「小説家(ライター)になろう講座」だより...vol.26(2010.8.10)

小説家(ライター)になろう講座
7月講師・中条省平氏
「小説の解剖学――テクニックはそこに見えている」(前編)
 


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 7月の講師は、学習院大学フランス語圏文化学科教授で評論家の中条省平氏。おもな研究書として、『最後のロマン主義者―バルベー・ドールヴィイの小説宇宙』、翻訳としては、バタイユ『マダム・エドワルダ/目玉の話』、コクトー『恐るべき子供たち』などがある。また映画やマンガ、ジャズといった大衆文化への造詣も深く、『読んでから死ね!―現代必読マンガ101』など、気鋭の評論家としても知られている。

 講座は、本講座の世話役である文芸評論家の池上冬樹氏による講師紹介から始まった。     syosetukaninaru!.JPG

 「池上です。中条さんとは数年前に朝日新聞の書評委員だったときにご一緒したんですが、この人の話がとにかくおもしろい。書評委員でご一緒する前から、僕は中条さんのファンで、とくに『小説家になる!』『小説家になる! 2』の2冊(現在ちくま文庫『小説の解剖学』『小説家になる! 芥川賞・直木賞だって狙える12講』)は、小説の書き方の本のベスト1だと思っています。そこで、仙台「小説家・ライター講座」(現在「せんだい文学塾」)におよびしたら、講義がとても濃密で昂奮しました。絶対これは山形の人に聞いてもらったほうがいいと思っておよびしました。
 いつもは、生徒の感想、作者の弁明、僕の講評、そして講師の講評という順序ですが、今回はその順序をとりません。仙台もそうでしたが、中条さんにノンストップで話していただきます。生徒もぼくも講評はしません。中条さんはフランス文学の研究家であると同時に、映画評論家であり、マンガ評論家であり、もう本当に詳しい。知識が泉のようにわいてきて、作品をあらゆる視点から分析します。どうぞ愉しんでください」

 そして中条さんが自己紹介を兼ねた挨拶を行った。 

 「はじめまして、中条です。池上さんから褒めていただきましたが、おもしろくできなかったらどうしようかと困ってしまいますね。ぼくのほうでどんどん勝手に喋りますが、しばらくどうかおつきあいください」

 今回はいつもと仕組みを変え、生徒の感想や池上さんの講評を省き、中条さんの講評のみで進んだ。  syosetunokaibou.JPG

 今月のテキストはエッセイ1作品と小説2作品。

●『部屋のこと』(岩佐聡/エッセイ6枚)
●『嫁と姑は仲がいい』(下田寛子/小説27枚)
●『女王の結婚』(チアーヌ/小説32枚)


◆『部屋のこと』(岩佐聡)

 布団から足を投げ出すと突然、足首を切りつけられそうな気がして眠れない。マンションの前に突っ立って他人の部屋を見ていると、部屋の住人の生活を想像して興奮してしまう。ある日、部屋の中の、サイドボードが移動されている。移動されたサイドボードとそれがおかれていた空間が、アンバランスで、くつろぐことができない。


●中条氏の講評

 意外にお若いかたですね。(作者の岩佐さんを見て)26歳ですか。60をこえてる方かと思ってました。というのは、文章には必ずその書いている人の人間性や抱えてきた過去が反映されていて、それを我々は読むわけです。ぼくが最初年配の方だと思ったのは、この作品全体が、主に文章語を使って書かれているということがあるでしょうね。小説では、文章でしか使われない言葉を使ってなにかを説明することがひじょうに重要になるのですが、必須の条件ではありません。今回、童話体で書かれた小説(※今回のテキスト「女王の結婚」)があるように、童話のように子供でもわかる語彙を使って、小説世界を構築することもできるし、抽象的で辞書を引かなければわからないような言葉を使って書くことも可能なんですね。岩佐さんはその後者をやっているわけです。

 
 で、この作品ではとくに事件が起こらないですよね。そしてエッセイと副題がそえられているけれど、これはエッセイではありません。こうして自分の心境をつづりながら、事件が起こりそうで起こらない世界を描くという伝統は、日本にずっとあるんですね。日本の文学的な伝統のなかでは、これはエッセイではなくて小説と見なされます。つまりここに書かれてることは、書いた人の素直な心の表現とか、感想や意見じゃないんですよ。ひじょうに屈折した感覚のありかたを、主観的なビジョンのなかに描いているんです。


