「小説家(ライター)になろう講座」だより...vol.39(2011.12.13)

小説家(ライター)になろう講座
11月講師・村山由佳氏
「頭で考えたストーリーに、登場人物を奉仕させてはならない」

 


 

murayama2011.jpg  11月の講師は直木賞作家の村山由佳氏。有線放送アナウンサーや学習塾講師を経て、1993年に『天使の卵』(集英社文庫)で小説すばる新人賞を受賞し、小説家デビューされました。2003年には『星々の舟』(文春文庫)で第129 回直木賞を受賞。2009年には『ダブル・ファンタジー』(文春文庫)で大人の性愛を官能的に描いて新境地を開き、第4 回中央公論文芸賞、第16回島清恋愛文学賞、第22回柴田練三郎賞をトリプル受賞。文壇より高く評価されています。そのほか、『おいしいコーヒーのいれ方』(集英社文庫)シリーズ、『BAD KIDS』(集英社文庫)『翼 cry for the moon 』(集英社文庫)『遥かなる水の音』(集英社)『アダルト・エデュケーション』(幻冬舎)など多くの著作があり、恋愛小説の名手として幅広く支持されています。講師を務められるのは2008年に続き2度目となります。

 また今回は、ゲストとして高梨佳苗氏(集英社)、伊藤亮氏(集英社「小説すばる」編集部)、矢島緑氏(幻冬舎)をお迎えしました。
 

kaijomurayama11.jpg 講座は冒頭、本講座の世話役である文芸評論家の池上冬樹氏による講師と最新作『放蕩記』(集英社)の紹介から始まりました。前日に仙台市内で開催された、池上氏のコーディネートによる「せんだい文学塾」でも講師を務められたとのこと。ダブルヘッダーの疲れも感じさせない、村山先生の元気な挨拶から始まりました。

「こんにちは、村山由佳です。昨日は仙台のほうに泊まりまして、今日は朝からこちらへうかがいました。仙台からはバスで山を越えて来たんですけど、谷底にあこや姫伝説の立札があったり、遠くには奥羽山脈が神々しくそびえていて。それらを窓から眺めながら、自分のなかに沸き起こってくるこの切ない感情はなんだろう、美しいものを見てこんなに悲しくなるのはどうしてなんだろうと考えていました。そして、おそらくそれは、「世界の美しいものをぜんぶ知るには人生は短すぎる」という感慨なんじゃないかなって思ったんです。
 以前、シベリア鉄道に端から端まで乗る旅をしたんですけれど、そのとき車窓から外を見ながら感じていたのも同じことでした。
 小説というのはきっと、人が一生かけても見ることはできないかもしれない美しいものを、本を読むことで知ることができる、そのための扉なんじゃないか。自分が知ったものを人にも伝えたり、自分が切り開いた道を人にも使ってもらえたりするという、そのための行為のひとつが、小説を書くということなんじゃないかなと思うんです。
 なので、私の書いた小説が、それを読んでくださった方にとって、今まで持っていなかった扉や道になることを祈りますし、みなさんが小説を書くうえでも、自分の体を通って出てきた言葉によって、誰かに新しい扉を開けてあげる、その道を使わせてあげる――そんな小説の書き方をしていただけたなら、みんなで世界の美しいものを共有することができるんじゃないかなと思っています。
 今日は、そういうことなどを考えながら、三つの小説をテキストに、みなさんと学んでいきたいと思います。よろしくお願いします」
 

houtouki.jpg今月のテキストは、小説が3本。

・『金槌』(野田皐月/70枚)
・『家具屋姫』(チアーヌ/81枚)
・『アンダー・マイ・スキン』(松井薫香/50枚)

 


 

◆『金槌』(野田皐月)

 女性とも付き合ったことがない加藤宏泰はむなしい日々を送っていた。そんな折り、合コンの誘いが来て嫌々ながらも出席し、美月という女と知り合う。同僚の鈴木は知り合った女を妊娠させ、加藤にやつあたりをする。連絡をとって再び会った美月は、加藤に胸を触らせ、吸わせる。彼氏が海外出張中のため、欲求不満の解消に使われたのだった。次々に道具にされて、なかなか人生をうまく泳げない一人の青年の話。
 タイトルは、道具にされることと人生を泳げない不器用さにかけたダブルミーニング。野田さんは、楽しみもなく底辺で生きている、愛嬌のない男性を書いてみたかったとのこと。


