
小説家(ライター)になろう講座
7月講師・中条省平氏
「小説の解剖学――テクニックはそこに見えている」(後編)
7月の講師は、学習院大学フランス語圏文化学科教授で評論家の中条省平氏。おもな研究書として、『最後のロマン主義者―バルベー・ドールヴィイの小説宇宙』、翻訳としては、バタイユ『マダム・エドワルダ/目玉の話』、コクトー『恐るべき子供たち』などがある。また映画やマンガ、ジャズといった大衆文化への造詣も深く、『読んでから死ね!―現代必読マンガ101』など、気鋭の評論家としても知られている。
生徒が提出した3編のテキストの講評を終えたあと、中条さんが文豪の短編を3つセレクトし、それを用いての特別講義を行った。
◆『檸檬』(梶井基次郎)
梶井基次郎は、感覚の繊細さを描くことに関しては日本文学史上、数少ない天才です。若くして亡くなってしまいましたが、その梶井の代表作の『檸檬』。漢字で書かれたこの『檸檬』というのは、一度見たら忘れられないタイトルですね。たった9ページの作品ですが、こんな短い作品でも文学史に残ることが可能なんですね。もちろん梶井基次郎の全作品があるからこそ、この『檸檬』が語り継がれるわけですが、なかでもいちばん有名な『檸檬』というのはたったこれだけの文字数で収まるんですね。
それからこの作品を選んだもうひとつの理由は、岩佐さんの作品を講評したときに(「小説の解剖学―テクニックはそこに見えている」の前編を参照)、繊細な感覚の描写を行って、そこからなにか異様な世界に読者をいざなったり導いたりするということが文学の重要なテーマのひとつであると申しあげましたけれど、梶井基次郎というのはまさにそれをやった人です。だからその模範解答の一例として、この『檸檬』を読み直してみたいと思うわけです。全部を読んでいる時間はないんですが、もう1行目から主題ははっきりと打ち出されています。はじめから直球で勝負に出てる。延々と主人公の来歴だとか、いろんな事件があって、ようやくテーマに到達するんじゃなく、もう思い切って最初に打ち出しちゃうんですね。
“えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた”これがこの小説の主題です。これはさっきほど申し上げた「主題を説明してはいけない」という原則に抵触しているように見えて、じつは抵触してないんです。なぜかというと、これは説明ではなくて、精神状態のメタフォリックな描写だからです。この主題を抽象的にひと言でいうと、憂鬱、メランコリーということです。19世紀に『悪の華』を書いたボードレールという詩人が、メランコリーという主題を近代文学の重要なテーマにします。ボードレールはメランコリーという言葉を使わずに、「スプリーン spleen」という英語を好んで使いますが、なぜか知らないけれど人間の心が暗いものにとらわれがちになる。それを憂鬱とか憂愁と呼びますね。その心的状態を特権化したのがボードレールです。ただメランコリーという言葉自体はギリシャ時代からある言葉で、メランとは「黒い」という意味で、コリアというのは「体液」のことで、体中をめぐる血液とか胆汁とか粘液とかですね。4タイプある体液のうち、黒胆汁という黒い体液が身体を駆けめぐることによって、我々は憂鬱症になってしまうと言われてました。今でいう鬱病は、昔の人ならメランコリーの一言で片づけましたね。黒い体液が身体を駆けめぐっているんだよと。19世紀後半にボードレールが発見したメランコリーという主題は、ギリシャの昔からあるものだけれど、近代文学にふさわしく繊細に染め直された。それが梶井基次郎などによって日本文学の主題として無理なく移植されて、この『檸檬』とともにメランコリーという感情が日本人にも恥ずかしくなく口に出せるものになったんですね。
