山形小説家(ライター)講座だより...vol. 94(2016.12.1)


山形小説家(ライター)講座
 
10月講師:志水辰夫氏(小説家)
 
小説というのは、今までにない、人がやっていないことをやるものです。
プロットはいくら考えても、考えすぎるということはありません」
 
 


 10月の講師には、志水辰夫氏をお迎えした。
 1936年、高知県生れ。1981年、『飢えて狼』でデビュー。1986年『背いて故郷』で日本推理作家協会賞を、1990年『行きずりの街』で、日本冒険小説協会大賞を受賞する。1994年『いまひとたびの』で日本冒険小説協会大賞短編部門大賞を、2001年『きのうの空』で、柴田錬三郎賞を受賞。国産冒険小説ブームを牽引した、代表的作家のひとりである。




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 また、ゲストとして国田昌子氏(徳間書店)、別宮ユリア氏(文藝春秋)をお迎えした。
 

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 講座の冒頭では、まず世話役の池上冬樹氏(文芸評論家)が受講生に講師を紹介した。
「今日は志水辰夫さんをお迎えしました。前回は2007年なので、9年ぶりとなります。また、今日のゲストである国田さんと別宮さんは、この講座が始まった当初からの功労者なのですが、別宮さんは久しぶりにお迎えすることができました。今日はよろしくお願いします」
 
 続いて、志水氏も受講生にあいさつ。
「志水です、よろしくお願いします。講座に来たのは9年ぶりですが、あの後、新庄のほうの温泉に一回いきました。山の中の、何ていったかな……そうそう、肘折温泉。あそこへ行ったんです。9年前にも米沢のほうの温泉に行きましたね。今回も、明日はバスで鶴岡へ出て、羽黒山へ登る予定です。本当は月山に登りたかったんだけどね、私も来月でもう80歳になるので、ちょっと無理かな、と思って。もう寒いしね。」
 
 今回のテキストは、小説が3本。
・けい『わがや』(10枚)
・塩越憲治『鉄を編む』(79枚)
・佐藤広行『主嚥』(81枚)
 


◆けい『わがや』(10枚)
「私」は余命一ヶ月のがん患者だ。あらゆることをあきらめてその日が来るのを待っている。妻は毎日午後になると病院にやってきて静かに「私」をみつめ涙を流し、待つ者もいない家に帰っていく。
 ある日、どうしても家で、二人で居たいと言い出し、瀕死の「私」は妻と自宅に一時戻ることになったのだが・・。
 
・国田氏の講評

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 導入もうまいし、文もこなれていて、すごく書きなれている方の作品ですね。すいすい読み進めさせる力があります。63歳で末期の膵臓ガンと宣告された男の人生の最期、まあまあ幸せな人生だったと述懐してゆくかたちで物語が進みますが、その記述がとても上手です。淡々とした表現のなかに時おり、ユーモアのセンスが光っていて、対象との距離感がうまいと感じました。
 ところが、妻の希望にそって、瀕死の状態で帰宅したら、やさしかった妻が豹変。死にそうな自分に株を売れとパソコンをひらくは、株屋あいての受話器を押しつけるはという、“鬼女”になる。この最後の頁の6枚目は、力業で唐突な幕引きをしたという感じがしました。私は、このあと、もっともっと過激にしっちゃかめっちゃかになってゆくと、物語がどう転がるのか読みたかった気もします。前半の静かな人生末期の心理描写との対比が際立って、破天荒な不条理劇になって、それも面白いのではないかと思いました。
 もっと読みたい、これでは物足りないという気持ちになるのはなぜか。10枚でいいのか、枚数を多くした作品を読みたかったです。作者はホラーにしたかったと、先ほどおっしゃっていましたが、もっと枚数を費やして、過去の妻とのエピソードなどを積み重ねてゆくと、具体的なシーンのなかで、日常に潜む危うさ、怖ろしさが浮き上がってきて、ホラーへの伏線がうまれてくるのではないかと思います。お時間が足りなかったとおっしゃっていましたが、ユーモアのある文体で、もっと作品を読みたいと思わせる力があるので、どんどん書いて頂きたいとおもいました。
 