●矢島さんの講評      yajimamidori.jpg
 

 すっきりしたストーリーでありながら、なかなか物語に入っていけないように感じるいちばんの要因は、主人公の男性に整合性がないことだと思います。整合性なんてないのが人間だし、だからこそおもしろいのですが、そう書かれているわけでもない。一人称の「僕」と「俺」が変わる瞬間になんらかの法則や必然性が見られなかったり、ぜんぜん女性とつきあいのない男性が突然出会った女の子に「女ひとりで夜出歩くなんて危険だ」と言ったり。合コン会場に着いたとたん「やっぱりぼくはヒーローになれない」と嘆いたり、ちょっと何人かに話しかけられただけで「どうしてこうも僕に取り入るんだろう」と思ったりとか、本当にこの人は何を考えているのか、心の動きが掴めないまま読みました。そのなかで、「合コンに行って、自分が将来、結婚をするかしないかを考える」という感覚なんかは、ちょっと不思議というか面白いと思ったので、もう少し書いていただきたかった。
 場面の展開も唐突なので、もっと丁寧に、読者を導く工夫が必要だと思います。孤独な青年が、突然現れた女性に童貞を奪われて、夢中になったらたちまち捨てられる、というベースはすごくいいと思うんです。ドストエフスキーの『白夜』みたいなものになりうるんじゃないかなと思ったんですが、あれは夢想家の主人公が、変人ながらも魅力があって、ラストシーンも切なくて印象的。そういうものがやっぱり必要じゃないかと思いました。


●高梨さんの講評        tensinotamago11.jpg

 作者は若いかたなんだろうな、と思いながら拝読していました。何かを訴えたいというエネルギーをすごく感じる作品だと思います。
 ただ、読み終わって、何がいちばん書きたかったのか、何をいちばん伝えたかったのかが、見えてこなかったのが残念だなと思いました。作者のかたもおっしゃってましたが、夢も希望もなくて生きている人の話というのは、最近だと芥川賞の西村賢太さんなども書いていらっしゃいますが、そういう主人公で読者をぐっと引き込むのは、すごく難しいことだと思うんですね。そういう境遇のかたが自分の愚痴みたいなことを、どんどん自分の独白で出してしまうと、なかなか読者がついて行きにくい。この設定自体が悪いというわけではないと思うので、工場で機械の一部のように働いているところなどを、独白で書いてしまうのではなくて、その行為自体を淡々と具体的に描写して、読者が彼の気持ちを想像できるようにしていけば、もっと入り込むことができたんじゃないかと思いました。
 それと細かいことですが、日本語の使い方はもうちょっと丁寧にしてください。接続詞とか、意味を成してない部分があります。意識して、口語とは使いわけていったほうがいいと思いました。


●伊藤さんの感想

 個人的にルサンチマンを描いた小説は好きなので、その点ではとても面白く読みました。しかし、一番の問題は「主人公に共感ができない」ということだと思います。不器用な人物が主人公の小説というのは、読者の共感を得ることが大事だと思うんです。
 なぜ主人公に共感できないかというと、加藤はひたすらに個人的な悪態をつき、愚痴を言っているだけだからだと思います。それでは読むほうは共感できない。解決策としては、悪態自体にユーモアを持たせるという手法があるのではないかと思います。あとは、主人公をもっとひどい目にあわせる、つまり、主人公に同情させるといった手法もありうると思います。そうやって読者に共感させることを意識すると、もっと面白くなるのではないでしょうか。
 全体的に自分の小説を客観的に見ることができていないように感じました。書いた後、一度忘れて客観的に読んでみる。主人公はどんな人物で、このシーンではどんな気持ちでいるのか、といったことは作者は全部わかっているはずです。だけどぼくにはあまり伝わってきませんでした。いったん記憶をなくせといっているようで難しいですが、本当に伝わっているかどうか、書いた後に「読者」となって、客観的にもう一度読んでみるということをしたらいいのではないかと思います。


●池上さんの講評          ikegamimurayama11.jpg

 伊藤さんとほとんどかぶるんですけど、読者は主人公の目を通して世界を見るので、主人公の目がしっかり読者に伝わるように改善しないとだめですね。主人公の加藤が、女を見るシーンがありますけど、全然描写がない。「女がいる、声がする」というけれど、じゃあどういう声がして、どういうふうな女性を加藤は見たのかというのが、全然書いてない。だからわからない。読者は何も想像できない。
 そもそもこの加藤というのは、どういう女性が好きなのかもわからない。男はみんな好みがありますから。そういった欲望の形ですね、どんな女性が好きで、どんな女性が嫌いなのかを書く。背の高いほうが好きなのか、背が小さいほうが好きなのかなど、具体的なものをきちんと書いてはじめて、加藤という存在が伝わり、加藤が目にしている女性の存在がくっきりと見えてくる。
 加藤は童貞ですから、女性にほいほいついていくこともありますが、それでも何がしかの葛藤や思いはあるはず。自分の好みに合わないけれど欲望が抑えきれないとか、性格は好きそうにないがスタイルがいいから負けたとか、そのスタイルだって胸が大きいからいいとか、いやお尻が大きいからいいとか、それぞれ違うんです(笑)。そういう具体的なものを書いてくれないと。小説は具体的な細部の連続を書いて、はじめてリアリティがうまれるんです。
 それからこれはみなさんにいえることですが、自分が何を書きたいのか、それをつきつめて考えることです。作者が何を書きたいのかわからない小説は、読者にとっても、何を書きたいのかわからないんです(笑)。