ただ『檸檬』は大正13年に書かれたんですが、これよりも前に日本文学においてメランコリーは発見されていました。佐藤春夫の『田園の憂鬱』です。憂鬱というのはメランコリーの直訳で、これは大正8年ですから、梶井基次郎よりも5年前に書かれている。大事なことは、佐藤春夫のほうが先だったというのではなく、『田園の憂鬱』が出て、メランコリーというものが日本人にとっても理解可能な文学的な風景として描かれたけれど、この5年後に梶井基次郎が『檸檬』を書いたということは、この時代が鋭敏な文学的精神にとってはメランコリーの時代だったということですね。たった二つの文学作品だけで勝手なことを言っちゃいましたが(笑)。こういうところが教師の恐ろしいところですね。見てきたような嘘を平気でいう。あとで突っ込まれたらごめんなさいと謝りますけれど、でもここでは断言しておきます。つまり大正年間というのは大正デモクラシーという、日本の近代史のなかではいい時代のように言われてますが、一方では先鋭的な精神や魂にとってはなにか憂鬱な時代に映っていたようです。それを感じ取る能力がやっぱり文学とか小説とかに表れている。「なんでぼくがこういう特殊な感情を感じるんだろう。みんなにこれを普遍的な言葉にしてに伝えられないだろうか」そういうところから出発しているわけです。梶井基次郎はのちに文豪と言われますが、31歳で死んじゃうし、これを書いたときは学校を出たての小僧でした。その小僧が『檸檬』を書くことによって、自分のなかにあるこの苦しい気持ちを形象化して、作家として自立したわけです。
最初の主題に続いて“焦燥と云おうか、嫌悪と云おうか――酒を飲んだあとに宿酔(ふつかよい)があるように、酒を毎日飲んでいると宿酔に相当した時期がやって来る。”と、比喩的な描写をするわけです。でもこれはたいした描写ではないと思いますよね。“宿酔”なんてちょっと月並みです。ここで主題が具体的に小説の光景として発展させられたわけではないからです。梶井基次郎の優れているところは、この散文詩のような小説のなかで、抽象的な主題と、具体的でカラフルな絵画的な描写を交代させて、小説を退屈なものにしていないところなんですね。そして、ふたたびこの小説の主題がでてくる。つまり“えたいの知れない不吉な塊”の次に主題を変奏しているのは、二番目のパラグラフです。“何故だかその頃私は見すぼらしくて美しいものに強くひきつけられたのを覚えている”2行飛ばして“雨や風が蝕んでやがて土に帰ってしまう、と云ったような趣のある街”そういうものが好きだといっているわけです。つまり廃墟とか滅亡へのあこがれという形で、この不吉さへの気持ちの傾きを変奏している、バリエーションをつけているわけですね。これは抽象的な気持ちを説明しながら、具体的でもあって、廃墟のイメージで心を彼は語っている。心は抽象的な表現でしか書けないかもしれないけれど、廃墟が雨や風によって蝕まれて、やがて土に帰ってしまうというイメージで表現することで、心がだんだんと蝕まれていくということを具体的な状態として提示しているわけです。これが主題の第二のバリエーションだとすると、第三のバリエーションが三番目のパラグラフに出てきます。
“私は、出来ることなら京都から逃出して誰一人知らないような市へ行ってしまいたかった。”とあります。京都が舞台だとわかりますね。またメランコリーとか、廃墟への憧れというものが、必ず呼び覚ますものに逃走という主題があります。これもボードレールが先鞭をつけていますね。ボードレールの『パリの憂愁』(これも spleen ですね)という詩篇のなかに、“Anywhere Out of the World”つまり“この世の外ならどこへでも”っていうのがありますよね。つまり今があまりにも苦しいから、どこかへ逃げ出したくなる。ランボーなどその典型的な人物で、どこかへ逃げたい、出発したいという詩を書いて、本当に文学を捨てて砂漠に出発しちゃった人です。文学的神話になってしまいましたよね。だからメランコリーに伴う心の欲求として、逃走という主題が三番目のバリエーションとして出てきます。このように抽象的な心の状態をうまく書き表したあとで、それだけだと抽象的な説明のままで終わって面白くないので、次のパラグラフでは思い切って具体的になるんです。