・別宮氏の講評

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 この短さで、この内容をやろうと思われたところがチャレンジングだなと思いました。 限られた枚数の中でやる、というのはたいへんテクニックがいるので、思い切って書かれた方だと思います。
 最後に反転する、ホラーじみた感じでやりたいという狙いはたいへんよく分かりましたし、ご本人がそういう意思を持って書かれた作品だ、ということは評価したいと思います。
 ただ、ご本人もお気づきかとは思いますけど、やっぱりひねりが足りない。この枚数では、ご自分がやりたいと思ったことを書くには、技術的な面も含めて、ちょっと中途半端だったかな、という気がします。こういうショートショートぐらいの長さで本当に質の高いものを書こうとしたら、じゃあどういう話の展開にするのか、どういう小道具を使うのか、どういうふうに最後のオチを持ってくるのか。本当に死ぬ気で考えないと(笑)、完成度の高いものにはならないと思います。ご自身が本当に志を持ってお書きになったものだと思いますので、じっくり一度、本当に死ぬ気でやってみられるといいのではないかと思いました。
 
・池上氏の講評
 これは1人称より3人称にしたほうがいいですね。1人称で書くと、瀕死の病人のはずなのに元気に見えてしまうので。3人称で、客観的に見たほうがいいでしょう。
 それから、このオチはもうひとつ何かほしいですね。なぜかというと、あからさまにお金を求めている奥さんの姿が出過ぎて、コミカルになってしまっているので。ここはやっぱり冷静に、愛している夫婦の姿を装って、ついでにさりげなく、ネット投資の株を売ってくれませんか、と静かに言ったほうが、愛があるのか? それとも金が惜しいのか? その辺のミステリアスな感じが出る。そういう、誰もが持っている怖さというか不安のようなものを、じんわり出したほうが、落ち着いた終わりになります。
 たとえば、実は亡くなる前に株はきちんと処分してありました、というようなひねりを加えてみても、もっと面白いオチになったでしょう。
 
・志水氏の講評

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 ショートショート風の作品ですが、うまくまとまっていると思います。感情表現と展開が巧みで、流れが自然なので、すらすらと読めます。とくに、主人公が自分の心情を述懐する、独白の部分は秀逸で、リアリティがあります。小説の基本はきっちりと押さえられている、と思います。
 心理描写の反面、視覚、つまり目で見た部分の描写はいまいち、ちょっとぎこちない。言葉も足りないし、構成も、プロットがちょっと安易なんです。どこが安易かといいますと、病室の場面がありますね。病室で、この部屋代を払えるのかどうか、と奥さんや子どもたちが心配していて、本人は寝たふりをしながら聞いているという。こういう設定というのはね、いかにもありきたりでしょ。テレビでしょ? ここにこう画面があって(手で四角を描きながら)手前にベッドがあって、そこに横たわった病人が寝てて、その向こうに奥さんと子ども2人が話をしている、そういう画面でしょ? まさにテレビなんです。
 こういうね、安易なのは、わざとらしさは避けていただきたいんです。それができるのが、小説なんです。避けるところから、小説は始まると思ってください。小説はいくらでも工夫ができるんです。いかにも、パッとそういう画面が浮かぶようなのは、やめたほうがいいです。
 それから、最後の処理もいまいち納得がいきません。なぜここで株が出てくるのか。これほどの主人公なら、自分の終末の処理はしっかりしていると思うんです。それが、なぜ株だけ未処理のまま持ち続けているのか。妻に隠してあった株なら、まだそこにひとつ面白いものが出てくる。その理由が何か、というまた別の小説の面白さが出てくるんです。
 そういうことからいうと、これはやっぱり、プロットにもっと時間をかけてください。いくら考えても考えすぎるということはありませんから。小説というのは、今までにないもの、人がやっていないことをやるものです。それができるんです、小説には。それは常に考えて、これから作るようにしていただけたらと思います。