 「エッセイ」というのはモンテーニュの本のタイトルになっていますね。エッセイというのはフランス語で「エッセイエ」、「試す」という動詞からきた言葉なので、本来は「試論」という意味になります。モンテーニュはボルドーの市長も勤めた16世紀の偉大な文人ですが、彼はいろんなことを考えていた。ギリシャ・ローマの古典に則って、答えがないものに対しても、自分に問いかけて、そして考えながら書き綴った記録が、膨大な『エッセイ(随想録)』となって残ってます。今は宮下志朗さんのすばらしい訳でみすず書房から出ています。エッセイを読んでごらんになるといいいです。ちょっとべらんめえ調の言葉づかいの、フーテンの寅さんみたいなところがある人で、そういう感覚が訳によく出ています。


 モンテーニュを読んでほしいということを、単なる教養としてとらえられたら困るんですね。僕は、みなさんが小説を書くときの、あくまで実践的に役に立つこと以外は喋りたくない。極端なことをいえば、ここで「モンテーニュがいいよ」って言われて「モンテーニュを読もう」という気になった人だけが小説家になれるんですよ。「ああ、そうなんだ。ふーん」で終わりにしたら、もったいないですよ。だってモンテーニュって伊達に文豪じゃないですから。だから読んでみる。「あ、意外におもしろいじゃん」って思えたらいいし、「おもしろくなかった」でもいいんです。でも読むことが大事なんで。書ける人っていうのは、よく読める人のなかからしか生まれてこないと三島由紀夫も言ってる。だから読むしかないんです。これは説教ではなくて、読まないともったいないという実践的なアドバイスなんですよ。montenyuessy.JPG

 さてエッセイというのは「試しに論じてみる」という意味なので、たとえばモンテーニュは「人間に服は必要か」というテーマでエッセイのひとつを書いてます。延々と、服を着てない原始民族の話とか、服は必要だと主張する人の話とかを、ギリシャやローマなど古典の例から取ってきて、最終的にモンテーニュは「服は必要ない」という結論に達します。すごいですよね。ボルドー市長がですよ。なぜかというと、「全身顔だと思えばいい」というのが結論です。笑っちゃうような結論ですが、そういう意表をつく、ふだん我々が思ってもみないようなことをモンテーニュは徹底的に考える。大事なのは結論じゃないんです。誰も服がいらないなんて思ってはいないし。けれどそういう結論に達するような、さまざまな思考の働きというものを、モンテーニュは大事にしているんですね。だからみなさんも小説を書くときはいろんなことを考えるでしょうが、ひとつ回答が出たらそれで簡単にOKと考えないのが小説家として重要なことなのです。一行書いて、「なかなかよく書けた」と思っても、じつはもっとよくなるかもしれない。だから書くってことはつねに試してみること。まさにエッセイなんですね。
 
 元に戻りますが、そういうエッセイのように客観的な自分の考えを出すというのではなく、この岩佐さんがお書きになったのは、あくまで個人の主観を通して、世界がどんなふう変容して見えるか、ふだんなにげなく眺めている窓を見たときに、その窓の向こう側を想像することで、なにか新たな世界が開けるって話ですよね。これはもうまぎれもなく小説です。ふつうに経験している日常的な世界のビジョンが、そのときの感覚のありようでちがって見えてくるという話ですね。これは日本でいえば、梶井基次郎なんてのが代表的な作家ですよね。梶井の書く世界にひじょうに近いし、古井由吉なんかも、なにげなく見ているものがどんどん変に見えてくるような世界を書く人です。そこでは感覚の異様さとか先鋭さが問われるわけですね。ですがいくら感覚が変容するといっても、的確な言葉で表せなければ読者には伝わらない。大事なのは自分の言葉で、的確に自分の感覚の変容を書き表すことなんです。はたして岩佐さんにそれができているかっていう話になるわけです。残念ながら基本的にはできていないということになりますが、それではなぜできていないのかをこれから具体的に見ようと思います。これからけっこうきついことを言うかもしれませんが、これで落ちこんだら作家にはなれないですよ。

 
 さっそく1行目“布団から足を投げ出して眠ることができないのは、足首をいきなり鉈かなにかで切りつけられそうな気がするから。” kaijotyujo.JPGこの語尾がそもそもバツ。“からだ”っていうふうにやらないと。“から”という現代的な喋りかたで留めたときに、大半の文芸評論家は反感を抱きます。“から”って留めて、「なに気取ってるんだ」って思われたら、1行目でさっそく失敗です。だから“からだ”って言えば済むことなので、ふつうに書くことが大事です。無用な反感を読者に起こさせない。文学賞の審査員に読んでもらうときもそうですが、一般の読者にとっても、“から”という留めかたが「中途半端でよくない」と思われたら負けなんですね。