“私はまたあの花火という奴が好きになった。”花火が好きだっていう。しかも打ちあがる花火ではなく、パッケージに入っている花火が好きなんだと、なんだか子供っぽい好み、絵画的な細部を出していくる。それから次のパラグラフでは“びいどろ”、色ガラスのビー玉みたいなものも出てくる。これも具体的です。それからさらにこのパラグラフでは『檸檬』の重要な舞台となる丸善が登場します。丸善というのは今でも有名な書店ですけれど、当時の丸善というのはなにか洒落たものを売っている舶来の卸問屋みたいなところだったようですね。ここでは列挙法というレトリックが用いられて、丸善の店内を鮮やかに表現しています。列強法はなかなかうまくできないけれど、それが決まったときは鮮やかな効果を生みますね。本当に見事な一文。“赤や黄のオードコロンやオードキニン。洒落た切子細工や典雅なロココ趣味の浮模様を持った琥珀色や翡翠色の香水壜。煙管、小刀、石鹸、煙草。私はそんなものを見るのに小一時間も費やすことがあった。”これだけで一種の散文詩が出来ていますよね。なぜかというと、はじめのほうはゆったりとしたリズム。“赤や黄のオードコロンやオードキニン。洒落た切子細工や典雅なロココ趣味の浮模様を持った琥珀色や翡翠色の香水壜”漢字の散りばめ方も抜群です。けれどもそのゆったりとしたリズムを、あとは短い列挙で“煙管、小刀、石鹸、煙草。”と、3音節と4音節の交替で完璧なリズムを刻んでいます。読むこと自体が快感になるんですね。言葉というのは、とくに散文では、正確に書かれていれば読者はついてきますけれど、やっぱりリズムがほしい。
ちなみに、あのフロベールの『ボヴァリー夫人』は近代の散文の見本を作りました。浮気をして、借金をして、自殺をするくだらない女のくだらない人生を、このうえなく美しく描きあげるという逆説を成立させてます。フロベールは自分の家の廊下で、自分の書いた文章を読み上げたんですね。廊下のことをフランス語で「クロワール」といいますけれど、彼はその廊下を自分で「グロワール」と名づけた。「グール」とは口のことです。つまり「喋る廊下」っていうふうに、わざわざ自分の廊下を朗読の場所にして、そこで自分の書いた文章を口に出して読んで、ちょっとでも引っかかるところがあったら、その文章をボツにしたんですね。実際に口にだして文章の流れ、リズムを確認する。そうすることによってあの美しい散文が生まれたんです。だから絶対に朗読をバカにしないでください。もし自分の作品を書き上げたら朗読してみて、それで自分が引っかかるようだったら、読者だって絶対に引っかかります。だから自分が読んでも絶対に引っかからないような、滑らかな流れ、的確なリズムを持った文章に磨き上げてください。
さて、丸善が出てきたあと、その次は果物屋の話になります。なぜ丸善のカラフルな具体的なものの描写のあとに果物屋がくるかというと、言うまでもないですが決め技の小道具である檸檬を出すために必要だからです。檸檬で落とすのですから。ちゃんと伏線を張っているんですね。でも、丸善と果物屋にはカラフルな商品を扱うという共通性があるから、このつながりに不自然な感じはしないんですね。ここもうまいところです。それから、果物屋のカラフルさは、丸善のカラフルさとは対比的です。つまり丸善のカラフルな商品が鉱物的で硬いのに対して、果物屋のカラフルさには生きているものの柔らかさがある。そういうコントラスとも絶妙です。これは計算に計算していますよ。こんなに短い文章だけれど。
そして、この小説のまん中のところで、“その日私は何時になくその店で買物をした。というのはその店には珍しい檸檬が出ていたのだ”となる。構成を見てください。この小説のちょうどまん真ん中で檸檬という言葉が出てくるんですよ。もう行数を計算したかというような見事な配分です。それで檸檬の話になると、今までの憂鬱が変わるんですね。“私は長い間街を歩いていた。始終、私の心を抑えつけていた不吉な魂が”これは一行目の繰り返しで、つまり主題を確かめたわけです。“それを握った瞬間からいくらか弛んで来たとみえて、私は街の上で非常に幸福であった。あんなに執拗(しつこ)かった憂鬱が、そんなものの一顆で紛らされる――或いは不審なことが、逆説的な本当であった。それにしても心という奴は何という不可思議な奴だろう”ここに出てくる“それ”とは檸檬です。檸檬によって心の状態が転調する不可思議を描いたあとに“私はもう往来を軽やかな昂奮に弾んで”と出てきます。心だけでなく身体そのものが弾んでいるんです。檸檬によって世界が変わって見え、自分の心ばかりか身体までもが変わってしまうという不可思議。