◆塩越憲治『鉄を編む』(79枚)
 親に捨てられ、児童養護施設で中学を卒業した柿崎洸(ひろし)は、東京で超高層ビルの鳶となった先輩の姿を追い、室蘭で鳶職見習いとなる。
 初の梁組みの現場で、洸は危うく鉄骨から落ちそうになり、社長からあきらめろと言われる。だが洸には鳶の仕事をどうしてもあきらめられない理由があった。やがて洸は、命がけの訓練を経て一人前の鳶となるが、現場で喧嘩に巻き込まれ、地元ゼネコンから出入り禁止の処分を受ける。
 そんな時、山奥のダム建設工事現場で、偶然、落ちぶれた父を見つける。洸は、超高層ビルの鳶を目指し、父と一緒に東京に出る。鳶の親方まで登り詰めた洸は、話題の超高層ビルの建設現場で、変わり果てた先輩と巡り合う。先輩と酒を酌み交わし、鳶が背負うもの、曳きずるもの、様々なことを洸は学び、改めて先輩を永遠の目標と定める。
 
・国田氏の講評

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 たいへん面白く拝見しました。塩越さんのお作品を前に拝読したときに、オススメしたのが、小関智弘さんの『春は鉄までが匂った』(ちくま文庫)でした。小関さんは直木賞や芥川賞の候補になった後も、70歳過ぎまで51年間、現場で旋盤工を続けながらご執筆された作家です。塩越さんに小関作品の素晴らしさをお伝えしましたが、今回、塩越さんの『鉄を編む』を読んで、小関さんの『春は鉄までが匂った』も再読したくなりました。
 この作品では、塩越さんならではの実際の労働現場のディテール、そこに生きている人たちの物語を読ませていただきました。
 しかし、もどかしかったのはこの物語がいつ頃の話なのかが、なかなか分からない。ようやく、4枚目に出てくる、昨年完成した西新宿の東京都庁の建設現場という記述で、1980年代からの少年の物語と判明します。都庁ができた1990年に、とび職の先輩が、主人公の少年のいた施設にやってくるというところまで、読者にはいつ頃を舞台にしているのか分かりません。いつの時代が分からないと、読んでいてもどかしいです。たとえば、家賃が5万円、という記述があって「地方都市でベニヤで仕切った部屋にしてはちょっと高いかな、いつの時代なのかな」とか、疑問が小説世界にひたりきるのを邪魔します。電子レンジが出てくるので「どの時代から電子レンジは一般的に普及していたのかな」とか、そういう細々したところがちょっと気になりました。
 物語を生かす社会背景として、年代がわかるようにすると、小説世界のリアリティが深まってきます。たとえば流行歌が出てくるとか。その歌が主人公の気分にどう作用するかイメージ出来る。すると地の文や、セリフで記述しなくても、その作品世界が豊かに想像できる可能性があります。
 あと、専門用語ですね。「ジャッキフロート」とか「アンカーボルト」とか、いろいろ具体的に専門用語で説明されるところがあります。それは作品の特色としていいんですが、その機械が何かはわからなくても、どういうことをやっている機械なのかが読者にわかるように、記述してほしいと思いました。
 最後に、家族のいい話にまとめたいなと思われて、こういう意外な再会の結末にされたんでしょうが、ハッピーエンドにもって行くための予定調和的なとってつけた感が残りました。この主人公の成長と、社会の中にひとつの居場所を見つけていくところに、焦点を当てたほうが、この枚数ではまとまりがよくなったかと思います。お父さんのタコ部屋の話だとか、工夫して見せ場を作ろうとしている意図は分かりますが、さっき志水さんがおっしゃったように、プロットにより時間をかけて、しぼりこんでゆくと、この作品はもっと素晴らしくなったと思います。
 