●村山さんの講評           mudaimurayama11.jpg

 この『金槌』というタイトルはもしかして、途中で心中の話などが出てくるので、そのあたりのイメージを重ねて「泳げない」「人生の海を泳げない」男の話、という意味なのかな、と解釈したんですけど、それにしてもちょっと内容から遠すぎますね。「自分だけわかって書いている」ところがあると思いました。
 さっき高梨さんもおっしゃっていましたけど、「なにかを書きたい」という、エネルギーみたいなものはとても強いと思うので、それは大事にしてほしいんです。そこはいいなと思うんですけど、その「なにか語りたい」という気持ちの中身を、読者にちゃんと伝えるのが小説なので、そのためにはいろんな手続きを踏まなくちゃいけない。冷静に計算して、一つひとつ手段を選んでいかなくちゃいけないんです。
 この話に出てくる、ちょっとわかりにくい主人公。なんのために、なにを喜びとして生きてるのかもわからない。そういうわけのわからない人間を書くのは、とても面白いことだと思うんですけれども、それならそれで、「わけのわからなさ」をちゃんと描写しないといけないんですよ。読者のほうに「こいつ、わけわからん」と思われたのでは、なにも伝わっていないことになってしまうので。
 この話のなかに、主人公の独白が何度も出てきますね。「僕のどこがいいんだ、それを教えてほしい」とか「僕はいったい何だったんだ」とか。それに対する私の感想は、「どこがいいんだか、こっちこそ教えてほしいよ」「そうだよ、あんたいったい何だったんだよ」というものでした。読者に、そう思わせちゃダメなんです。
 「僕はいったい何だったんだ」という気持ちそのものを、読者に共感させなくちゃいけない。そこがとても難しいところで、そのためには、途中の描写に、ありえないことをひとつでも書いちゃダメなんです。ひとつでも不自然なことが小説のなかに出てくると、「エーッ、ありっこないよ」と思われて、最後まで読者を連れていくことができなくなってしまうので。oisiihi-hi-.jpg
 みなさんが指摘されていたように、女性慣れしていない二十歳の男が合コンに初めて出るときに、「結婚相手を探す」なんてことまで、ふつうはあんまり考えないですよね。考えると思うのだとしたら、自分の感覚が人と違うのかもしれないと、自覚した方がいいと思う。たとえば、「この中にもしかしたら未来の彼女なり嫁さんがいるかも」と夢見がちになる、というんだったらまだわかります。でも、もしそういう夢見がちの男の子なんだったら、最初から夢見がちな男の子として描写しなくちゃ、整合性がなくなっちゃう。
この、人生を斜めに見ているような主人公なら、むしろ「このなかの女の誰一人、俺とは結婚してくれない」と思うはずだ、というふうに読者は読む。それでもなお、「このなかに誰か俺の結婚相手がいる」って主人公に思わせたいのなら、うっかりそういうふうに思ってしまった自分を自分で嗤(わら)うくらいのところまで描写しなきゃ、読者は納得できないですよ。
 金槌という、道具としてしか使えないような、底辺の男のことを書こうと思うのは、それは意欲的でとてもいいと思うんですが、悲しいかな、作者自身の目が底辺にまで落ちてないんですよ。とくに一人称でものごとを書くときには、徹頭徹尾、主人公の目線でものごとを見ないといけません。それはとてもとても難しいことですけど、主人公と同じところまで作者自身がきっちり落ちる、昇るなら昇る、ちゃんとそのうえで物事を見ているかどうか、何度も何度も自分に問いかけてください。
 それともうひとつ、これはとても基本的なことですが、二つの主語がひとつの文章にまとまっている部分があります。これは絶対にしてはいけないことです。きちっと自分の文章をひとつひとつ見つめて、読者に誤解なく伝わるかどうか。自分の意図がちゃんと伝わっているかどうかを積み上げていけば、この強いエネルギーが読者にも通じるようになっていくと思います。話の間にいろんなモノローグも出てくるんですけれども、思いつきでなにか書こうとしないで、本当に冷徹に自分の文章を見つめてください。自分の思いついたストーリーに人物を当てはめるんじゃなくて、その人物の視点に沿って、ものごとを考えてストーリーを作るようにしてみると、もっとすごいものが書けるようになるんじゃないかと思います。