人間の精神の不可思議を檸檬というシンボルに凝縮したわけですが、そこで落とさないんですね。どこに持っていくかというと14ページの11行目。ここで転調してから落としに行きます。このドラマツルギーが見事。“然しどうしたことだろう、私の心を充していた幸福な感情は段々と逃げて行った。”丸善に入った瞬間に、檸檬が効力を失っていくんですね。丸善のなかで、だんだんと憂鬱になる。“何という呪われたことだ。手の筋肉に疲労が残っている。私は憂鬱になってしまって、自分が抜いたまま積み重ねた本の群を眺めていた”またメランコリーの主題の繰り返しになります。そして本に檸檬を乗せる。また昂奮がよみがえってきます。本のうえに檸檬を乗せて完成だ、と。
ここで終えてもいいんですよ。これでも充分すごい傑作に仕上がってますよね。だけど、最後のこれがなければ『檸檬』は文学史に残らなかったでしょう。最後の6行。これ読んだら『檸檬』は絶対に忘れない。“変にくすぐったい気持が街の上の私を微笑ませた。丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けて来た奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなに面白いだろう。”つまり気分はテロリストなんですね。このメランコリーの底にあるのは、なんかぶち壊してやりたいという無責任なテロルへの欲求です。大正デモクラシーが持っていた安定した気分というものを、梶井基次郎はぶっ壊したくなったんですね。そういう意味では文学者というのはテロリストです。現状に安住していたら、小説なんて書く必要もないですからね。詩的な散文で美しく書いてあるけれど、やっぱり梶井基次郎は懐に匕首を呑んでいる。そういう人でなければ、小説を書く意味はないかもしれない。だからテロリストに変貌するんですね。もちろん頭のなかでだけですけれどね。“私はこの想像を熱心に追及した。「そうしたらあの気詰まりな丸善も粉葉みじんだろう」/そして私は活動写真の看板画が奇体な趣きで街を彩っている京極を下って行った。”
最後は軽く現実に返すわけですけれど、こういうふうに自分の心のなかにある鬱屈したものを主題にして小説を書くというのは日本人は割合にうまくて、梶井基次郎のこの作品は決定的な一例ですよね。
◆『家屋について』(吉行淳之介)
なぜ『家屋について』を選んだかと言いますと、これは岩佐さんの小説からインスパイアされたんです。岩佐さんは作品のなかで、サイドボードを動かしただけでなんだか部屋が傾くような感覚を覚えるとおっしゃっていた。家屋や自分が住んでいる場所に対する想像力が過敏に働くタイプの作家がいるんですね。この吉行淳之介や大岡昇平なんかは、地理的な想像力や家屋、人間がいる空間に対して想像力を鋭敏に働かせるタイプの作家です。それに対して、どこであろうと場所なんて関係ないタイプの作家もいます。たとえばプルーストがそうです。彼は家のなかで寝返りを打ちながら延々と「眠れない、眠れない」って言って、時間と記憶と戯れる小説を書きましたね。吉行や大岡が空間的想像力の作家ならば、プルーストは時間的想像力の人なんですね。プルーストの『失われた時を求めて』を初めて読まされた編集者が「冴えない中年男が寝返りを打つのに30ページも費やすような小説は読みたくない」と、突っ返すわけです。今はもう世界文学の大傑作として知られているから、みんなしてプルーストを読んだふりをしているわけです。でもぼくは一応読みましたよ(笑)。それこそ歯を食いしばって。今は鈴木道彦氏の訳があるから、ずっと読みやすくなりました。それでも文庫で七千ページくらいあるでしょうか。
