
■桜木紫乃『恋肌』(角川書店)
<書籍>
「ここでも行き暮れた男と女たちの姿が北海道の風景を通して鮮やかに捉えられてある。
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『氷平線』の桜木紫乃が帰ってきた。いや、帰ってきたといっても、どこかにいってたわけではないのだが。いやいや、そもそも、『氷平線』の話をしなくてはいけないだろう。
『氷平線』は、二〇〇二年「雪虫」でオール讀物新人賞を受賞した桜木が、五年の歳月をかけて生み出した短篇集である(収録されたのは六作で、そのうち四作が書き下ろし)。すべて北海道の釧路周辺を舞台にしていて、四季の風景が、人物たちの生活を照らし、内面を育み、物語の綾をふかめている。ときに孤独な人物たちの心象を風景をあざやかにあらわすこともある。
たとえば、和裁師が味わう孤独感(「霧繭」)、姑に監視され何一つ自由にできない酪農家の嫁の鬱屈した思い(「夏の稜線」)、理容店を営む男の性への逃避と耽溺(「海に帰る」)、女性歯科医の彷徨としての生と性(「水の棺」)などで、閉塞した日常の行き詰まりが、ときに象徴的に捉えられてあり、それがとても印象的だった。エンターテインメントの新人というと、どうしても物語重視で、ドラマの展開やストーリーの起伏、あるいはキャラクターの造形だけでよしとする者が多いなかで、桜木紫乃は文章の鍛練と挿話の連繋と象徴性に磨きをかけ、普遍的な人生の真実をつかみとろうとしている。構えの大きな、本格的な女性作家が出てきたと嬉しくなったのだ。
短篇集のあと、『風葬』(文藝春秋)『凍原』(小学館)と書き下ろしの長篇ミステリの力作を問うているが、長篇ではストーリーの大きな流れにやや汲々としているところがあり、もうひとつ細やかな人物たちの息づかいが伝わらないうらみがあった。
長篇よりも短篇むきかなと思っているときに、短篇集『恋肌』が上梓された。『氷平線』同様、北海道を舞台にした短篇が六作が収録されているけれど、どれもなかなかいい。
冒頭に置かれているのが表題作の「恋肌」で、これは『氷平線』でも二作ほど書かれていた酪農家の話で、ここでは酪農家の青年と中国人の花嫁が新たな人生を模索する内容になっている。男女がおずおずとセックスを手がかりにしてよりそっていくプロセスが読ませる。
セックスといえば、デリヘルの千鶴が若い男に貢ぎつつ水産会社を経営する中年男に依存する「海へ」、運送会社の女事務員が二人の男との関係で行き詰まる「プリズム」、風俗関係の情報誌で働く青年がストリッパーの技の虜になる「フィナーレ」でも顕著で、ときに切迫した関係で、ときに暴力的にきりとられる。
そのほか、元着付師が五年ぶりに元恋人の結婚相手の着付けをする「絹日和」、父親と仕事で一緒だった男と再会し少女時代を回想する「根無草」が収録されている。
完成度の順からいくと「プリズム」「絹日和」「海へ」「フィナーレ」「恋肌」「根無草」となるだろうか。とくに「プリズム」はミステリ的な展開をたどり、終盤の迫力たるや相当なものである。ただ個人的には「絹日和」にひかれた。『氷平線』にも和裁をする女性の話が出てきたけれど、和服の話になると筆がいちだんと艶やかになり、ひとつひとつの仕事の手続きと心理が反応しあい、世界がしっとりとふくよかになるからである。
冒頭に引用した言葉は、『恋肌』の帯に使われたもので、「本の旅人」2月号からの抜粋である(編集部の手違いで「本の旅人」云々が抜けているが)。そちらで詳しく個々の作品をとりあげているので、ぜひ参照されたい。お薦めの一冊だ。
■真保裕一『ストロボ』(新潮文庫)
<書籍>

今年、真保裕一の『栄光なき凱旋』(文春文庫)の解説を担当したが(上中下の三巻にわかれていて、僕の解説は下巻に。上巻の野村進さんの解説もいい)、そこでふれるのを忘れた小説がある。『ストロボ』である。
最初に目次を見て、誰もが戸惑うだろう。第五章「遺影」からはじまり、第四章「暗室」、第三章「ストロボ」、第二章「一瞬」と続き、第一章「卒業写真」で終わるからである。実は本書は、写真家を主人公にした連作で、フィルムを巻き戻すように人生を振り返る仕掛けなのだ。
まず「遺影」は、写真家として名声をえた喜多川が、ある依頼で余命いくばくもない女性の写真を撮る話である。その次の「暗室」では若い女性写真家との愛を回想し、さらに「ストロボ」では若いタレントとの密会を何者かに写真を撮られ、「一瞬」では病床の女性を撮ることで成功をおさめ、「卒業写真」では写真家を決意させた学生時代が語られることになる。写真の仕事がルーティーン化しつつある五十代から学生時代までさかのぼり、人生のいくつかの分岐点を物語るのである。
