第26回 『あなたに有利な証拠として』

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■佐藤正午『身の上話』(光文社)

<書籍>


「私の妻の郷里は、私たちがいま暮らしている都会から、新幹線でおよそ一時間行ったところにあります。妻はその町で二十三歳になるまで、これといって特筆することもない人生を送りました。」

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 佐藤正午の『身の上話』の書き出しである。夫である「私」が、たんたんと妻(旧姓古川ミチル)の身の上話を語っていく。“初恋をふくめた少女時代の恋はぜんぶ、とうぜんながら初体験も故郷の町ですませたことになります”と、妻の恋愛話にも感情をあらわさずに冷静に述べていくし、人生の転機になる二十三歳の時の男性との体験も驚くほどクールに語っていく。

 どういう体験かというと、書店勤めをしていた古川ミチルが東京へ出奔した事件である。“妻には当時、つきあっている男がいました。将来を誓いあっているというほどではなくても、もしかしたら結婚することになるかもしれない、とはときどき想像してみるくらいの相手がいて、かれこれ一年以上も続いていた”のに、東京の出版社の営業マンの豊増と不倫をして、同僚たちの宝くじを買いがてら、そのまま豊増のあとをついて、東京行きの飛行機にのってしまう。


  こうしてミチルの東京での生活がはじまる。豊増がいて、竹井という幼なじみがいて、さらにその周辺に女性たちがいる。その東京での変転していく生活を、「私」は、妻からきいた話と、当時の関係者たちの心の動きを憶測しながら静かに語っていく。

 というと、まるでたんたんと人生が流れていくような、ある種小津安二郎的な静かな人生ドラマを想像するかもしれないが、逆である。まったく逆。不安と恐怖と狂気と焦燥が行間からあふれてくるジェットコースター的なサスペンスになっていく。ただし、語り口はあくまでも落ち着いているから、派手でおどろおどろしい響きはない。

 帯には「この主人公の流され方に、自分は違うと言い切れますか」「人間・人生の不可思議をとことん突きつめる、著者の新たな代表作の誕生!」とあり、カヴァーのどこにもミステリのミの字もないけれど、これはまぎれもなくミステリである。

cupplez200.jpg いまさら述べるまでもないが、佐藤正午の語りは名人級である。いまの日本の文壇で、もっとも語りのうまい作家は誰かときかれたら、僕は躊躇なく佐藤正午をあげる。今回も例外ではなく、「私」はなぜ妻の身の上話をするのか、いったいだれに向かって語っているのか、そしてそもそも「私」とは誰であるのかが終盤になって判明する。この「私」の劇的な登場がなかなか面白い。

 これは何も今回がはじめてではない。この「私」の劇的な登場は、噂話をあつめた見事な連作『カップルズ』(集英社文庫)でも、たぐいまれな恋愛小説『五』(角川書店)でもおこなわれていた。実に巧みに制御されて、どのように読者に驚きを与えるのかを正確に計測しているのである。それはこの『身の上話』でも同じだ。

 前作の『アンダーリポート』(集英社。ものすごい傑作!)のときも、ミステリにおける古典的なトリックを用いつつ、第一章が、読み終えたあとにもう一度もどって読まなくてはいけない最終章の役割を担っていた。第一章であると同時に最終章でもあるという離れ業をやったけれど、ここでも叙述のもつスリリングな側面を最後まで維持して堪能させてくれる。

 圧倒的なストーリーテリング、個性的で怖いキャラクター、読者の予想を裏切るストーリー展開と細かいツイスト、そして人間たちを結びつける不可思議な縁というテーマがあざやかだ。小説を読む喜びをとことん味わわせてくれる秀作である。

 


■小池昌代『タタド』(新潮社)

<書籍>

 

 

「タマヨもスズコもいとおしかった。風呂上りの二人はまさにすっぴんで、しわもしみもそばかすも
ぎっしりあったが、それをさらして自由であった。辛辣さと同時にあたたかさがあった。
彼女たちの存在じたいが掌だった。」(小池昌代「タタド」より)


 

 
 不思議な四角関係を描いた短篇小説である。川端康成短篇文学賞を受賞した逸品であるが、これがなかなか不思議な感触で、最後は不気味なエロティシズムがあふれて、妖しく陶然となる。そんな妖しさの一歩手前の場面の描写である。

 “しわもしみもそばかすもぎっしりあったが、それをさらして自由であった”というくだりがまずいい。そのやや直接的な表現が魅力をあまさず語っているから、“彼女たちの存在じたいが掌だった”という表現が、すこし生でも心にひびく。“存在じたいが掌”なんて、ふつう使えないが(使っても生硬に響くのに)、ちゃんと文脈で生かしてしまうところが、小池昌代だ。