プルーストは延々と部屋のなかで、寝返りを打ちながら「ああじゃない、こうじゃない」と思い出を書いているわけですけど、そのときの部屋の構造がどうなっているのかなんか一切わからない。そういうタイプの人です。ところが反対に家屋的な想像力というものが働く人がいる。この作品がひじょうにいい例です。吉行淳之介のこの作品は意外に評価されないけれど、この作品が収録されていた『出口・廃墟の眺め』(講談社文庫)という短編集が私は大好きで、何度も読みかえしました。いまは絶版ですけど、『家屋について』は幸いなことに『鞄の中身』に収録されて講談社文芸文庫で復刊されました。今すぐに手に入りますから、ぜひ読んでみてください。これはお得ですよ。短編のお手本みたいな作品がぎっしりつまってますから。『家屋について』という作品は、記憶のテーマに結びついたすごくいい短編なんですよ。おそらく吉行淳之介はプルースト的といえば言いすぎかもしれませんが、自分の実際の記憶に基づいて、この小説を書いてると思われます。
最初のところ。“生れてから今までに、幾度も転居している。どういう家屋を転々としてきただろうか、と汽車旅行の途中、思い出すことを試みはじめた。”ここでも主題がはっきり出ています。思い出。つまり記憶ということです。この作品のテーマがプルースト的といったのはこういう理由です。“なぜそういうことを試みはじめたか。退屈しのぎと言ってしまえば、話が簡単だ。しかし、違うといえば、違う。/そのとき、時間の流れが、不意に粘りはじめた。平素は、透明で抵抗を感じさせずに両脇を流れ去ってゆく時間が、意地悪く絡みつきはじめた。”ここの主題は時間です。時間の流れと言っています。しかし時間というのは抽象的なものです。
たとえば時間が長く感じることがよくあるけれど、それを小説の言葉にするにはどうするか。模範解答のひとつがここにあるわけです。時間という抽象的なものを、液体に喩えている。あるものを別のなにかに喩えて描くというのはメタファー、隠喩というレトリックですが、「時間の流れ」といった瞬間に、メタファーがすでに生まれているわけです。時間は抽象的で、誰も形を見たことがないのに、水の流れみたいなものなんだって読者は頭に浮かべてくれるから、時間が実質的なイメージとして定着するわけです。メタファーというのはおそろしいもので、うまく使えば最高だけど、下手に使うと逆に作家を追いこむことになります。でもここはうまい。“不意に粘りはじめた。”この「粘る」って言葉は、流れがあるから「粘る」と言えるですね。つまりさらさらと流れるものではなくて、ゆったりと粘りながら流れていったということです。つまり時間という抽象的なものが、粘性を持った流れにくい液体としてイメージ化されたわけですね。“平素は、透明で抵抗を感じさせずに両脇を流れ去ってゆく時間が、意地悪く絡みつきはじめた。”つまり時間という水のような流れが、べとっとした粘液になっていくわけですね。抽象的なものを具体的に、しかも時間というさらさらと流れるはずの液体を、流れない粘りのあるものに変えるところが、この文章のものすごくうまい点ですね。もうひとつ、“両脇を”といった瞬間に、私たちは、人間が時間という流れのなかに身を浸しているイメージを思いうかべる。時間の流れにつかっているから、“両脇”を時間が流れることになるんですね。じつにうまい。我々は、この一文を読むことでそういう時間のイメージを思い浮かべるんです。時間の流れという、ひとつの液体のイメージから出発して、そういうところまで導かれる。
続いて“これは、誰しも経験がある筈だ。そのまま放っておくと、ガラスの微塵な粉になって、覆いかぶさってくるようになる”なにを言ってるのかというと、これも時間です。主語を省いているけれど、時間のテーマが一貫して続いていることを読者は忘れません。そして時間の流れがどう変わったかというと、今度は液体が固体に変わります。つまり粘りのある流れがガラスになった。透明という点では同じですが、ガラスになって粘りのある流れではなくなってしまった。粘りという抵抗感から、微塵な粉という異物感に変わります。もはや粘るものですらなくて、触ったらケガをするような異物に変わってしまう。流れという連続性が、完全にバラバラな細かい固体になってしまったという。
サルバドール・ダリが、『柔らかい時計』っていう作品で時間を表現しましたね。時計がだらんと柔らかくなって、木にかかってる。超現実主義の傑作として知られてます。そういうふうにして時間をダリは描きましたが、吉行淳之介はわずかこの四行の文章で、時間が粘る流体となり、固体になって砕けてしまったというイメージの世界を実現しているんですね。だから言葉というのはおそろしい。ちょっと抽象的な度合いが強すぎて、いい文章かどうかというと、若干の疑問は残ります。冒頭にこういうのを出すのは、新人賞を狙うためにはやめたほうがいいかもしれない。吉行淳之介だから我々は先を読みたいと思うけれど、新人がこれをやると、たぶん審査員は「なに気取ってんだ」という反応をするかもしれない。これは微妙なところです。だけどこの文章は見事。