 さて問題は布団です。つまり“足を投げ出して”と書いてあるから、布団であるのはわかりますけれど、掛け布団なのか敷布団なのかを最初からはっきりさせておいたほうがいい。そうしないとイメージがはっきりつかめないんですね。この人はどういう状態でそこにいるのか、たとえば掛け布団って書いただけで、「この人は掛け布団をかけて寝てるんだ」とわかります。“布団”だけでは、敷布団のうえにごろんと寝ているイメージだって湧くわけですよ、我々は。そのイメージが湧いたまま、“布団の中にすっぽり頭まで入り込んで縮こまりながら”と書かれたら、最初のイメージとずれてしまう。そうすると読者としてはすごく嫌な気がするんですね。すごいストレスになる。だから掛け布団か敷布団かと、イメージを決定していかなければならない。小説としてもっとも大事なのは、イメージをクリアにしていくことです。読者に、どういう状況にいるのかをはっきり伝えることなんですね。だからここは絶対に“布団”ではなく“掛け布団”にしなきゃならない。

 
 話としてはおもしろいですよね。つまり異常感覚の話です。かぶってる布団から、足を投げ出したら、その足が鉈で切られて、どこかに持っていかれるかもしれない。これはまさに日本文学における感覚の変調を描く伝統に、ダイレクトにつながるものなんですね。そして次。“わきばらとふとももに汗が滲んでいる。布団の中にすっぽり頭まで入り込んで縮こまりながら、汗でべとついた体のかゆみに耐える。尻のくぼみに汗がたれてきて”ここがダメです。つまり尻のくぼみに汗がたれてきてって言われたときに、この人はどういう体勢で寝てるか、まったく想像ができない。どうして尻にくぼみができるのか、どんな格好しているのか。汗がたれるという垂直的な状況を、どういう体勢をとると、そういう結果になるのかが分からない。尻でも腰でもかまわないけれど、“尻のくぼみに汗がたれてきて”って書いたときに、ここで読者はたいてい途方にくれます。それより先に読んでくれません。ただ、“尻のくぼみ”って書いたときに、なんか文学的なものがプラスされているような気がしますよね。“尻”よりも“尻のくぼみ”のほうが。でもここでイメージが濁ってしまうからダメなんですね。“尻に汗がたれてきて”でかまわないです。体勢がどうであるかをはっきりと示せるような的確な言葉を選ぶ必要があるわけです。その点では“尻に汗が回ってきて”のほうがより良いかもしれません。

 
 そのあとが最初のこの作品のキモですね。“布団と自分の体がこすれる音しかしない。そとで物音がするわけではないけれど気配は確かにあって、空気の流動を感じる。というと滑らかな動きのようであるけれど、密度の異なる凝縮された空気が布団の上でうごめいている、と言ったほうが正しい。”なるほど。つまり自分の布団のなかにある世界と、外の世界にだんだんと違和感が生じてきて、単なる感覚の異常が物の怪みたいな実感にまで高まっていく。抽象的な語彙だけど、とてもうまく説明してますね。この物語は、3つのエピソードにわかれていて、第一篇は布団のなかにもぐりこんでいると、物の怪のような感覚が迫ってきて、ひじょうにこわくなってくる。第二篇は、あるマンションの前に立っていて、マンホールから湿気が押し寄せてきて、ふとマンションの窓を見上げると、そこで暮らしている人のことが想像されてきて、一体どういう生活をしているんだろうという謎にひっぱられる。もしかすると、そこで我々の想像ができないような奇妙な異世界が展開されているんじゃないかと思う。江戸川乱歩の『屋根裏の散歩者』みたいにふっとよその人の、その人がまったく他人の目を意識していない世界をのぞきこみたいという、一種ののぞき願望ですね。その結果、自分では想像もしなかった世界を目撃してしまうというシチュエーションです。三番目は、家に帰ってきてみるとサイドボードの位置がちがっていたという話。なんだか変な気分がしてきて、非常にうまい細部をふくんでいますが、この感覚の変化というのは何なんだろうと主人公が戸惑いながら軽いオチにいく。