 


◆『家具屋姫』(チアーヌ)

 幽霊の加奈子はアンティーク家具の店に住んでいる。理由はよくわからない。店の片隅に置いてある非売品のベッドの上で、毎日寝起きしている。時折、家具に取り憑いたままやってくる、古い時代の幽霊たちが加奈子の前に現れる。ピアノにくっついてきた、元ピアニスト。平民たちを拷問の末殺戮しまくった男爵に仕えていた女中。退屈でたまらない加奈子はそんな幽霊たちと楽しく過ごす。霊感の強い店員を遊び相手にしながら。
 ところが、そんなことをしているうちに、「幽霊が出る」「呪われた家具がある」などの噂が立ち始め、店の評判が落ちてしまった。ただでさえ経営不振だったところに追い打ちがかかったことになり、家具屋は倒産の危機に見舞われる。
 以前からアンティーク家具に憑く幽霊の話を温めていたチアーヌさんが、もとは官能小説だったのをコミカルな大人のおとぎ話に書き改めたものだそうです。

●伊藤さんの講評             itouryou.jpg

 とてもコミカルな雰囲気で、面白く拝読しました。幽霊が家具に憑くという設定も良いですし、幽霊である主人公は実は――というラストのオチも好きでした。
 ひとつ気になったのは中盤の拷問シーンです。主人公が、愛らしいキャラクターの若い男性店員をいじめ尽くして、彼が泣きながら命乞いをしているのに、あざ笑ったりしていました。このシーンだけ、主人公のキャラクターがぶれています。まるで別人格のようでした。もしこういった拷問を書きたいのであれば、いじめられる店員をすごく悪い男にするしかないと思います。拷問シーンは、前後のシーンと比べて浮いていて違和感がありました。
 また、拷問シーンの前までは「幽霊が現実の物を動かせる」という設定で店員に色々イタズラをしていたのですが、その拷問シーンだけはなぜか「怖い夢を見せる」ことでイタズラをするという話になっていて、読んでいる方は混乱します。「幽霊に何ができるか」という作者が決めたルールを、ご都合主義的に突然変えないほうがいいと思います。


●高梨さんの講評

 今回の三作の中で、一番「大きく嘘をつこう」という姿勢が際立っていて、物語として面白く拝読しました。舞台の脚本とかだったら、すごくアリだなと思います。なぜかというと、これは中盤の視点の問題にもつながるんですが、幽霊視点で書くというのは実はすごくチャレンジングなことだと思います。その幽霊がどういう経緯で、どういう知識があって、どんなバックグラウンドがあるのか。幽霊視点にしてしまうと、どうしても書かないといけなくなると思うんですね。だけど、この作品ではそれはあえて飛ばして書かれているので、幽霊が知らないはずの知識についての問題が出てきてしまっています。もしこれが舞台であれば、幽霊にセリフで言わせても、違和感がないかもしれません。小説となると、視点の問題が出てきて、難しいかなと思いました。
 私は伊藤とは逆に、真ん中の拷問の部分を面白く読みました。それ以外のところは、作ったお話をなんとか成立させようという意思が見えるんですが、この拷問シーンだけはものすごく作者が乗っているというのが見えまして、すごく生き生きとした描写になっている。しかも主人公たちの無慈悲さというか不条理さが、今まであまり読んだことのないようなタッチで新鮮でした。この話には合わないかもしれませんが、こうしたテーマに特化してもいいのではないかという気がしました。まだまだ膨らましようがある作品だと思うので、頑張ってください。

●矢島さんの講評 ikenmurayama11-1.jpg

 拷問のシーンとか、ちょっとハードなシーンがありつつも、わりとラストが乙女チックな感じなので、絵本みたいな印象を受けました。『クリスマス・キャロル』みたいな。  
 けれど気になったのは、幽霊という不確かな存在を主人公に据えながら、そこに新しさがまったく見えないという点です。たとえば知らせたいことがあるときに物を動かすとか、よく見ると透けてるとか、幽霊の姿が見える人物を「霊感が強い」という5文字で必ず表現されているように、みんなが持つ幽霊の概念がそのまま持ち込まれていて、それがもったいないと思いました。せっかくあいまいなものを書くなら、そこにこそオリジナリティを盛り込めるはずです。後半に出てくるオリジナルルールが、ご都合主義に映ってしまうのもそのせいではないかと思います。
 ファンタジーの物語は、“荒唐無稽”から“ずっと見ていたくなるようなすばらしい夢”に切り替わる瞬間があると思うんです。後者にするためには、0からディテールの描写を重ねて、オリジナルの世界を大胆に構築することが大切なのでは、と思いました。