 それにしても、若い人たち(とくに男性たちには)、“しわもしみもそばかすもぎっしり”あっても美しい人がいる、ということがわからないかもしれない。若くなくてもわからない人がたくさんいるかもしれないが。

tatado200.jpg 化粧している顔とすっぴんのどちらがいいかときかれたら、僕はすかさず、すっぴん! と答えるだろう。しみのない綺麗な顔とそばかすのある顔のどちらがいいかときかれたら、迷いなく、そばかすのある顔! と答えるだろう。女性たちは誤解しているようだが、男性はやせている女性よりもすこし太めの女性が好きだし(お尻は大きいほうがいい)、化粧している顔よりもすっぴんのほうが好きである。嘘だと思うなら、身近な男性たちにアンケートをとるといい。僕の考えは少数派ではなく、多数派のはず。ただし、若い男性はまだそのあたり、女性の成熟に関しては不明だろうから、僕とは逆の見方をするかもしれない。

 それはともかく、小池昌代の『タタド』(新潮社)である。ここには3つの中篇が収録されている。川端文学賞を受賞した表題作もいいが、「波を待って」という作品も、なかなか印象的だ。
 亜子(あこ)は、幼い息子の時雄とともに、浜辺で、沖の方を眺めている。50すぎてからサーフィンに目覚め、ひとり沖に出た夫の姿を追い求めているのだが、どこにも姿が見えない。物語はそんな浜辺で待つ亜子の心象風景を綴ったものである。そこにこんな一節がある。


 沖のほうをじっと眺めていると、亜子は次第に何を待っているのだか、わからなくなってくる。そして思い出したのは、奇妙なことに、時雄が通う幼稚園で、時折見かけるひとりの母親のことである。たたずまいの静かな凪を思わせる女性だった。
 日常生活では、ひとはたいていのものを、近視眼で見ることになる。でもときどき、沖を見るような視線に出会う。そのひとの視線はまさに、それだった。自分の子供というような、ごく近いところにあるものを見るときでさえ、物理的な距離とは無関係に、どこか遠い視線を使う。
 そのひとの子供はダウン症で、時雄のひとつ上のクラスに通っている。園児や親たちは、最初、好奇心をまるだしにして、障害を持つ子供の挙動とその影響を眺めていた。最初は確かに、園全体が混乱した。だが、いまでは子供たちが、一番自然に彼の存在を受け入れているように見える。
 彼女を見かけるたびに、亜子は涼しい木陰に入ったような気分を味わう。名前を知らなかったし、会話する機会も訪れたこともない。ただ一方的に、亜子が見つめるだけである。彼女が障害児を育てているということと、その視線のはるかさが、関係があるのかどうなのか、わからない。少なくとも、その、はるかな距離をもって、視線の先にあるものを、いつくしみ育てていこうとする静かな覚悟が亜子には感じられた。(「波を待って」より)


“たたずまいの静かな凪を思わせる女性”という表現は、かっこういいが、ちょっと上滑りだなと思う。でも、そのあとの文章で納得し、深く感じ入ってしまう。
kankouseikatsu200.jpg“物理的な距離とは無関係に、どこか遠い視線を使う”人は、“はるかな距離をもって、視線の先にあるものを、いつくしみ育てていこうとする”という。そんな“静かな覚悟”を、僕らはときに“諦観”という言葉に置き換えてしまうのだが、小池昌代はそのような便利な言葉を使わない。通俗的な枠で、人をみない。寡黙で、凪のような人の、静かだが毅然とした姿を、“遠い視線”であざやかに浮かび上がらせるのである。これこそ小説だろう。

 小池昌代はもともとは詩人であり、賞をたくさん受賞しているが、彼女の小説もまた素晴らしい。とりわけ小説のデビュー作といっていい『感光生活』(ちくま文庫)は傑作短篇集だ。『タタド』もいいが、入門としてはまず『感光生活』から入るといいかもしれない。普通のエッセイのように見せかけながら、次第にまったく違うところへと読者を運んでいく。その運び方が秀逸。それは上で紹介したように、独特の文章と感覚によるものである。さりげなく不気味で、どこまでも官能的な文章のふるえをぜひ味わってほしい。

 


■デイヴィッド・フィンチャー/『ゾディアック』

<DVD>

zodiac200.jpg 現実の事件に依拠したノンフィクション・ノベル、それを映画化した作品というと『冷血』『大統領の陰謀』『狼たちの午後』、あるいは『冷血』を書いたトルーマン・カポーティを主人公にした『カポーティ』などたくさんあるが、近年の収穫は、なんといっても連続殺人鬼を扱った『ゾディアック』(2006年。監督デイヴィッド・フィンチャー)だろう。