 こうして三つのブロックがあるけれど、構造はまったく同じです。日常の生活があり、違和感を抱く。そこからふだんは見えなかった世界が見えてくる。岩佐さんのいいところはユーモアで落としているところですね。たとえば一篇目、最初のエピソードの場合だと、ひじょうに奇妙な感覚のなかから、最後のオチが出てくる。“そうなると、理不尽に足首を切り落とされて、「はいはい、こちらはほかの人のものなので」といった具合に、さっさともっていかれてもおかしくないような気がしてきて、たまらなくなる。”どうぞ持っていってくださいと、それまでの感覚の異変を一種のユーモアで落とすというやり方ですね。これはなかなかおもしろい。ユーモアで落とすというのはすごく難しいけれど、それに挑戦しているってのはいいことだと思います。ただたとえば真ん中のあたりで、物の怪のようなものを感じたあと、“そこからスーっと布団の中にこれが入り込んでこないともかぎらないから、油断できない。”とある。 kougiwotyujo.JPG“スーっと”とカタカナで書かれてますけれど、これはひらがなのほうがいい。つまりカタカナにしたとたんに物の怪の、なんともいえない張りつめた気配が、この“スーっと”というカタカナ書きで、一種の違和感、異化効果を作ってしまうんですね。ふつうにひらがなで“すーっと”と書けば地の文とつながるけれど、カタカナになっちゃうことでここだけが浮いてしまう。だから今までずっと一生懸命、異常感覚の緊張を醸成しようとしてきたのが、このカタカナ一発でダメになってしまうんです。だから、オノマトペのカタカナ書きには注意してください。僕が個人的にそれが嫌いというのもあるんですが、そこだけ浮き上がります。全体はひらがなで書かれているのに、カタカナで書くとね。強調ではあるけれど、むしろそんなことを強調しないほうがいいですね。“スー”というのは擬音語でもあって、全体の調子を安っぽく落としてしまってもいる。
 
 二番目のエピソードの出だし、“アパートとかマンションの前に突っ立っていると体が火照る。”とあるけれど、この“アパートとかマンション”がダメ。アパート“とか”マンションって、どちらでもかまわないほどいい加減だったら、読むほうがいやになります。アパートでもマンションでもどちらを選んでもいいけれど、“とか”なんて書く必要はどこにもないわけです。“とか”“みたいな”“かもしれない”というのは、書く側はやってはいけないですよ。さっきも言ったとおり、これが一番悪いのは、イメージを濁らせるからです。読者はつねにクリアなイメージで引っ張ってほしいんですね。それなのに、“アパートとかマンション”って言ったら、読者はなにを思い浮かべたらいいんですか。マンションとはっきり決めれば、読者はイメージを親切に思い浮かべてくれるわけだから、“とか”なんてあいまいな言葉は絶対に使ってはいけない。


“マンションの前の道路にマンホールがある。そこに冬の夕暮れ、マンホールの上に立っていると、通気孔から湯気が立つ。”畳語ですね、必要のない言葉を重ねて使うことです。つまり“そこに”とすでに言っているのに“マンホールの上に”とある。これは小説としては絶対にやってはいけない。どちらかを削ってください。続いて“マンションから流れた、生暖かい排水の蒸気。”とありますが、体言止めもダメです。体言止めを多用している方がいますけれど、体言止めというのは、よほどのことがないかぎりやる必要がないものですよ。なぜ体言止めにするのか、ぼくはわからないけれど、なんかリズムがでるのはたしかです。けれど体言止めにした瞬間に、文章全体が安っぽくなってしまうんです。たとえば“そこに人影”とか、そういう映画のあらすじ紹介みたいになってしまう。だから体言止めはやらずにふつうに書く。文豪で体言止め使っている人はいないと思いますよ。


 問題はそのあとです。“むうっと、甘ったるいにおいの排水の蒸気を浴びながら”こういう細かいことが重要なんですよ。浴びるというのは上からの液体を身体で受け止めることを言います。でも蒸気は液体じゃないし、下のマンホールから湯気が立ってるわけでしょう。それを浴びるというのは、文法上まちがいではないけれど、小説上は誤用です。だからここは“蒸気に包まれながら”とか“蒸気にあおられながら”でしょう。そういう細かい言葉遣いに気をつけてください。


 そうして排水溝から上がってくる蒸気が、一種の呼び水になって、感覚の異常が呼び覚まされてきて、電気のついた部屋の窓の向こう側で、奇妙なことが起きているのではないかと思うわけですね。このエピソードの真ん中にまた“排水の蒸気を浴びて”とありますが、これはたとえ「浴びて」ではない正確な表現が使われていたとしても、なるべく同じ表現を使わないのが小説としては大事なので、別の言葉を考えるのも小説家としての修行です。作家としての語彙力を高めるための道であり、みなさんがたの小説作法にとってはテクニックを磨くための重要な機会だから、同じ言葉を安易に使わずに、他にどういいかえられるか、どんなふうに言葉を多彩に使えるか試してみてください。さまざまな他人の生活を想像する。おもしろいですよね。ただ“他人の生活というものは、まったく想像がつかない。壁で仕切られて、カーテンが閉められた空間の中で他人は、インビ。中で、想像の範疇を超えた行動をしていたって、それはまったくおかしくない”