第三章までは、手堅くまとめてはいるものの、もうひとつ連作として力が弱いかなと思ってしまうのだが、写真家として飛躍することになる第二章「一瞬」から急に盛り上がりをみせる。混迷のなかにあった喜多川が先輩のカメラマン、二人の女性、家族との交流を通して内面を鍛えられ、「写真」をもういちど見つめなおし、人生を変える決定的な写真を撮ることになる。しかしそれがまた、新たな別れをも生み出すことになるのだが、その情景が何ともリリカルに描かれ、何度も胸をうつ。
そしてこの小説の熱気は、最後の第一章「卒業写真」にも持ち込まれ、写真家の原点、すなわち写真に映る自分を見つめ続ける行為の重要性が語られて、静かに幕を閉じることになる。
だが、そこで読者は、はたともう一度考えてしまう。逆戻りをするのはいい。でも目次の章立ては、第一章からはじまり第五章で終ってもよかったのではないか。たとえ逆戻りすることがあっても。なにもわざわざ冒頭の章を第五章と位置づけることはないのではないかと。いや、待てよ。ひょっとしたら、冒頭の第五章「遺影」は、現在ということではなく、物語の最後として完結するからではないか。
そう思って「遺影」を読み返すと、もうひとつのストーリー、夫婦愛が見えてくる。そして第一章で語られる自分の痕跡を焼き付ける意味が、別の形で捉え直されてもいる。つまり「遺影」は第一章でありながら、間違いなく最終章としての性格もあわせもつのである。
真保裕一の短篇は、短篇集『トライアル』がいい例だが、作りは丹念でも、とかく設計図がすけて見えるところがある。プロット優先で人物のエモーションを掬いあげきれていない憾みがあったのだけれど、本書ではそんなことはない。情感豊かな逆・成長小説&青春小説として、またはさりげない夫婦愛の小説として見事に結実している。真保裕一、会心の一冊だろう。
■監督ジェイムズ・マンゴールド/『3時10分、決断のとき』
監督ケヴィン・マクドナルド/『消されたヘッドライン』
<DVD>

ラッセル・クロウ主演の映画を続けて2本見た。西部劇の『3時10分、決断のとき』(2007年。監督ジェイムズ・マンゴールド。主演ラッセル・クロウ、クリスチャン・ベイル)と、サスペンス『消されたヘッドライン』(2009年。監督ケヴィン・マクドナルド)である。どちらも面白い。まずは後者から語ろうか。
クロウが演じるのは、ワシントン・グローブの敏腕記者カル・マカフリー。ドラッグ中毒の黒人少年が射殺された事件を追っているときに、友人の国会議員スティーヴン・コリンズ(ベン・アフレック)の近況をテレビで知る。コリンズのもとで働く女性職員ソニアが出勤途中の地下鉄で不可解な死をとげ、コリンズが涙を見せたことで不倫の疑いが生まれ、上司からコリンズの話を書くように指示されるのだ。
その命令を無視して射殺事件を追っていくと、あるところでソニアの名前が浮上してくる。ドラッグ中毒の少年とどこで出会ったのだろう。ひょっとしたらソニアも殺されたのではないか。やがて二つの事件が交錯し、ある国家的陰謀がすけてみえてくる。
一言でいって、懐かしくなった。70年代によく作られた、国家と戦う男を描いた傑作サスペンスを思い出させたからである。たとえば、ジャーナリストが国会議員の暗殺事件を追及する『パララックス・ビュー』(1974年。監督アラン・J・パクラ。主演ウォーレン・ベイティ)、記者たちが大統領を追いつめる『大統領の陰謀』(76年。同。主演ロバート・レッドフォード、ダスティン・ホフマン)、あるいはCIA内部の陰謀に巻き込まれた局員の逃亡と逆襲を描く『コンドル』(75年。監督シドニー・ポラック。主演ロバート・レッドフォード)などである。3本とも伏線のはり方、サスペンスの醸成、緊迫した演技、そして緻密な演出が見事で、昂奮を味わいたくて何度も名画座で、そしてテレビで見た(この3本は必見です。文句なしのお薦め!)。
『消されたヘッドライン』は、そんな70年代の傑作と同じ完成度を誇り、なおかつミステリ的にひねりを加えて、終盤で観客を驚かせる。記者と議員と議員夫人の三角関係(学生時代から続いていた三角関係)が、予想外の展開を生み出して、印象的な結末をつけているのも、芸がこまかくてよろしい。
なによりもやはり、ラッセル・クロウの演技がいい。野心的で、繊細で、友達思いで、それでいて記者としてプロ意識が強く、ときに冷酷にもなりうる男をクロウはたんたんと自然と演じていてうまい。