●池上さんの講評   eienmurayama.jpg

 無理がありすぎです(笑)。店長が実は加奈子の旦那で、二人で寝ていたベッドを大事にしていた、なんてことを最後にいわれても、はい、そうですかとはいえません(笑)。 夫婦にとって大事なベッドがあるんだから、この店長だってこのベッドに来てるはずですよね。来ているはずだし、亡くなった奥さんの加奈子がずっと好きなんだから、奥さんの写真立てとかあるはずなのに、それがない。というより、自由に店の中を徘徊している加奈子が気付かないはずがない。記憶を失っているなら失っているでいいけれど(幽霊が記憶を失うなんてありえないと思うが)、なんでこの人は私の写真を飾ってるんだろうとか考えてほしい。いや、夫が妻の写真だけを飾るわけではなく、たいていは夫婦の写真を飾るわけだから、なぜこの人と並んでいるのかとか考える場面を作らないとおかしい。
 逆に、店長がなぜか四階には来ない、なぜだろうという疑問を抱かせるのもいい。とにかく加奈子は店長の妻だったとするなら、ちゃんと伏線をはってほしい。
 それとやはり幽霊が万能すぎます(笑)。幽霊の小説の出てくるのがつまらないのは、なんでもできてしまうこと。重いものが簡単に動かせたら、店員はいらない。僕が店長だったら幽霊をやとう(笑)。これは冗談ですが、でも、そういう冗談が通じてしまうような世界になってはいけないということです。できることとできないことの線引き、とくに幽霊ならなおさらできることとできないことを考えて小説を作ってください。

●村山さんの講評                mdaimurayama0211.jpg

 面白かったです(笑)。とてもわくわくして読みました。
 整合性とかバランスとかいう意味で言えば、ヘルガの拷問シーンというのは本当にこの話に必要なのかどうかとか、そういうことを考え始めると疑問は疑問なんですけど、ご自分の趣味に走るこのエネルギーはすごいと思って、「うわあ。チアーヌさん、楽しそうに書いてるわ」という、この感じがとても私は好きでしたね。エロティックなシーンは推敲して削ったということですが、たしかに、このお話にこれ以上そういうシーンがあるのは邪魔だったろうなと思うので、そうして自分の作品を俯瞰してみて、必要ないと思ったものを削る目を持っているのはとてもいいと思いますね。
 私がこれを読みながら何を連想したかというと、昔見た劇団四季のミュージカルで『夢から醒めた夢』という、赤川次郎さん原作の幽霊の話があるんですよ。それにはもちろん拷問シーンは出てきませんけど(笑)。死ぬはずじゃなかった主人公があの世でいろんな人と会って、途中でコミカルな場面があったり、ミュージカルですから別にストーリー上はなくてもいいシーンが入ったりするんですけども、最後まで観客を物語の世界に連れて行ってくれて、「ああ面白いおとぎ話を観た」という感動が、やっぱりちゃんと最後に用意されているわけなんです。
 このチアーヌさんの話を、私は大人のおとぎ話のようにして読んだんですけれども、大人のおとぎ話をこの感じで書くのであれば、よっぽど計算をして、周到な嘘をついてみせなくちゃいけないと思うんですね。
 でも、チアーヌさんが、そんなふうな大人のおとぎ話をどうしても書きたいというふうには、私には読めなくて、このなかでいちばん書きたかったのは実はこの拷問シーンだったんじゃないかと思うんですけれど(笑)。そういう何かがあるというのはとてもいいことだと思うんです。自分がノリにノッて書ける何かがあるというのはね。hosibosinohune11.jpg
 そのためには、その部分をこそ一番生かせる物語の構造なり、生かせるテーマなりを選びましょうよ。もったいないです。せっかくこんなエネルギーがあるんだったら、それこそ拷問シーンが必然的に出てきて、そこが見せ場になるような小説を考えたほうがいいと思うんです。先に「こんなお話を思いついたから」というのではなくて、一番書きたいシーン、あるいは「これを書くのが得意!」っていう何かがあったら、それを活かすにふさわしい物語を選んだ方がいいと思います。何の問題もなくちゃんと読める文章を書いてらっしゃるので、どういう物語が自分にふさわしいかという一点に関して、もっと意識的になって選ばれたらいいんじゃないかなって思います。
 あと、視点の揺らぎはちょっとあるんだけど、日本の小説ならば、視点を変えるさいには、できれば章も変えたほうが無難です。ただ一行空けるだけで視点が変わると、読者はなかなかついていけなくて混乱しがちなので。
 それと、もっと長いものを腰を据えてお書きになってみたらいいんじゃないかな、と思いました。

 


 ◆『アンダー・マイ・スキン』(松井薫香)