 “ゾディアック”とは、1968年から1974年にかけて、サンフランシスコで起きた連続殺人事件(警察が確認できた死体は五つ)の犯人が名乗っていた名前。警察や新聞への電話や手紙などで犯罪を誇示し、ときに挑発した劇場型犯罪の典型の一つである。事件は結局、迷宮化入りして、いまだに犯人も逮捕されないでいる。

 その迷宮入りした事件の謎を追ったのが、ロバート・グレイスミスのノンフィクション『ゾディアック』(ヴィレッジブックス)で、この映画はそれを原作にしている。ノンフィクションのほうは未読だが、原作者のグレイスミスも映画の脚本にも加わり、数十年にわたる事件の展開を追いながら、それにとりつかれた男たちの人生も濃密に捉えてある。事件の謎解きが行われると同時に、未解決の事件の虜になった男たちのドラマも確かで、ミステリとしても人間ドラマとしてもなかなか見応えがある。
 

 現実の事件に依拠しているので、犯人が捕まっていないこともわかっているのだが、しかし、この映画のミステリ的昂奮はなかなかのものである。ロバート・レッドフォードとダスティン・ホフマンが共演した『大統領の陰謀』も、大統領が犯した犯罪を緻密に追っていく過程はまさにミステリ的昂奮に溢れていて、ぞくぞくしたけれど、それと同じ昂奮が本作にもある。

daitouryou200.jpg タイトルの“ゾディアック”とは、時計に詳しい人ならピンとくるだろう。いうまでもなく、老舗の時計メーカーの名前であるけれど、その名前を連続殺人犯が名のっていたのは何故なのか。事実、本当にそのメーカーの時計が出てくるわけだが、それがある種の伏線になっていて、なおかつそこからまた二転三転するという細かい芸があって、もうやめられなくなる。

 ちょうどある雑誌の連載の仕事を詰めるまえに、ちょっと息抜きで、『ゾディアック』を見たのだが、もうとまらない。事件に振り回された男たちの荒んだ人生をざらりとした感触で捉えていてはなれがたいのだ。
 また、独自の調査で、犯人が誰であるかが見えてくるラスト20分が白眉。地下室の場面はものすごく怖いし、息をつめてどきどきしてしまった。

 見る前は、2時間30分もあるので、絶対に途中でいやになり、続きは原稿のあと・・となると思ったのに、結局休む暇もなく、一気に見た。しかも早送りもできないほど緊密で、いやはやよく出来ている。未読の、原作のノンフィクションが読みたくなった。特典映像では、監督のフィンチャーや原作者のグレイスミスがさまざまなインタヴューに答えていて、これまた事件や映画の背景がわかって見応えがある。レンタルで見たが、これは買ったほうがいいかもしれない。

 


■紙媒体に書いた書評から(書評の蔵出しです。すべてお薦め!)

●ミネット・ウォルターズ『女彫刻家』(東京創元社)→創元推理文庫
「・・(デビュー作の)『氷の家』もそうだったが、(第二作の)今回も新人とは思えないほど堅牢なプロットで、よくぞここまで巧みに構築したものだと感心してしまう。しかも人間性に関する鋭い探求の数々。イギリスの作家らしい辛辣さで、人間の根底にある悪意と隠された性的嗜好を痛烈に暴いていく。この見事なプロットと鋭い探求だけで読者は圧倒されるだろう。・・」--1995年9月3日付産経新聞読書面より

●ディーン・R・クーンツ『コールド・ファイア』(文春文庫)
「・・襲いかかる悪夢、見えてくる意外な敵、そして深く隠された真相と展開が実にスリリング。アクションあり、ロマンスあり、感動ありの、愛と勇気をたたえるクーンツ節はここでも健在、大いなるカタルシスがある。ここ数年のクーンツのベスト。宮部みゆきの長文の解説も一読の価値あり。採点は★★★★1/2」--「週刊文春」1996年9月12日号

●車谷長吉『赤目四十八瀧心中未遂』(文藝春秋)→文春文庫
「・・物語の底からたちのぼる禍々(まがまが)しい反社会的な臭いに圧倒され、主人公の考えや表現にからめとられていくのだ。/特に主人公と、背中一面に人面鳥身の刺青があるアヤ子との情事がいい。貧窮と絶望のなかでの狂おしい欲情と快楽を通して、作者は鮮やかに<生>の裸形を刻んでいるからだ。・・」--1998年8月30日付朝日新聞読書欄「売れてる秘密」より

●本多孝好『MISSING』(双葉社)→双葉文庫
「・・冷笑や老成や感傷とも無縁のところで対象を凝視する、その真摯な眼差し。真実の追求のときにでも、断罪するのではなく、いたわりをこめつつ提示し、それを主人公の内部にもう一度戻してテーマを際立たせる。その小説の確かさと巧さ。・・ほとんど完璧、そして感動的なデビュー作だ。」--「サンデー毎日」1999年9月5日号

 

 


 

 

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