 まずインビがカタカナ書きになっていてダメ。体言止めもダメ。“想像の範疇”なんて難しい言葉を使っているけれど、ここも“想像をこえた”で十分。難しい言葉はなるべく使わないように。“想像の範疇を超えた行動をしていたって、それはまったくおかしくない”という文章は、これは一見、ふつうに見えるけれど、小説ではダメなんですね。なぜかというと説明だから。つまりここで岩佐さんがなさっていることは、まさに他人の生活は想像不可能で、想像していると奇妙な異界にひきこまれる。そういう危ない世界だといいたいわけです。そのいいたいことを抽象的に説明してはダメです。その人の感覚とか心理は物語を通して描くべきであって、説明してしまったら、読者はそこで納得してしまう。つまりそこで終わってしまうんですね。抽象的な説明ではなく、描写や行動や物語で納得させるのが小説です。で、二番目のエピソードの最後もまたユーモアで締めるんですね。“部屋の中、男が急になにか思い立ち、全裸になって体を反りに反りあげ”とあるけれど“反りに反りあげ”ってどういうことでしょうか。意味がわからないけれど、正確には“身体を反り返らせ”にすべきでしょうね。“自分のいちもつを、天井にぶら下がっている蛍光灯にかざしていたって、ありえる話だと納得してしまう。”   yumoawomajie.JPG
 

 すごいですね。よく書きました。これだけでもえらい。作家というのは恥ずかしい商売ですから、“いちもつ”って言葉が必要なときに、“いちもつ”って書ける人だけが作家になれます。ぼくは書けない。でも作家はいちもつだって女陰だって陰毛だって書けなきゃダメなんですね。作家とはそういうおそろしい商売で、言葉の正確さというのはそういうものです。小説家の大切な倫理というのは、正確な一言を探し当てることなんですね。たとえば“なにかがゆっくりと通り過ぎた”という文章を書いたとき、“ゆっくりと”ではちょっとだけニュアンスが違うんだけどな、と思っても、似たような言葉を探していると時間がかかりますよね。だけど“ゆっくりと”で妥協したら小説家になれないです。つまり「あ、思い出した。私が探していたのは“ゆっくりと”じゃなくて“おもむろに”だった」という。そういう言葉の絶対的な正確さというものを探し当てるまでの忍耐心、これが小説家には必要です。

 もちろん物語を進めたいですよね。主人公がどうなったかを書きたい。どんどん書きたい。でもこの“おもむろに”を頭のなかで思い浮かべたはずなのに、“ゆっくりと”で済ませたら、その人は小説家としてはやっぱり二流ですね。そういう言葉の絶対的な正確さをつねに考えながら書いてほしいんです。そんなことを考えてたら書けなくなるって思うかもしれないけれど、それはまだ経験が浅いからであって、たとえば世界最高のアスリートは、考えなくたって世界最高の走りをすることができる。だけど身体はその走りを覚えるためにものすごいトレーニングで、その正確さというものを身体に叩き込んでいるわけです。小説家も同じで、おそらくは反射神経なんですよ、おそらくは。正確な言葉がすらっと出てくるまで、何度も何度もその書き直しながら修行しなかったら、正確な一言がごく自然な肉体的な行為として出てこないと思うんです。だから“いちもつ”が必要なら“いちもつ”と書く勇気を持たなければダメなんですね。


“自分のいちもつを、天井にぶら下がっている蛍光灯にかざしていたって、ありえる話だと納得してしまう。”ありえないと思うけれど(笑)。だけど本人がそう言っているし、おもしろいから、こう書かれた以上は納得しますよね。言葉の力というのはすごいもので、“いちもつをかざしていた”って書いたら、いちもつをかざしているほかないんです。それが小説の言葉の力なんですね。「いやあ、そんなやついないと思うよ」と思っても、納得して読み進めるしかない。だからそういう意味で、言葉は正確にそこに置かれれば、ほとんど読者の頭のなかで現実に変わるわけですから、それぐらい重い、痛切な行為なんですね。で、奇妙な感覚が惹起され、そしてその他人の生活の奇妙さが迫ってきたところで、いちもつを出して反り返っている男のユーモアで落とす。岩佐さんは自分の小説作法というのをすでに発見しているんですね。感覚の違和感を繊細に書いていく。ひじょうにリアルに書いていく。もう物の怪が出てきそうなくらいにこわい。だけど現実に戻さなければ、小説としてはオチができませんよね。だからユーモアで落とすというやり方、もうすでにこのドラマツルギーは二つやって、二回とも成功してますよ。ただ言葉を削って、正確にすることが必要です。言葉が正確に組み立てられないかぎり、オチまで読んでもらえませんからね。 