 藁科清子、潤子(ジュン)の母娘と「私」は、同じ会社に勤務していた。母親の清子は人と交わろうとしないタイプで、社内でもあまり評判がよくない。一方、娘の潤子は顔もタイプも清子にぜんぜん似ない。それもそのはずで、彼女らは本当の親子ではなかった。ジュンと呼ぶほどに親しくなるにつれ、「私」はしだいに彼女たち親子の間の真実を聞かされていく。はじめは抵抗があった「私」も、独占欲の強い恋人の今和泉よりも、ジュンとの戯れのほうにずっと満たされるようになってしまう。
 だが、ジュンが起こした不始末をきっかけに、母親の清子にジュンとの濃密なつき合いを知られてしまい、清子は嫉妬から私を折檻する。清子の異常ともいえるジュンへの愛情は、ジュンを奪った私への嫉妬から興味へと移り、ついに「私」は清子に体をもてあそばれてしまう。心ではジュンを欲しているのに、一度清子を知ってしまった体は激しく清子を欲し、もう清子とは離れたくても離れられなかった。
 会社を辞め、ジュンとも今和泉とも別れて清子と同姓を始めて数ヵ月後、「私」は町でジュンと再会する。気持ちを抑えきれずジュンに近づいたとき、私はジュンと自分が一つにつながっている現実を知る。
 女性の性欲について書いてみたい、というチャレンジで書き出したとのこと。dabulfantaji.jpg


●矢島さんの講評

 とても引きこまれました。世界がどんどん狭まっていって、二人の世界が極限まで濃密になったときに世界が突き抜けるっていう感覚とか、なかなか書けないことじゃないかと思います。ただ、すごく感覚的な小説なので、もう一回読み返してほしかったなという部分もありました。文章が上手なので逆に目立ってしまっているんですが、「鳥肌が染みて」とか「あざけるような痛み」とか、わかるようでわからない表現が見受けられて。そういうところで読者をつまづかせ、小説の世界から覚めさせてしまうのはもったいないです。そこで書かれようとしている感覚自体は、とてもよさそうで、ぜひ味わってみたいので、もっともっと注意深く、客観的に推敲をしていただけたらと思います。
 人物が魅力的に書かれていて、特にジュンというちょっと変わった女の子がすごくいいですよね。職場の盆栽の上に折り紙の鶴を乗せて、「現実の縮小じゃつまらない」なんて言うところとかとても好きです。普通の感覚を持った主人公が、清子とジュンの異常な世界に抗えず引きずられていく様が力強く描かれていると思いました。


●高梨さんの講評

 世界観が完成していて、面白く拝読しました。読んでいて、官能的な感覚を一番書きたかったのか、ストーリー展開を書きたかったのか、どっちなのかがわからず、疑問に思っていたのですが、こういうものを初めて書かれたと今うかがって、なるほどと思いました。官能に引きずられて感覚的に行く部分がすごく魅力的で、清子とジュンという人間もとてもいい。一方で、たとえばジュンがこういうふうになってしまった経緯とかを、わりと言葉とか会話で説明していくんですが、そのあたりの説明がすごくしっかりなされている。ラストも、「だからこうオチました」という結末をしっかりとつけているんですが、そこまで言わなくても読者はわりと予想したり、いろいろ妄想を膨らませることができます。「こんなものを書いていいのかしら」という気持ちが、この理論武装に至ったのかなという気がしました。もっと削って感覚に走っても、充分面白いものになると思いました。takahasikanae.jpg
 人物造形の描写で、「説明的だ」との意見が出ましたが、この作品においては、これでいいんじゃないかなと思ったところがありました。言葉にはちょっと過不足があったりするんですが、例えば「清子を前にすると、何を食べていてもいなくても、私は脂のこってりした料理を受付けている感覚に陥る」とある。これはすごいなって。こういうところが生々しく、感覚として入ってきまして、これを清子が言ったり、著者の視点で言うんじゃなくて、主人公の視点で言うところが、とてもいいなと思いました。


●伊藤さんの講評

 この作品は、性的なものに関して「異常な感じ」「突き抜けた感じ」がして、すごくいいなと思いました(笑)。例えば、主人公とジュンが解体されたばかりのマグロを分け合って食べるシーンです。町の魚屋さんで買い物をしているという日常的なシーンで、突然ものすごくエロティックなものが現出するというのは鮮烈でした。そして、最後の「精子でつながっている」というのも、突き抜けた感じで良かったです。
 一点気になったのは、その「精子でつながっている」というところで、この結末にしたいがために、今和泉とジュンを付き合わせたんだろうと感じてしまうことです。なぜ主人公がそういう気持ちになったのかということもあまり描かれていないので、ちょっと駆け足で、ご都合主義的な展開に思えました。すごくもったいないです。