そして33ページの5行目には、“これまでの人生について思い返してみるのも無駄ではあるまい”といって記憶のテーマを再確認したあと、そのあとずっと家の描写が延々と続いているけれど、すべてわかりやすい言葉で家屋の構造を書いています。家屋の構造なんてつまんないものを書いても退屈させないというのが吉行淳之介のうまさですけれど、こういうふうに余計なことを挟まずに、ささっと書かなかったら、家屋の構造なんてとても小説では書けないです。こう簡潔に書けば、家の内部がどうなってたか、なんてことでも小説の言葉になるんだと、文章を噛み締めながら読んでください。それで延々と36ページの3行目まで、変な家の構造の描写があって、こんな構造だったのは「なんでだったんだろう」と疑問がわく。その変な構造に関してはオチがあるんですが、読んでいただけるとわかります。でも、この軽いオチによって変な構造だった理由が説明されたあと、話はまだ続くんですが、今日は最後の部分を読んで終わりにします。37ページの4行目“さて、私の頭の中に、その家屋のいろいろの部分が次々と浮び上り、やがて湿った黴臭い空気の澱んだ倉庫の内部が浮び上ったとき、一つの光景が浮んだ。”バツですね。ぼくだったら直します。“浮んだ”を三回も使ってる。だからこれはいくら吉行淳之介でも直したほうがいいと思うけれど、吉行さんの気持ちになれば、ここで“浮んだ”を3回も使う理由がわかります。つまり、ふわっと記憶が浮んだということを強調したかったんですね。それで思わず3回も同じ言葉を使ってしまった。これはやめたほうがいいけど、泡のように浮んじゃったっていう気持ちなんですね。偶発性。たまたま。浮ぶように出てきた。
その浮んだものはなにかというと、これがけっこうこわいんですね。こういうところがうまい。その光景が浮んだあとの数行を書けるか書けないかで、小説家になれるかなれないかが決まるかもしれません。これはキモです。“厳格な祖父が、その倉庫の前で女中を叱責している光景である。女中は、醜い若い娘で異常に肥っていた。薄桃いろに脹れ上がっていた。粗雑な女だったが、気の良い女ではあった”この女の感じもよく浮かんできますよね。今までずっと家屋のつまらない描写をしているけれど、ここに変な女が出てくる。“その光景を見たのは、私が中学生の頃だった。”記憶がばっと広がるんですね。家屋のところはずっとモノクロで、“薄桃いろ”から一挙にカラーになったような感じです。“祖父が使用人を叱責するのは、珍しいことではない。しかし、その光景には、なにか落着けない気分が絡まっていた。”吉行淳之介の主題である罪悪感ですね。どこかでなにか自分は罪を犯したのだという、後ろめたさがいつもある。
“女中は、大声で泣きわめいていた。そして、叱責する祖父の声には、どこか困惑した調子が含まれていた。/「こら、もう泣くのをやめんか」/祖父の声に、いくぶん宥める調子があり、女中は一層大声で泣きわめく。/その光景を、二十年近く経って思い出した瞬間、突然、その光景の隠された意味を悟った、と私はおもった。/七十歳近い祖父は、あの肥った醜い女中と密かに関係を結んでいたのではないか”うまいなあ。これがやれれば、みなさんも吉行淳之介のような短編が書けるはずです。ここで大事なのは、まずは記憶の主題を出して、家屋の話をさらさらとモノクロで書いて、いきなりこの薄桃色の女中が登場する。ここがキモですね。この女中のところでカラーにして、二十年前ぶりの光景が頭の中で広がっていく。「あれはなんだったんだろう」と思い、そして「ああ、そうか。爺さん、あの女中とできてたんだ」っていう。他人事ながら、嫌な爺さんだなって思いますよね。これが小説です。
◆『サラサーテの盤』(内田百閒)
