夫にたてつくことができないのか、なぜ、夫をそんなに怖がるのかと。しかし彼女はどうしても反抗できないし、異を唱えることもできない。その遠因をずっと探っていくうちに、支配的だった母親と自分との関係がクローズアップされてくる。
―― たんなる性格や考えの違いではなく、もっと環境や育ちといったものが遠因として考えられる。そういう夫婦や親子関係の深層を探ることで奥行きがでていますね。
それにしても、作品の最後に、ヒロインが覚悟を決めるシーンがあるんですが、これがすごいんです。とても、そんな母親や夫に支配されていた女性とは思えないくらいに前に進もうとする。呪縛を解き放とうとする。「ここまで来た以上、もう後戻りはしない。女として間に合う間に、この先どれだけ、身も心も燃やし尽くせる相手に出会えるだろう。何回、脳みそが蕩けるセックスが出来るだろう。そのためなら--そのためだけにでも、誰を裏切ろうが、誰を傷つけようがかまわない。そのかわり、結果はすべて自分で引き受けてみせる」(489頁)とある(笑)。
そして、そのあとに、「ああ。/なんて、さびしい。/どこまでも自由であるとは、こんなにもさびしいことだったのか--」と述懐して終わる。この結末の「さびしさ」は、いつ考えたんですか?
村山 半ばくらいまで書いてきたところで、ラストシーンが頭に浮かびましたね。要するに自分は、人生の灯火となってくれるような、小さいけれども愛おしい幸福よりも、人生の花火がほしいんだと。この手に入れられなくてもいいから、いま、一瞬の花火がほしいんだ、というところですね。
ただ、これは今気づいたことではなく、私のなかにずっとあったことで、本当の自由というのは、孤独と抱き合わせでないと手に入らないんですよね。だから、そのあたりを主人公の奈津が、どう意識的に引き受けていくのかというところを、ラストは花火のシーンにしよう、こんな描写で終わろう、と考えていました。
●性描写の節度と昂奮
―― 作品に出てくる3人の男性との性描写がバラエティにとんでいますが、よく考えましたね(笑)。どこで考えたんですか?

村山 どこって言われても(笑)。書いていて、すごく自分で高揚するんですよ。自分で可笑しいシーンを書いていて笑うことはないし、悲しいシーンを書いていて泣くこともないんです。でも、セックスを書いていて昂奮することはあるんですね。逆に自分が昂奮しないような描写を書いていると、ベッドシーンに関してだけは失敗だと思います。ベッドシーンに関してだけは、男性ならちゃんと立って、女性ならちゃんと濡れるように書かないと、面白くないかなと思います。
―― 『海を抱く -BAD KIDS Ⅱ』(集英社、1999年。→集英社文庫)も、とてもよかったんですけれども、あの当時に比べたら性描写のリミットが振り切れましたね。
村山 主人公の年齢にもよりますよね。あっちは高校生で、こっちは35歳ですからね(笑)。
―― でも、いくらでも書けそうだけれども、どこかで節度を持って、という部分もあるんじゃないですか。ポルノ的な用語は一言も使っていませんよね。
村山 「あ~ん」とか「感じちゃう」とかは書きませんよね。そういうのを書いちゃうと逆にだめですね。
―― セックス描写は多いけれども、ポルノではない。
村山 どれだけみなさんが知っている感情を、言葉に的確に翻訳していくか。それも、ひとつの文章ですら、読者は出てきた順番に頭にインプットしていくわけですから、やはり性描写になればなるだけ、肉体的にプリミティブになればなるだけ、言葉が滑らかでなく書かれていると、ものすごく邪魔なんですよ。だから、感覚的なことを書けば書くだけ、文章に対してはものすごく意図的にならなければならない、という相反することが出てきますね。
●タイトルの意味/男と女の違い
―― 今回の『W/F ダブルファンタジー』の表記は変わっていますが、なにか意味があるんですか?