 三番目のエピソード、これがメインになるわけですが、これも悪いところをいくつか言います。“だから、自ずから変化を引き起こすというのは私にとってとても不可解で、その不可解の最たるものが部屋の模様替え。”“私にとって”はいらない。この作品の世界そのものが一人称で書かれているから、こんな奇妙な世界になるんで、ここで“私にとって”なんて言う必要は全然ないわけです。すべての文章が私にとっての世界を表しているんですから。そして“とても”というのも文章語としてはダメです。“ひじょうに”とか“ひどく”とかいろいろな言い方があるけれど、“とても”というのはまだ日本の小説のなかでは、文章語として使えるものになってないです。たとえば泉鏡花はこの“とても”をひじょうに嫌っていました。なぜかというと、明治時代の日本語では“とてもじゃないが”とよく言いますけれど、このように必ず否定形と一緒に使われていたんですね。だから鏡花は“とても”を“ひどく”という意味で使うことはできないからひどく嫌がっていたんですね。“とても~ではない”“とても耐えられるものではない”といった使いかたをしないとダメだよと泉鏡花は言ったけど、我々はさすがに泉鏡花の時代にいるのではないから、日常会話では使ってもかまわないけれど、文章語としてはやっぱり“とても”は使わないほうがいい。


 その次に“ある日、仕事から帰ったら”とあるけれど、ここはあまりにも軽すぎる。岩佐さんの書く世界というのは、文章でしか成立しない異常感覚の世界ですよね。感覚の鋭敏さの世界です。“仕事から帰ったら”といった瞬間に、この文章の緊張がだらけてしまう。「仕事から帰ったら、なんか疲れちゃってさあ」という、そういう感じがこの“~たら”に表れるんですね。これひとつで小説世界が崩れることもあるんですよ。だから“仕事から帰って”とか“仕事から帰ったとき”ならいいけど、“~たら”はダメです。


 そして部屋のサイドボードが動かされていたわけですね。ぼくはこの小説の一番いいところは次のパラグラフだと思います。“移動した、サイドボードに意識を集中しすぎて、全体的に、きゅうくつに感じ、だけど、サイドボードのもとあった場所はぽっかりと空いていて、それがひどくアンバランスで、部屋全体が西に傾いているのではないか、と錯覚をおぼえる。”“だけど”や“もとあった”は口語的すぎるからダメです。一番いいと思ったのはそれ以降です。“それがひどくアンバランスで、部屋全体が西に傾いているのではないか、と錯覚をおぼえる”この感覚がこの小説の頂点ですね。サイドボードひとつないだけで、部屋が傾いたように感じるんだという。これは単なる異常感覚にすぎないけれど、的確な言葉を使って、徐々に話を進めていって、この1行にたどりつけば、ここでこの小説は完成といっていいです。「ああ、なるほど。そういうこともあるかもしれないな」と思わせる力がありうるんですね。   tyujo2.JPG

 
 で、“これはどうしたの、と同居している人に尋ねると”と、ありますが、これは男ですか女ですか?(作者の岩佐さんに尋ねる。女性だとの答えが返ってくる)でしたら“人”ではなく“女”と書かないと。なぜ“人”とぼかす必要があるのかと思うわけですね。「言葉を正確に」「イメージをクリアに」と、しつこく繰り返してますが、つまりこういうことなんです。人間は女と男しかいないから、どちらかはっきりさせなきゃならない。そして女性のこのセリフ“「模様替え、気分転換。いいでしょ、朝、窓から日が差すでしょ」”これはぜんぜんダメですね。悪いけれど。ぜんぜん女性の言葉にはなってない。喋りのなかで体言止め。「模様替え、気分転換」バカ野郎って思いますよね(場内笑)。「いいでしょ」って言われてもぜんぜんよくねえよと突っ込んじゃうわけです。「いいでしょ、朝、窓から日が差すでしょ」と、“でしょ”を二度使うのも嫌ですね。こういう女と住みたくない(笑)。だから女性のセリフって、男が書いているというだけで気持ち悪いのに、失敗したら全部ダメになる。こんな大きなリスクを冒せば、この小説は全部ダメになりますよ。もっと修行を積んで、女のセリフが書けるようになったらまた挑戦してください。だけど今回は女のセリフはいらないし、そんなリスクを背負う必要もないですよ。これはひじょうに男性的な感覚で書かれている。古井由吉や梶井基次郎といったけれど、この異常感覚の世界というのは、どちらかというと男の神経過敏で自意識過剰の、端的にいえばあまりつきあいたくないやつの世界ですよ(笑)。だけどつきあいたくないやつの世界だけど、それが的確な言葉で書かれると、「おお、そこに美がある」と思うわけですよ。ひとりよがりでいやな感じですけれど、きれいな言葉で韻律を活かして書かれていると、もうこの世のものとは思えないほどの美に感じられるんです。男の女性に対する勝手な思い入れとかでもね。話がそれましたが、この女のセリフは削ってください。それから“もとあった”という言葉が多いですね。何度もでてくる。つまりサイドボードが置かれてあった空間を“もとあった空間”と何度も言ってるんですけれど、全部これは言い換える必要がある。困難かもしれないけれど、これを愚直なまでにやる修行が必要なんです。