三番目は、内田百閒の『サラサーテの盤』です。鈴木清順監督の最高傑作である『ツィゴイネルワイゼン』がきっかけとなって、再評価されました。映画もDVDで見てください。この『サラサーテの盤』ほか、いろんなエピソードを取っているけれど、もう日本映画史に残る傑作ですね。本当にすばらしい。
『サラサーテの盤』の話は簡単で、作者の内田百閒と重なるドイツ語教師が、若い友人と酒を飲んでいると、とんとんと玄関の戸を叩く音がして、おふささんという女性が夜中に尋ねてくる。主人公の親友である中砂の奥さんですが、「お貸しした辞書があるはずですが、返してくれませんか」と主人公に頼むんです。真夜中に「辞書返してくれ」と。おふささんは芸者あがりの女で、なんでドイツ語の辞書が必要なのかわからない。ひじょうに不気味なんですね。それで部屋を探してみると、本当に辞書が見つかるのでおふささんに返します。「なんだい、あの女は」と思っていると、またおふささんがやってくる。「サラサーテのレコード盤が、おたくに行っているはずですけど、これも返してください」という。「なんでこの女はそんなことまで知っているんだろう」と思って、レコード棚を調べてみるけれどサラサーテの盤はない。「借りてないかもしれない」とおふささんに言うんだけれど、「借りているはずです」と答えが返ってくる。「でも今はないから、お帰りください」とお引き取り願うんですが、そのあと、中砂との話が回想でつづられるんですね。中砂はもう死んでしまったけれど、主人公と中砂はかつて旧制高校のドイツ語の教師同士で友達でした。旧制高校でドイツ語を教えていた内田百閒自身の人生と重なります。この百閒らしい主人公と中砂が旅に出たとき、あるうなぎの名産地でうなぎを食べるんですが、なんだか大きすぎて気持悪くなってくる。このあたりが百閒らしい話で、『東京日記』という幻想を描いた小説のなかに、でかいうなぎの化け物が出てくるっていう大傑作の幻想小説がありますが、そのうなぎのでかい串焼きを食べて、中砂と遊んでいるときに呼んだ芸者が、この中砂の後添いであるおふささんになるわけです。その時点ではまだ芸者だったのですが、東京に帰ってきて、中砂は奥さんと仲が悪くなって別れ、旅先で知り合ったおふささんを呼び寄せて後妻にした。前妻との間には女の子がいるんですが、おふささんが辞書とレコードを取り返すために主人公の家まで連れてきていたのがその子だったんです。
それで主人公が改めてサラサーテの盤をもう一度探してみると、じつは別の友達に又貸ししていたことがわかる。友達から取り戻して、「大変申し訳ないことをした」とおふささんの家に直接返しに行く。サラサーテの盤のなかには、「ツィゴイネルワイゼン」の作曲者であるサラサーテ自身が弾いたひじょうに音の悪いレコードがあるんですけれど、これにはサラサーテ自身の声が録音されているんですね。サラサーテがなにを言ってるのかはよく聞きとれないんですけれど。レコードに収録されているその声が聴こえたところで、おふささんは「いいえ、ちがいます」って答えます。どういうことか。それがオチになるんですけれど、要するにおふささんは中砂の霊と会話しているんですね。「あいつにサラサーテの盤を貸したから取ってきてくれ」と霊界にいる中砂と通信している。その霊界との通信の糸口になっているのが、あのサラサーテの人間だか死者だかわからない声なんですね。その声を聴き取れる人は、霊界の死者と連絡がとれる。もちろん、そんなくだらない説明は、小説のなかで百閒はいっさいしていませんが、でもそうとしか思えないように書くのが百閒の怪談のすごさなんですね。日本怪談史上の最高傑作のひとつなんですよ。超現実は出てこないのに、これは霊界との通信の物語であると読者にわからせる。そしてこれもやっぱり冒頭がキモです。