・別宮氏の講評

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 まずですね、一読してこれは、短篇小説ではなくて、長篇小説のプロットだろうという印象を持ってしまいました。少年時代から、鳶として一人前になっていく男の、一生とまではいわなくても相当長い年月のことを書くのに、80枚というのはやはりサイズが合わなかろう、というのが最初の印象です。
 細かいところを読んでいきますと、現場のことをよくご存じなんだろうなと思いました。国田さんがおっしゃったように専門用語がたくさん出てきまして、正直、私はちょっとわからな過ぎかなと思ったんですけど、それは書きようによっては強みに、武器になると思うんですね。ですから、長篇のプロット風にしてしまうのではなくて、人生のどこか1エピソードを切り取ったときに、専門的な知識で細かい描写をすると、その専門性が活きてきますし、「自分は何が書きたいのか」というところにもう一度立ち戻って、お考えになったらば、だいぶ印象の違うものになったのではないかと思います。
 専門性というのは、武器にもなれば、それに頼り過ぎて読者を置いてけぼりにしてしまうこともありますけれど、そのことを意識して書かれたらいいんじゃないかな、と思いました。
 
・池上氏の講評
 いま別宮さんが「長篇小説のプロット」とおっしゃいましたが、まさにそうですね。ずっとストーリーの説明と会話で長すぎる。冒頭は、説明ではなく、まず描写からはじめないと。ひとつの場面からはじめる。そしてフラッシュバックで主人公の背景を見せていけばいいんですよ。いきなり頭から、こんなふうに少年時代を過ごしました、と説明されても、単にあらすじのように思えてしまう。
 何よりも、この枚数では登場人物が多すぎるし、時間も長過ぎる。家族のエピソードはいらないと僕は思う。塩越さんは家族の話を書きたいんでしょうけど、これは鳶職の成長の話にして、家族を出す必要ない。こういう優しいハッピーエンドにする必要もないので、もうちょっと、先輩との関係や、不幸のあった家に生まれた人間が現場で成長していく、その話で絶対いいと思います。
 あともうひとつは、カギカッコの会話で全てを説明しないこと。メリハリをつけて、大事なところを会話にして、あとの説明は地の文で紹介するというやり方がある。
 
・志水氏の講評

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 これは一種のビルドゥングスロマンですね。ひとりの男が、様々な人生経験を重ねながら、成長していく自己形成物語です。鳶職の仕事というものが丁寧に描かれていて、その題材に目を付けたことをまず褒めてあげたいと思います。素材の面白さで、最後まで読ませます。ただし小説としては、必ずしも成功しているとは言いがたいです。
 さっき池上さんも言ったように、少年時代から20何歳に至るまでの時間的スパンを、この枚数に全て詰め込もうとしたから、小説としては中途半端にならざるを得なかったんです。仕事の内容かどこかの時点か、ポイントを絞って物語を形成したら、ちょっとほかの人には真似できない、ユニークで濃密な小説になっていただろうと思います。
 小説は「何を詰め込むか」ではありません。何が必要で、何が必要でないか、その選別をきっちりすることです。
 この作品では、池上さんも言ったように、父親や母親、妹などは必要ありません。数行の説明で済ませられる存在です。では小説の肉付けをどこでするか。主人公が下回りの見習いとして、第一歩を踏み出した日に、重い工具箱を持つといきなり一喝されますよね。そういう持ち方をしたら腰を痛める、と。腰を痛めない持ち方、というのがたしかにあるんです。その持ち方をすると、たしかに最初のうちは筋肉が痛んで、足が突っ張って痛いんです。その痛みが何日も続くんです。そういうことが書いてあるだけで、小説としての肉付けになるんです。
 そういう観点で眺めてみると、この作品には至る所に宝の山があるんです。鳶になるための足さばきのコツだとか、バランスのとり方とか、いろいろあります。とくに、夜の埠頭を歩いたり、橋の欄干を歩いたり、というのはものすごく面白いんです。ところが、具体的なことが何も書いてない。読む者にとっては「これは知りたいな」と思うんですが、言葉が放り出してあるだけで何の説明もない。せっかく宝の山を掘り出していながら捨てているようなもので、実にもったいないと思います。
 自分はこの小説で何を訴えたいか、それも含めて、ストーリーを作るときには徹底的にプロットを煮詰めていただきたい。いくら考えても考えすぎることはありません、それだけです。
 私は、プロットを練るときは長いあらすじを書きますし、モノにならないときは捨てます。千枚以上書いて、捨てたこともありますよ。それを「もったいない」とは思いません。プロというのは、いくらでも泉が湧いてくるものです。アマの人ほど捨てられないものですが、思い切って捨てなさい。それで湧いてこない泉であれば、プロにはなれないですよ。
 