●池上さんの講評

 この小説の核は、実は清子でしょう。このおばさんがすべての災難の元凶。それなのに主人公はひかれていく。それがなんとなくわかる。実にいやらしいおばさんで、このおばさんの視点で書いたらもっといやらしく残酷なストーリーになった気がする。tubasacry11.jpg
 ここでひとついっておきますが、いいですか、いやらしいというのはほめ言葉です。清らか、美しい、優しい、素敵といったものばかり人間はもっていません。というか、むしろ汚くて、醜くて、冷たい、いやあなものをもっていて、それに振り回されている。人間を動かしているのはむしろ後者です。そういう“いやらしい”部分をどのくらい人間の真実として描けるのかが、文学のひとつの使命でもある。大げさにいうなら。
 主人公の話もしておきましょう。テレビでも映画でも何でもそうですが、主人公がみな若い。若者に設定する必要はどこにもないのに、ほとんど若者が主人公をはる。小説はもっと自由です。消費されつくしている若者の物語よりも、おばさんの物語のほうが新鮮にうつる。このおばさんの視点を入れて、三人の視点で各章ずつやっていったら、ひじょうに面白い世界ができるんじゃないかなと思います。
 ほんとに清子というおばさんにひかれました(笑)。このおばさんは何をやってきたんだろう、このおばさんの人生はなんだったんだろうと。もっと読みたくなりました。
 松井さんは本当にもう文章は上手いですし、今回ほかのテキストにクレームをつけたような具体的な描写の欠如はない。むしろひじょうに具体的に書いている。場所を書くのはちょっと省略している部分があって、わかりづらい部分はあるんですけど、それ以外はいい。
 なお、文芸評論家としてひとつだけ付け加えますと、こういった官能的な描写を重ねる小説の場合、主人公の名前には気をつけましょう。「ジュン」は駄目です。なぜか? それは長くポルノ小説に君臨した宇能鴻一郎の愛用語で、ポルノ小説のひとつの比喩として確立されてしまったから。・・といっても、みなさんぽかんとしていますね(笑)。
 では、聞いてみましょう。宇能鴻一郎とジュンの関係がわかる人、手をあげてください。(数人の中年男性が手をあげる)。ほらね、有名なんですよ。四十代以上の男性読者の多くは宇能鴻一郎を読んでいるからね。といっても説明しないとわからないか(笑)。
 宇能鴻一郎のポルノ小説では、女性が感じる瞬間、いわゆる濡れてきた瞬間に「ジュン、と感じちゃったんです」というんです。このジュンと感じた、ジュンときちゃった、という表現は、いわばポルノ小説の流行語大賞のようなものなんですよ(場内笑)。あまりに有名すぎて他の作家は使えないほど。そのくらい有名だから、ジュンというなのは官能小説では使ってはいけません。使うなら、宇能鴻一郎的記憶をまとった形にしないとね。つまり明るく健康的に欲情する女性というキャラクター的記憶をね。でも、この小説のジュンは違うでしょ? 気をつけましょう。グーグルで検索をかければすぐにわかりますからね。