村山 週刊誌に連載するときに、『ダブル・ファンタジー』だけだとファンタジー小説みたいな感じになるなと思ったのです。なにか印象的な、ひと目で頭にパンと入るような感じがほしいな、と思って考えつきました。「W」をウーマン(WOMAN)、「F」をフィーメール(FEMALE)という、ダブルミーニングに見る人もいるかもしれないし、あるいは単に記号に見る人もいるかもしれない、ということもありました。
種明かしをしてしまうと、ジョン・レノンとオノ・ヨーコが合同で出したアルバムに『ダブル・ファンタジー』というのがあったんですね。ジョンが息子に対する愛情を父として切々に訴えた歌を歌ったかと思うと、次にオノ・ヨーコが「あ~ん、早く来て」みたいなことをずっと言っている、わけのわからない歌が入っていて、それにダブル・ファンタジーというタイトルがついていた。
それをみて、「ああ、男と女が愛し合いながらも全然違うところを見ているという、ある意味とても象徴的なタイトルだな」と思った。週刊文春の連載では、ある程度広い読者に説明が必要かと思って、ジョン・レノンとオノ・ヨーコのことをちょっと書いたんですが、本のほうではだいぶカットしました。
―― そのレノンとヨーコの話に顕著ですが、この小説を読んでいると、男と女はとことん違うなあと思いました。
村山 男と女がどれだけ違うところを見ているかというところは意図しましたね。私は、いくら「僕」という一人称の小説が得意だとしても、もともと女なので、「女」としての部分をとことん利用してやりましょう、と。いままで誰も書いたことがないことを、書いてみたかったんです。
●他者の存在/成長小説とあらたな性的小説を求めて

―― 羽ばたきたいヒロインを押さえつけようとする他者がいる。それで対立となる。あるいはヒロインの性意識をかえる他者があられわて、恋愛する。そして別れる。それで、だんだんヒロインが己が肉体と精神の自由について思いめぐらして成長していくという、ある意味、成長小説の王道ですよね。これは自分でも「新生、村山由佳」という感じがしますか?
村山 そうですね。でも、リミッターはかなり解除したつもりだったんですけど、いざゲラの直しをしていると、盛り込みたい描写がどんどん増えていって。でも、それをしているときりがないし、果たして盛り込みたい描写を盛り込んだからといって全体の印象がどう変わるかといったときに、「それは必要ないんじゃないか」とか、いろいろ意図的に考えるわけです。じゃあ「まだ盛り込みたい、まだ書けたはず」というところを、次にどんな物語に託して書いていくのかは、今後の課題になりますね。とにかく、もうちょっと先に行ってみたいと思いますね。
―― これからどんな作品を書きたいですか?
村山 今回、作品の帯を自分で考えさせてもらったんですが、冗談で「読者総立(・ルビ『・』)ち! スタンディング(・・・・・・)オベーション!」っていうのを考えたくらい(笑)。そういう小説も書いてみたいですね(笑)。今回の作品は、ある意味すごくシリアスじゃないですか。逃げ場のない感じで性を扱っている。
性というみんなが抱えているものには、たくさんの側面がある。光の当て方でものすごく暗く重いものにもなるかわりに、底抜けに明るくユーモラスにもなる。今回は、わりにユーモラスな感じでも書いたけれども、もっと手触りの違う感じで性というものを扱ってみたい。そういう小説を、あまり読んだことがないですしね。だから、そういうのをやってみたいと思います。
-- 最後に、従来の読者にひとことお願いします。
村山 性描写が多いし、ずいぶんきわどいことも書いたけれど、いままでの読者を丸ごと裏切るつもりはないのです。だから、「え? これが村山由佳?」というふうに読まれながらも、読み終えたときには「ああ、やっぱり村山由佳だね」っていうテイストは残っていると思うし、その辺のテイストは大事にしたいと思っています。まあ端的に言えば、色っぽい話も書くけれども、ズキズキ・キュンキュンしちゃうような青春恋愛小説も大事にしていくということです。これからは、ふり幅大きくいきたいなと思っています。
(2008年11月30日、山形市遊学館にて)
◆村山 由佳(むらやま・ゆか)
1964年東京都生まれ。立教大学文学部卒業。会社勤務、塾講師などを経て、93年『天使の卵~エンジェルス・エッグ』で第6回小説すばる新人賞を受賞(※この作品はミリオンセラーを記録し、映画化もされた)。『BAD KIDS』『翼~cry for themoon』『海を抱く BAD KIDSⅡ』などの秀作のあと、2003年7月『星々の舟』で第129回直木賞を受賞。著書はほかに『すべての雲は銀の…』、『永遠。』、人気シリーズ『おいしいコーヒーのいれ方』などがある。
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