◆佐藤広行『主嚥』(81枚)
 赤座藩は先の藩主・猪田但馬守派とその子である采女派に分かれていた。ともに重臣である市之助と清兵衛は但馬守派に属していた。
 ある夜、市之助と清兵衛は但馬守からの酒宴の席に呼ばれる。しかしそこにいたのは采女であった。采女は但馬守はすでに死んでいる、赤座のために力を貸せとせまる。
 あくまで拒もうとする市之助たちだったが、二人の前に但馬守の身体の一部が入っていると思われる椀が供され、采女は食えと迫る。食わねば妻子もろとも斬ると脅される。清兵衛はそれでも拒むが、市之助は屈してしまう。
 
・別宮氏の講評

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 佐藤さんの作品はもう何度か読ませていただいていて、この講座でも古株の方だと思います。ということもあるんですけど、3本の中で一番小説らしい小説、短篇らしい短篇だと感じました。決してあらすじ的にたらたらと書くのではなくて、きちんとメインとなる舞台設定があって、そこに適宜カットバック、フラッシュバックみたいな形でやっていく。そのあたりは、きちんとした短篇としての構成ができているなと思いました。そういう意味でも、安心して読める作品と思います。
 ただ、やはり私も一番気になったのはカニバリズムのところでした。決してそれ自体を否定するつもりはないんですけど、この作品の中では浮いてしまっていたので、一読して嫌悪感を持ってしまいました。もうちょっと人物造形だとか、段階を踏んでいればそこまでには思わなかったと思うんですけど、私が読んだときには、この短篇を派手にするためにくっつけたような印象を持ってしまったので、そこがちょっと残念でした。
 それともうひとつ、基本的にこれは市之助の視点で描かれているんですけど、市之助が一番はっきりしない人物になってしまっています。最後の、清兵衛が斬られるシーンでは、お夏という彼の奥さんのことが頭をよぎって、結局彼を見殺しにすることになったのか、とか。その辺の、お夏に対する思いも中途半端というか、あるいはとってつけたような感じがありました。語り手がどういう人物なのかは、もうちょっとしっかり描いていただきたかったなと思います。
 ただ、これはかなり高望みといいますか、レベルが高いところでのお話ですので、全体的には非常にいい、完成度の高い作品だと思います。
 