●村山さんの講評

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 みなさんおっしゃっているように、文章はとてもいいですね。言葉に個性があるというか、言葉を選ぶときのセンスに独特のものがある。ただ、たまに独りよがりになっちゃうときもあって、例えば「まあるい」とか「そおっと」というのを、続けて使っていますね。「まあるい」は普通「まるい」だし、「そおっと」は普通「そっと」なんだけれども、それを「まあるい」とする感覚はいいと思うんですが、「まあるい」と「そおっと」が近くに来てしまうと、過剰というかやりすぎというか、鼻についてしまうときがあるので、こういう効果的な言葉遣いに関しては、少し離して使うとか、ここぞという時にまでとっておくほうがもっと効果的になります。
 出だしもよくて、「息のかかるたび、じくじくする。体は、もうすでに始まっている」という、この表現なんかは秀逸だと思いました。「こういうものだよな、女って」という部分がよく伝わってきますね。
 私が一番気になったのは、あらすじのなかでも説明されている、清子に対しては肉の欲であり、ジュンに対しては心が惹かれる恋であって精神的なつながりに重きを置いているという部分が、どうしても、言葉で説明されないとわからないんですよ。そこのところが切実に描かれていないと、あとのほうでジュンと再会したときに、突然ものすごく恋しく思うというふうな描写が出てくるんですけれども、読み手は、「えっ? そうだったっけ?」って思っちゃうんです。
 これがもし、あらかじめジュンのこういうところがほんとにほんとに好きで、とか、逆に、どこが好きなんだかわからないけどものすごく惹かれていて……という部分が、きちんと描写されたうえでのこのシーンであるならば、あらためて説明しなくても読者と切なさを共有できると思うし、体のことで清子さんに惹かれていってしまうところにしても、もっと痛みをともなうかたちで読んでもらえると思うんですね。         mudaimurayama113.jpg
 この小説を通して伝えたいことが、そのへんの心の揺れであったり、体の欲のどうしようもなさであったり、というふうなことであるならば、テーマをそこに特化して克明に描写するぐらいに手を入れなくちゃいけないな、と思います。こういう性愛について書く場合、スポーツ新聞に載っているポルノみたいなものと、そうでないものをわけるのはどこかというと、ある瞬間にむきだしになる人間の心の暗い裂け目みたいなものが書けているかどうかなんです。それは、説明として「どうしようもなかったの」と書いてあったらもうダメで、小説においては、そのどうしようもなさを、「どうしようもない」という言葉を決して使わずに、読者に「これはどうしようもないね」って感じさせなきゃダメなんですよ。
 そのためには、やっぱりジュンについての描写、清子の描写、それからその二人に対する主人公の心の動きの描写を、最初からもっともっと丁寧に、過不足なく書いて積みあげていくことが必要だと思います。
 これは、テキスト三作の全部に共通することなんですけど、自分の思いついたストーリーのために、登場人物を奉仕させてはいけません。むしろ、逆なんです。自分が一番書きたいことはこういうシーンだ、こういう人間の心の動きだって思ったら、その人物の動きそのものを大事にして、この主人公だったらどう行動するか、どう感じるか、という描写を地道に、嘘のないように積み重ねていく。
 最初に考えていたストーリーが途中で変わったっていいんですよ。ストーリーが壊れたって破れたっていいんです。そんなことよりも、人間がある場面で決まった行動を取ってしまうどうしようもなさとか、逆に、普通だったら納得できないようなことをやってしまうときの心の裂け目とかを見つめて、登場人物の一人ひとりに書く側の気持ちを逐一沿わせて、一生懸命にその闇を凝視して書いたなら、もっと読み手を納得させる小説を書くことができます。
 とくに性愛の物語というのは、ものすごい金塊の埋まっている場所だと思いますね。私自身がそういうものを書くので、よけいにそう思います。          kouzagonomurayam11.jpg
 この小説に描写されている、マグロを食べさせ合うシーンとか、その触感とか、金魚の色とか、また金魚の描写を書いてある近くに、オレンジ色の下着が透けて襟元から見えて、それが金魚を彷彿とさせるという、そうしたところがとても上手だと思うんです。マグロだとか金魚だとか、別の男の精子で女二人がつながっているっていうふうな、ひとつの小説的な象徴を、ちゃんと引きつけて文章で描写するというのは、ひじょうに文学的な目を持っていらっしゃるということだと思うので、それは大事にしてほしいです。その象徴をもっとこう、読者にバレバレにならないように周到に隠して書くように留意されたら、純文的な性愛の話とかもお書きになれるんじゃないでしょうか。読みたいですね。もっとエロいのが読みたいです(笑)。もっともっと、ご自分に正直になられたらいいんじゃないかと思います。今だってこういうものをお書きになれるということは、ご自分の皮膚感覚とかに対してもどんどん自覚的になれるはずですから、それを恥ずかしがらずに書いてください。
 タイトルもいいですよね。『アンダー・マイ・スキン』って、フランク・シナトラの歌にありますけど、とても象徴的でいいなと思いました。

 


  以上の講義のあと、村山氏に最新作『放蕩記』やそこで描かれている母と娘の関係などについて、深く語っていただきました。そちらの模様は数日中に、同サイト内、「その人の素顔」でアップいたします。あわせてご覧ください。また、本講座に興味をもたれた方は、こちらを参照してください。

http://www.sakuranbo.co.jp/special/narou/info.html(小説家になろう講座ご案内)

 


【 講師プロフィール】

◆村山由佳(むらやま・ゆか)氏

   1964年 東京都生まれ。立教大学文学部卒。
 学習塾講師や有線放送アナウンサーを経て、1993年に『天使の卵-エンジェルス・エッグ』で第6回小説すばる新人賞を受賞し、本格的な作家活動に入る(なお、同作は2006年に映画化された)。2003年に『星々の舟』で第129回直木賞、09年に『ダブル・ファンタジー』で第22回柴田錬三郎賞、第16回島清恋愛文学賞、第4回中央公論文芸賞をトリプル受賞する。
 『おいしいコーヒーのいれ方』シリーズ、『BAD KIDS』『翼』『遥かなる水の音』『アダルト・エデュケーション』など著作多数。恋愛小説の名手として、中高生から大人まで広く支持されている。 千葉鴨川での自然派生活、都心や墨田での暮らしを経て、現在は軽井沢在住。