
◆現在最高のマイナーポエット・森内俊雄の魅力/『梨の花咲く町で』ほか
◆本欄でも何回かとりあげたことがあるが、僕の最愛の作家は森内俊雄である。
森内俊雄の小説は高校生の時から愛読しているから、もうおよそ40年になる。だから森内俊雄の話をしたらきりがない。自分の40年間の話になるから。何を書いてもすぐにあれこれ浮んできてえんえんと書いてしまい、収拾がつかなくなる。
昨年の暮れに『梨の花咲く町で』(新潮社)という作品集が出た。2003年に上梓された『空にはメトロノーム』(書肆山田)『十一月の少女』(新潮社)以来8年ぶりの作品集である。すぐに読んで感動し(感動しないわけがないのだが)、東京新聞の2011年の「私の三冊」に選び、時事通信に書評を書き、とりあえず気持ちがおさまったけれど、当然書き切れない。でも書き出すとえんえんと書きそうなので、メモ風に書いていこう。
◆時事通信の書評の最後に、“森内俊雄はいい。いまや最高のマイナーポエットと断言したい”と書いたけれど、それは多くの人々に愛されなくても、少数の読者に静かに熱く支持されているからである。森内俊雄は1969年(昭和44年)『幼き者は驢馬に乗って』(文藝春秋→角川文庫)で文學界新人賞を受賞し、この小説はその年の芥川賞候補にノミネートされた。受賞できなかったものの、選考委員の川端康成に激賞された。
「私の最も親敬を感じたのは、森内俊雄氏の『幼き者は驢馬に乗って』であった。これはたいへん個人的な好みで、つまり、私の書きそうな手法で、私はこれに及ばぬと思ったからである。私が意識し、努力するところを、この人はもっと自然に行っている。若さのやわらかさでもあろう。(中略)私は森内氏の才能に期待する」
川端康成の晩年の作品、『みずうみ』『眠れる美女』(ともに新潮文庫)と通底する幻想とエロスがある。あるいは『掌の小説』(新潮文庫)に散見される幻視の文学とも通じる。激賞してくれた川端は森内俊雄のデビュー前年の68年にノーベル文学賞を受賞している。川端に愛されたならもっと注目されるのかと思ったが、川端は72年に自殺。それでも森内俊雄は翌年の73年に『翔ぶ影』(角川書店→角川文庫)で泉鏡花賞を受賞し、いよいよ文壇の中央へと思われたが、それ以来賞から遠ざかる。
◆賞はとれなくても、秀作を次々に世に送り出した。暗く沈んだ詩的な文体に彩られた作品集『ノアの忘れもの』(文藝春秋)『風船ガムの少女』『朝までに』(ともに福武書店)『桜桃』(新潮社)、あるいは宗教文学の結晶ともいえる『骨の火』(文藝春秋→講談社文芸文庫)、さらに俳句にインスパイアされた百の掌編集『短篇歳時記』(講談社)など傑作ぞろい。
森内俊雄の入門書としては『風船ガムの少女』と『朝までに』がいいかもしれない。お薦めは、“小説による俳句鑑賞”ともいうべき『短篇歳時記』で、これはさきほども書いた川端の『掌の小説』に比肩する日本文学の至宝のひとつ。「小説家(ライター)になろう講座」の講師を長年つとめているが、小説の描写の話をするときは、『短篇歳時記』から何作か選んでテキストにしている。小川国夫の短篇ともども、生徒たちにはとても好評。文章に喚起力があり目に見えるからである。
たとえば、『梨の花咲く町で』でも、ぱらぱらと頁をくっていると至るところに、森内俊雄らしい描写がある。
はや傾いた黄道のせいで、物の影が路面に長く伸びている。影は濡れた和砥石のような色をしていた。駅前通りは東から西へと延びている。竹谷一家は東へ歩いていた。前方の青空には仄かに紫がかった黒雲が湧いていた。SFファンタジー作家レイ・ブラッドベリ好みの空である。三十歳、サラリーマンの休日、午後のメランコリーが漂っていた。 (「ジェニモ爺さんの馬車」)
・・さしあたって、二十冊仕入れた。まとめて掲げると結構重たいが、気持ちは晴れ晴れとしてきた。日曜日、夏休みも終わりにかかった文具売場は、コンパスのような明晰さと消しゴムの白色に似た初秋の気配の透明な哀感が満ちていた。柏原はそれを我が身ひとつに、引き受けて帰った。(「クレアタ・エト・クレアンス」)
南岳陶器店の前へきた。覗いて見ると、店主の瓦全さんが壺を乾拭きしているところだった。藍色の肌を炎が包んでいて、壺口から肩へと鉄釉薬が流れている。美しい黎明のような壺である。胴の膨らみが柔らかに息づいて、何事か囁きかけてきた。(同)
今年も雨季が来た。太陽は黄経八十度にたっした。クリの花の匂いが濃くなっている。『雨のことば辞典』という一冊が、倉嶋厚監修で講談社から出版されている。雨の言葉ばかりが一一九〇語集められている。そこには梅雨の同義語として、栗の花霖雨という言葉が出ている。煙雨のように香木が□(火へんに主。“た”)かれているさまが浮んでくる。/日没が遅くなって、日本の白夜の季節である。そのたそがれにあって、タイサンボクの花が街灯の役目を買って出ている。・・(「火星巡歴」)