しかし演じるキャラクターの魅力では、『3時10分、決断のとき』の悪役のほうがいいかもしれない。駅馬車強盗団のリーダーのベン・ウェイド役で、窮地にたてばためらわずに銃の引き金をひき、仲間すら殺してしまう残忍さをもつ。そのくせ聖書を諳じていて、ときに聖書を引用して相手を煙にまき、時間があればスケッチに興じ、女性が相手なら瞳の色を話題にして虜にしていく。悪党なのに人を惹きつけるカリスマ性がある。
物語は、この男が捕まり、経済的に追いつめられている牧場主ダン・エバンズ(クリスチャン・ベイル)が護送の手伝いをして、ユマ発午後3時10分の列車に乗せようとする。もちろん男の仲間たちが奪還しにやってきて、牧場主たちと銃撃戦を繰り広げることになる。テンポがよく、颯爽としていて、随所にアクション・シーンが用意されていて、なおかつダンと息子の葛藤や、ダン自身の内的葛藤などドラマも埋め込まれて、物語の進展と対決の場面で手に汗にぎらせる。いやあ、よく出来ている。
ただ、ラストのベンの行動に飛躍があり、それでオリジナルの『決断の3時10分』(1957年。監督デルマー・デイヴィス、主演グレン・フォード、ヴァン・ヘフリン)を購入して見た。西部劇マニアで知られるわれらが逢坂剛氏がオールタイム・ベスト3にあげている映画だが、なるほど、実にタイトで緊迫感みなぎる作品で感心した。
結末に関わるので詳しくは書けないが、リメークの結末は、ある程度オリジナルの結末を尊重し、なおかつ現代の善悪観にあわせた行動になっていることがわかった。それでも僕にはリメークの悪役の行動には無理があると思うが。だた、それでもなおかつ、充分に興趣にとんでいて、一見の価値はあるが。
なお、この西部劇の原作は、エルモア・レナードの「決断の三時十分」(「ミステリマガジン」八八年七月号所収)である。これもまたしぶい傑作。どう傑作かは、1月上旬発売の「本の雑誌」2月号を参照してください。原作→映画→リメークという順序で、ヒーロー像の変遷を追います。時代が要請するヒーロー像とは何かというテーマを考えると、とても面白いテキストになりますね。
■最近書いた文庫および単行本の解説から。
●佐伯一麦『石の肺 僕のアスベスト履歴書』(新潮文庫)
「佐伯一麦の小説が、数々の文学賞に輝いているのは、作品の完成度もさることながら、一人の作家の姿を通して、読者に己が人生を振りかえらせる力があるからである(本書に則していうなら、日本社会を振りかえらせる力がある)。作品には、人生の労苦を濾過してくれるような濃密な時間の流れがあり、人は、佐伯作品を読むことによって、大いなる慰めを得ることができるのである」
●佐々木譲『夜を急ぐ者よ』(ポプラ文庫)
「七〇年代に出会った男女がそれぞれの人生を歩んで十年後に、沖縄のホテルで再会する物語は波瀾にとみ、サスペンスも高まる。本書は一九八六年に発表された佐々木譲の初期を代表する作品であり、二年後に作者の最初の記念碑『ベルリン飛行指令』が書かれるから、本格的な物語作家へと飛躍する前の序奏ともいえる。・・佐々木譲の文学が本質的にもつ詩情は強い。・・佐々木譲ファンには見逃せない一冊だろう」
●リチャード・ボーシュ編『アメリカ新進作家傑作選2008』(DHC)
「・・ローレン・グロフの「浮上」は、本書の白眉ともいっていい、詩人と身体障害者の少女との愛の変遷である。・・愛の歓喜と昂奮が、忍び寄る死と不安と恐怖と対抗するかのように並行して語られていく。読者の予想をさりげなく外して、別のストーリーを展開させて、なんとも切ない、しみじみとした味わいを醸しだしていく。・・ラストに至ってはじめて、“浮上”というタイトルとテーマが提示され、驚き、感服し、こういう人生の時間もあるのだと深く感得してしまう。対象との距離の測定、挿話の選択、文章、比喩、キャラクターなどあらゆる点で申し分のない、とても優れた作品である」
●平安寿子『あなたにもできる悪いこと』(講談社文庫)
「・・その鮮やかなキャラクターと会話と、語り芸へのこだわりが、抜群のストーリーテラーとしての平安寿子を生み出しているといっていい。それは五百頁もある(平安寿子の代表作といっていい)『グッドラックららばい』が証明しているだろう。軽快に一気読みさせるのは何といっても語りの巧さだし、その魅力は本書にも健在である」
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