・国田氏の講評

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 たいへん読みやすく、しかもきちんと書けている作品と思います。心理サスペンスというか、演劇的な感じがしました。殿様である采女に対し、勘定奉行の市之助、家老である清兵衛が繰り広げる、前の藩主への忠誠心と現藩主の意図の探り合いで物語が進むのですが、非常に演劇的な空間の中での心理劇という趣きです。
 佐藤さんは、この息詰まるシーンが書きたかったんだろうな、と感じました。ですが、このテーマでこれだけだと、尺はこんなにいらないのではないでしょうか。30枚にまとめると、このシーンの3者の緊迫した構造が生み出すサスペンスが際立つのではないでしょうか。
 あるいは、もっと長く物語をふくらます方向が考えられます。先代の殿様を押し込めるときに、采女派と但馬守派が、どういうふうないきさつで葛藤があったのか。「つばぜり合いが続いた」という1行だけで説明しています。たぶん双方かなりの暗躍があって、処刑されたり腹を切らされたりした人がいたとは書いてありますが、具体的な描写はない。それらを記述してゆく。それから、この時代において市之助と清兵衛が藩政でどんな実績を挙げて、どんな政策を推進してきたのか。それが具体的にエピソードとして、書かれていれば、采女がどうしてこのふたりを欲しいと思ったのかわかります。しかし、今の長さと形では、それは具体的に書かれていない。市之助の財務の才というだけで、采女がほしがるというのはあまりリアリティがない。簡単に納得は出来にくいです。ですから、それらのエピソードをどんどん積み重ねて描きこんだら如何でしょう。
 具体的に、どこを開拓してどんな商人を入れて、どんなプロジェクトがあったのか、具体例があると、このふたりが、これからの藩にとって必要な人物だ、ということが読者にもわかると思います。それがない今の状態ですと、他の家臣は処罰しているのに、どうして采女はこのふたりだけを呼びつけて「力を貸してほしい」と直々に頼んだのか、読者に伝わらないと思いました。
 枚数を多くして、双方の暗躍や、市之助たちの藩政への改良策などを具体的に書きこむ長篇という方向でゆくのか、あるいは、3人の心理サスペンス的な、緊迫したシーンに特化して切れ味のいいハードボイルド的な心理劇として、30枚以内にまとめるのか、決めて改めて描き直したら、如何でしょうか?

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 あと、気になったのが、清兵衛の胆力が並々ならぬ、と市之助の心理で何度もでてきます。しかし、剣は強いかもしれないけど、こんな時期に酔っ払って隣の家に帰るにも肩を借りなければいけないだらしない剣の達人はいるのか、疑問に思いました。これはちょっとあり得ないと思いましたが、如何でしょう。剣の達人だったら、いくら酔ってもちゃんと自分を律することができるのでは? その酔い方には何か意図と理由があるなら別ですが。そこら辺で、清兵衛のキャラクターは、読者として、矛盾を感じました。
 藩主の采女はちゃんと理論的にものごとを考えているのに、市之助と清兵衛は、先代への忠義はわかるんですけど、あまりにも頑迷で、あまりにも世の中が動きが見えていない。しかも物の見方が単純過ぎる、というふうに私には思えてしまいました。
 そのことと、忠義とは何かということをお書きになりたかったんだと思いますが、エンターテインメントとしてはもっと具体例がほしかったです。あと、三者の心理を描いていくというところでは、どこか文学的に感じる部分もありました。なので、どちらに行くのか、自分の中でしっかり決めて書いたほうがいいと思います。
 あと、細かいところでは、たとえば最後のクライマックス、24枚目で、采女が清兵衛の「手を放した」と書いた直後の頁ですが、同じ続きのシーン25枚目で、清兵衛は采女の「手を振りほどいた」と書いてありますね。あれ? 手を離したのに、また手を降りほどいていると思ってしまいました。采女は清兵衛の手を再びとらえてはいないので。なので、こういう緊迫したシーンでは、特にしっかり推敲してほしいです。
 そして市之助の心理はしっかり書いてありますが、自分の心理の説明を、地の文で延々と続けています。こういう地の文での心理の説明はいらない、と私は思います。
  力のある方なので、自分が何を書きたいかという部分と、読者が物語を何処で楽しむのかを意識されてご執筆されると、今後は、より素晴らしい作品が生まれると思います。
 