一部分だけ抜き出すと、やや大げさで観念的と思われるかもしれない。文章読本からすると独善的な比喩過多と捉えられるかもしれない。しかし読めばわかるが、森内俊雄は一行も手を抜かないし、あらゆる文章に登場人物の感覚を刻み込む。抜き出せば大仰に見えても、作品のなかで読めば少しも違和感がない。むしろ、その繊細緻密な感性に心がふるえるし、作り上げられた文学的小宇宙は誰にも真似のできないものであることがわかるだろう。
それは(受賞歴に話を戻せば)、1990年に、薬物中毒で精神の危機を迎えた作家と家族の再生を描いた傑作『氷河が来るまでに』を読めばわかる。読売文学賞と芸術選奨を受賞した作品で、自我の崩壊の危機を乗り切るまでが迫真的に描かれている。
◆森内俊雄の話が長くなり、新作の紹介が遅くなったが、『梨の花咲く町で』は短篇集で、七篇収録されている。校正チェックをしている女性の手記が自分の過去とつながることを発見する校正マンの話「モーツァルト」、自分史を書く男が少年時代の日々を振り返る「クレアタ・エト・クレアンス」、アンリ・ルソーの絵に魅せられた一人の男の四十年を描く「ジュニモ爺さんの馬車」、ある小説家の一年間の仕事と生活を綴る日記「火星巡歴」、画家赤坂三好との交流を捉えた「ど・ど・ど・ど・ど」、予備校生時代を回想する「橋上の駅」、そして百歳の母と九十二歳の義母を偲びつつ、眉山を望む徳島での妻との歳月に思いをはせる表題作「梨の花咲く町で」である。
時事通信の書評には書かなかったが、「モーツァルト」は作中作を駆使したミステリである。森内俊雄は海外ミステリ&SFのファンでもあり、作品によく海外作家の名前をだすが(上の引用文にブラッドベリがあるように)、この作品ではギャビン・ライアルの『深夜プラス1(ワン)』を使用している。女性の手記というのは、レズビアンの女性が恋人とドイツに旅行に行った話で、その旅行中に女性たちが原書で『ミッドナイト・プラス・ワン』を読んでいるという設定だ。さりげない登場のさせかたであるが、森内俊雄のことだから周到に計算しているはず。そのへんの細かい整合を検討する時間がないので何ともいえないが、勘で書くが、おそらくは袋小路や手詰まりという言葉をあらわす“アンパース”を作中作のイメージにしていて、それが「モーツァルト」という作品のテーマを補強しているはずだ。
◆その「モーツァルト」に次のようなくだりがある。主人公の籠原が一歳三ヶ月の初孫圭吾を抱き上げる場面である。
「どれかな? 欲しいのは」
籠原は何気なく、圭吾をみた。この子の瞳は母親に似て、黒々と澄んで大きく、白目は清らかに青い。つい、誘われて覗きこむと、何故か不意に、うろ覚えの西洋の文学者の言葉が浮んできた。瞳とは、そこから生まれてきた、虚無、深遠の影である・・。
このあとに、圭吾が幽霊を見る場面にうつる。そのために「瞳とは、そこから生まれてきた、虚無、深淵の影である」という文章をもってきて説得力をもたせているのだが、このドキリとするような感覚表現と箴言が森内文学の大きな魅力である。とくに箴言は至るところに出てくる。作中作の女性たちがモーツァルトの墓地を訪ねる場面がある。
・・モーツァルトの記念碑を囲んで、ベートーヴェン、シューベルト、ヨハン・シュトラウス、ブラームス、グルック、ヴォルフなどの墓碑がある。墓碑に声をかけると、碑の林から声がかえってきた。声なき声は告げていた。生というものが、生きるに値するものであるならば、死もまた等しく充分に値するものではないか、と。
“死もまた等しく充分に値するものではないか”という言葉にどきりとする。それほど効果的なのだ。あらゆるところで生を問い、死を問い、時間を問いかけているからだろう。その導きだされる箴言がみな心に残る。森内俊雄が素晴らしいのは、五感をフルに使っての感覚描写に秀でていながら(森内俊雄は感覚の錬金術師だ)、またその研がれた感覚で対象を凝視し、ときに幻視の力を使って目には見えぬものを形にしていくところである。
見えないものに形を見て、声なきものに声を聴く。それが「道」を説く老子の根本思想であるが、私は同時に聖書のパウロの言葉を思いだした。新訳聖書「ローマ人への手紙」第八章の二十四節には、次のように記されている。“目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか”(「火星巡歴」)
これ以外にもたくさんの引用がある。このように古今東西の文学からさまざまな言葉を引用して、主人公の心象風景をシンボリックに捉えていく。しかも注目すべきは、何とも穏やかで優しく奥ゆかしい世界が展開されていることだ。デビュー作の『幼き者は驢馬に乗って』や『ノアの忘れもの』がいい例だが、初期は幻想、セックス、アルコール、罪悪、鬱などが渾然一体となった夢魔的な世界を強かった。僕はその陰々滅々とした初期の暗さも大好きだけれど、思慮深く敬虔な眼差しにみちた現在の成熟もまた格別である。
ぜひとも現在最高のマイナーポエットである森内俊雄を読んでほしいと思う。
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