 またもうひとつダメなところ。“ぼうっとしようとすればするほど、サイドボードともとあった空間は、強烈な存在と空虚に変わって迫ってくるように感じるのだ。”強烈な存在と空虚、これが説明なんですよ。つまり存在していないサイドボードが、むしろ逆説的な存在感を発揮しちゃってるわけでしょ。つまり空虚と存在の逆転みたいなことだけど、これを作者の口で説明してはダメです。つまり「空虚が存在よりも存在感を放つこともあるんだな」と読者に納得させることが重要なんで、“強烈な存在と空虚に変わって迫ってくる”ことが実感として読者に迫らなきゃならないんだから、これが一番いけない説明の一句ですね。あと次のところでもやってはいけないのがあります。“動かされたサイドボードは、こちら側の角が”とありますが“こちら側”という書き方は小説の世界ではありえないです。だって“こちら側”と言われても、言われたほうは「どっちだ?」と聞きたくなりますよ。もし書くなら“手前”とするべきで、“こちら側”というのは、会話者が同じ空間にいたときに、会話者にとっての“こちら側”というのは、同じ空間にいればわかるけれど、読者は書き手と同じ空間にはいないから、“こちら側”と作者が書いても、どちら側かわからない。“こちら”とか“あっち”という指示語は小説では基本的に使えない言葉なんですね。会話文は別だけれど。地の文では絶対に使えない。

 
 それから“ほうっておくと、こちらに覆いかぶさって頭をグリグリやられるのではないかと思うほどの圧力”とあるけれど、“グリグリ”とありますが、カタカナで書かれているので滑稽感が発生しているんですね。書きたいはずの緊迫感がこの“グリグリ”で笑われるべき対象として失われてしまう。これはやってもかまわないけれど、せめてカタカナ書きは避けなければいけない。また“人が何度も踏みしめて、行き来し、足の脂が少しずつ、しみだしてにじんでいる。”とありますが、これは不正確です。脂は床から染み出すものではないでしょう。染み出すのは足からなのだから、この場合は“しみこんで”と正確に書かなくちゃ。こうしたちょっとした不正確が、作者に対する信用を失わせます。で、ちょっとでもまちがいがあって、「なんか信用できないな」って思うと、読者は作者を軽んじるから読み進めてくれないんですね。書いてるほうはちょっとした気の緩みなんでしょうけれど、作者側のまちがいを読者はマイナス点として見るから、こうしたまちがいは絶対にしてはならない。


 で、そうして最後にイタチの比喩が出てきて、サイドボードがなくなっただけで異空間が出現するという落としどころがどうなっているかというと、“私は、サイドボードのもとあった空間に、勝手なことをして申し訳ない、と思った。あやまりたい気持ちになってしまった。”おもしろいです。おもしろいけれど畳語です。申し訳ないってすでに思っているのに、あやまりたい気持ちになったという必要はないので、これは“勝手なことをして申し訳ない、とあやまりたい気持ちになった”と、ここでもそこはかとないユーモアで落としている。


 だから、直すべきところは無数にあるけれど、岩佐さんは自分の書きたいことをわかっているし、言葉もかなり使える。ただ、言葉をとにかく正確に、自分が書きつけた言葉を全部読者に説明できるぐらいに書かないとダメですね。「なんでこういう言葉を使うんですか?」と問われたら「これはこういう理由ですよ」と、読者は訊いてはこないですけれど、自分で自分に説明して納得できない言葉だったら、それは削ってください。そうしたほうが全体が浮き立つと思う。いろいろ原稿に書き込みをしましたけれど、これを全部書き換えれば、ずっとよくなると思いますよ。自慢じゃないけれど(笑)。もしもやってよくなったと思ったら、「中条というのは嫌な野郎だけれど、小説を少しはよくしてくれた」って思っていただけるんじゃないかなと思います。