・池上氏の講評
 では僕は簡単に。難しいのはですね、市之助はずっと、傍観者というわけではないんですけど、追い詰められていく過程はわかるんですけど、でも何かもうひとつふたつ、リアクションがあったほうがいい。この場合はやっぱり、清兵衛との関係ですよね。清兵衛のほうにも、自分の弱さを見せたくないんだけど見せざるを得ないようなところ。で、清兵衛がそれを知った瞬間の落胆でもいいんだけど、それを見越して采女が何かをする、というね。
 殺人でケリをつけてしまって、それを傍観せざるを得なかった。自分が全然タッチしないところで殺人が起きて、そこで事件のケリがつくというのでは、短篇として面白くないなと思いますね。
 人肉はいいんですけど、さっき別宮さんが言ったように、派手にするための仕掛けとして使っている部分がありますね。タイトルの『主嚥』というのは何だろう、と思っていたら、これかと意味がわかるんですが、人肉を使うのであればもうひとひねりがほしい。人肉かと思ったら実は違った、でもいいし、逆に食べた後で人肉だったとわかってもいいんだけど、じゃあなんで人肉を食べさせるのか、というところでもっと議論があってもいいんじゃないかと思いました。
 
・志水氏の講評
 これはたいへんな力作で、かつ秀作だと思います。寸分の隙もない構成、畳み掛ける文体、全篇にみなぎる緊迫感、一気に読ませる筆力。作者の力量が並々でないことは、この一篇でよくわかります。

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 全体が4章に分かれていますが、これらが全部ひとつの場面なんですね。時間的には2時間ぐらいの経過に、全てを凝縮して、登場人物を最小限に絞ったプロットは、みごとです。これはプロット作りの手本にしていいと思います。ということは、この人はかなり、プロ一歩手前まで到達しているといっても過言ではありません。
 この小説自体は、歌舞伎を見ているような台詞回しと所作、作者なりのこだわりと美学があってのことだと思いますが、この演出は、賛否分かれるかもわかりません。やや一本調子なんですね。そのために、息の抜けるところがない。ふくらみを持たせようとして、子どもたちや妻たちを出したりもしているんですけど、様式に挿入したにしては現実味が勝ち過ぎて、バランスを欠いています。とくにおしまい、お夏の取り乱しようは、作品の値打ちを落としていると思います。お夏が最後に、愚かしさや憎しみや醜さをむき出しにして狂いますが、もしこれが、顔色こそ蒼白になっているけれども、お夏がいささかも取り乱さず、逍遥として引かれていったら、いったいどうなりますか。こちらのほうが強いでしょう。そして、最後の最後になって、市之助のほうにちらりと一瞥をくれる。そのときの、市之助のショックはどんなものか、わかりますか。そういうことを、もうちょっと考えていただきたい。ただ、最後の一瞥に重きを置いたら、テーマは変わるかもわかりません。もっと別なテーマが浮かんでくるかもわかりません。
 これは物語の性格上、クライマックスが非常に長くて、陰惨で、読後感が良いとは決して言えません。なぜこういう物語にしたのか、ちょっと疑問です。これほどのものが書ける作者なら、もっと違う感銘の与え方があったと思うんです。読者に与える力とは、いかなるカタルシスを与えられるか、ということなんです。ハッピーエンドを望むわけではありませんけれども、何らかの快感。読み終わったときに快哉を叫びたくなるような、昂揚感がほしいんです。小説は作者の自己満足に終わってはダメです。恥ずかしいですが、私にも若いころには自己満足の作品がありました。いまとなっては、あれは取り下げたい、無しにしてほしい、という作品がいっぱいあるんです。
 小説は、自己満足に終わっちゃダメです。そういうことを頭に置いて見直したら、この作品の至らなさも見えてくると思います。要求レベルが高いかもわかりませんが、それができる作者だと思いますので、あえて注文をつけます。
 
 あと、ちょっと聞きたいんだけど、この講座のテキストには、枚数の規定はあるの?
 