“宵の口は閉め切った雨戸を外から叩く様にがたがた云わしていた風がいつの間にか止んで、”風がメタファーで描かれてますね。擬人化というメタファーの一種ですが、この擬人化が成功しているのは、あとでおふささんがこの風と同じように扉を叩いてやって来るからです。この音は、おふささんが来る前触れだということが読み返したときにわかります。“気がついて見ると家のまわりに何の物音もしない。しんしんと静まり返った儘、もっと静かな所へ次第に沈み込んで行く様な気配である。”この“し”の重ね方のうまさ。催眠的な魔力があるでしょう。これが百閒の天才性なんですね。百閒は、ひじょうにぞろっぺいな文章を書くように見えて、音に出して読みあげてみると独特なリズム感を持つ文章を書く人なんですね。でも、ここには具体的なことはなにも書かれていないんですよ。さっきの風にはメタファーがありました。人が戸を叩くような音という。しかし次のところはなんにも描かれていない。強いていうなれば、“沈み込む”って言葉だけですね。沈み込むような感覚。つまりメタファーとしても、イメージとしても表せないような感覚を“沈み込んで行く様な”と一言で表すのが百閒なんですね。だからこれは私たちには真似できないけれど、こういう見事な言葉遣いをする人もいるっていうことを、やっぱり文学的な教養として、あるいは小説を読むことの楽しみとして、ぜひ知っていただきたいんですね。
その後もすごいんですよ。“机に肱を突いて何を考えていると云う事もない。纏まりのない事に頭の中が段段鋭くなって気持が澄んで来る様で、しかし目蓋は重い。”一個ずつ全部方向が違っている。まとまりがなくて散漫な感じです。だけど頭のなかが段々と鋭くなってきて、気持が澄んでくる。しかし目蓋は重い。散漫、鋭敏、透明、鈍重と、一文のなかでまったく相反する感覚的なものを伝えるんですね。結果的に成立しているけれど、なにを言いたいのかがまったくわからない文章です。だけど成立しているんですね。散漫で鋭敏、透明で鈍重だというのは、一体なにを言いたいかというと、我々が夢を見ているときのような感覚でしょうね。夢を見ているのか、現実なのかわからないときに、ものすごくリアルなんだけれど、全身がしびれたみたいな感覚がありますよね。だからここで百閒が無意識のうちに再現しちゃったのは入眠幻覚のようなものですね。こういう謎めいた一文によって、もしかしたら夢の世界かもしれないし、幻覚の世界かもしれないと、読者は作品のなかに引っ張られていくんですね。書かれている言葉は単純だけど、すべては現実と幻覚の境目にあるんですね。まあ本当に見事なんですが、これぞという一文があります。230ページと231ページの間です。主人公と若い友人との会話のシーン。“「いやいや。まだまだ。あ、風が吹いている。そうでしょうあの音は」/「そうだよ。暗い所を風が吹いているんだよ」/砂のにおいがして来た。/玄関の硝子戸をそろそろと開ける音がした様だった。”とあります。おふささんの登場を引っ張っていますけど、砂の匂いってなんだろうと思うわけです。これが、言語が絶対的な現実を喚起する一例なんですね。すべての言葉がぴしっと決まると、読者は“砂のにおいがして来た”ってところで、「砂の匂いってなんだろう。わからないけれど、なんか砂の匂いがしたんだな。どうしてだろう」というふうに、ここから我々は砂の匂いを介して、もうひとつまた別の世界に踏みこむんですね。そして踏み込んだ結果、なにが起こるかというと、玄関のガラス戸がそろそろと開いて、おふささんが登場するわけです。
こういうふうに登場人物を引っ張り出してくるときも、百閒はすべて無意識にやっています。意識的に技巧をこらすような人ではない。だけど無意識にできちゃうから天才なんですね。結果として超絶技巧の怪談ができるわけです。砂の匂いというものが現実にあってもなくてもいい、言葉の力だけで小説のなかに実在させることができるんですね。この百閒の言語魔術をどうか堪能してください。
【 講師プロフィール】
◆中条省平(ちゅうじょう・しょうへい)氏
1954年神奈川県生まれ。学習院大学フランス語圏文化学科教授。専攻は19世紀のフランス小説。おもな研究書に『最後のロマン主義者―バルベー・ドールヴィイの小説宇宙』、翻訳としては、バタイユ『マダム・エドワルダ/目玉の話』、コクトー『恐るべき子供たち』、ラディゲ『肉体の悪魔』などがある。また、『映画作家論―リヴェットからホークスまで』『フランス映画史の誘惑』『中条省平の決定版!フランス映画200選』などの映画評のほか、マンガやジャズといった大衆文化への造詣も深く、『読んでから死ね!―現代必読マンガ101』『ただしいジャズ入門』『小説家になる!―芥川賞・直木賞だって狙える12講』『反=近代文学史』など多方面で文化論を展開している。