(池上氏「80枚が上限です」)
 

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 これはね、僕は20枚のほうがいいと思う。20枚を1枚でも超えたら批評しない、と。私はいままで小説講座を何回かやりましたが、「20枚で書け」と言ってもなかなか守ってくれないんですよ。平気で200枚も300枚も持ち込んできて「読んでください」って(笑)。20枚と言われてるのに、平気で300枚も持ってくるような神経のやつに、ロクな作品があったためしはないんです。
 なぜ20枚かというとね、20枚あれば全てわかるからなんです。ここで発表される作品は、作者の技量をはかるための資料として提出されるものです。文章力自体は、はじめの2~3枚あれば、これは100%わかります。20枚というのは、短篇小説として必要充分な長さだからです。どういう題材を、どういうプロットで、どのように仕上げるか。小説として完成度がわかるんです。だから、佐藤さんにしても塩越さんにしても、この作品を20枚にしろ、と言われたらできますか?
 
(池上氏「山形新聞では20枚の短篇コンクールがあって、塩越さんは何度か佳作に入っているんです。今回は長めの作品を採用しましたけれども」)
 

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 そうでしたか。20枚に制限されるとね、何が必要で何を取ったほうがいいか、それを実際にやってみることが一番の小説修行になるんです。アマチュアの人ほど、自分の気に入った文章やパラグラフを捨てられない。けれども、客観的に見たら本人の単なる思い込みなんです。自分のこだわりと、小説の核心とは違います。
 捨てられるものは捨てなさい。職業作家になったら、いくらでも湧いてきます。結果として、あまりにも縮めてしまって、できあがった作品が当初のものとは全く違ってしまっても、それは構いません。習作として、本人の技量向上のため必ず役に立っていますから。
 私は小説家になる前に、週刊誌のライターを5~6年やっていました。週刊誌の記事というのは、レイアウトが先行するんです。したがって、最初に枚数が出る。第1章は13字×125行、第2章は13字×235行、というふうに出てくるんです。それに合わせて文章を書くんです。これはね、のちになって自分の技量向上にずいぶん役立っている、ということがわかりました。枚数に対するそういう感覚、というのはね。
 この場所は習作の場で、みなさんの修業の場なんです。ですから、そういう制約で苦しむことも訓練なんです。ただの1行はみ出した、そのこと自体に意味はない、単なる言いがかりですよ。しかしそれをあえて押しつけるのは、あなた方がまだモノになるかならないかわからない、徒弟だからなんです。兄弟子や先輩から、理不尽に足蹴にされたりぶん殴られたり、それを我慢することが修業だといわれても仕方ない存在なんです、徒弟というのは。枚数制限に意味がないと思いながらも、その通りにやろうとするのが、作家になりたいあなたの、気持ちの真剣度の現れであり、本気度なんです。俺はそんなの嫌だ、という人は、こういうところへは来ないほうがいいです。



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※以上の講座に続き、後半では「人工知能と小説」と題した講演や、作家としてのキャリアについて、小説を書くために最も大事なものなど、お話していただきました。その模様は本サイト内「その人の素顔」にてアップいたします。


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【講師プロフィール】
 
◆志水辰夫(しみず・たつお)氏
 
1936年、高知県生まれ。81年『飢えて狼』でデビュー。巧みなプロットと濃密な文体で、熱烈なファンを獲得する一方、『あっちが上海』などドタバタユーモア劇で読者の意表をつく。86年『背いて故郷』で日本推理作家協会賞、91年『行きずりの街』で日本冒険小説協会大賞、2001年『きのうの空』で柴田錬三郎賞を受賞。『情事』『暗夜』『生きいそぎ』『男坂』『約束の地』など。07年、初の時代小説『青に候』を上梓後は『みのたけの春』『つばくろ越え―蓬莱屋帳外控―』など時代小説に専念している。