◆『嫁と姑は仲がいい』(下田寛子)

 主人公の春花は仲の悪い母と祖母のやり取りを毎日眺めている。父も傍観者を決め込んでいるのか二人に口を出さない。学校の友達に母と祖母の関係について相談するも何となく要領を得ない。家に帰ると祖母が足を怪我して入院しているという。母と一緒にお見舞いに行くと、また喧嘩が始まる。祖母の入院中、家はとても静かになった。退院までの短い間だった。退院したばかりだというのに外出しようとする祖母と、母はまた喧嘩を始めた。春花が止める間もなく、口論の末に祖母は家を出た。再び家に静寂が戻る。だが、母が倒れてしまった。困った春花が祖母に電話すると、叔父夫婦の家にいた祖母が帰ってきて、母の看病を始める。二人のやり取りを見て、春花は二人が本当はお互いを思いやっていることを知る。


●中条氏の講評

 まずタイトルがダメです。つまり『嫁と姑は仲がいい』というタイトルは、この小説の主題そのものじゃないですか。嫁と姑は仲が悪いという紋切り型があって、その紋切り型のドラマが最後に逆転するわけですよね。だから嫁と姑の物語ではあるけれど、これで嫁と姑が仲がいいって言ってしまったら、オチで二人が仲よくなったときに、「なんだ、タイトル通りの話か」と意外性がなくなってしまう。タイトルはぜんぜん内容と関係ない形でもかまわないので変えてください。


 では冒頭だけ徹底的に見てみましょうか。“朝目覚めると下からがしゃんという音が聞こえてきた。”朝のあとに読点をつけてください。細かいことですけれど、こういうつまらない引っかかりをなくしていくことが重要なんです。“朝目”という単語に見えてしまいそうだし、目が悪い人は“朝日”と読んでしまうかもしれない。ここで引っかかると、もう減点1ですから。
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“毎朝階下からの音で目が覚めるので枕元にある目覚まし時計の意味はほとんどない。大して気にも留めず時計に目をやると現在の時刻午前七時十一分。”体言止めだけど、まあここは許します。だけど絶対ダメなのは、“現在の時刻”のところ。これはいらないでしょう。現在の時刻以外に時計は指しません。またここで体言止めが許される理由は、“午前七時十一分。あくびが出てきた。”と、すらっとつながっていて、体言止めでありながらここで止まってないんですね。次の“あくびが出てきた”というアクションにつながってるから、この体言止めは許されるんです。いろんな理由で体言止めが許される場合はあるけれど、それでもやっぱりやらないほうがいい。


“カーテンと窓を開けると、鳥の鳴き声が聞こえてくる。”カーテンと窓というのは正確かもしれないけれど、これはどっちかでもかまわないんですよ。だってそんなことを言ったら、カーテンを開けて、窓を開ける前に鍵を開けるとか、全部を説明しなきゃならなくなる。外に出るってだけで、その前にスリッパを脱いで、玄関に出て、靴をはいて、玄関のドアを開けた、なんて全部説明しなきゃならなくなる。だからこれは別に“カーテンを開け”でも“窓を開け”のどちらかでかまわないんですね。小説はエコノミーを大事にしてください。読む人は無駄な時間を使いたくないから、エコノミーの点から見て、どちらかで充分です。


“クローゼットからくたびれた中学の制服を出して袖を通す。”どこがダメか、“袖を通す”のところ。だってこれは主人公が中学生でしょう。中学生が“袖を通す”なんて言葉は絶対に使わない。中学生が主人公の小説だから全部中学生水準にすることはないですよ。小説は大人の目に耐えられるように書かなければならないから。でも中学生が使うはずのない語彙を使っちゃうのはバツです。それとこのヒロインの名前が、最後のほうになってようやく“春花”とでてくる。名前をだすのなら、もっとはじめのほうに出したほうがいいし、出さないのなら出さないで全然かまわない。それとルビをふって、読者には自然に“はるか”ですよと伝える。


 次の文章で“うちの中学の制服はチェックのリボンが特徴的な制服だ。”とありますが、もう“中学の”はいらない。それとこの“うちの”という言葉は、今どきの女の子の言葉遣いだから使いたいかもしれないけれど、“うちの”と言われると、なんだか靴の踵をだらしなく踏んで歩いているようなだらしない女の子みたいに思えますね。だからダメ。もちろん、この場合“うちの”というのはそういう意味ではなく、“私の”という意味で使っているのかもしれないけれど、やっぱり避けたほうがいい。それと“制服”が畳語です。なかなか調子よく書かれていますので、これらを直せば問題ありません。


“台所からリビングを眺めると、もう家族はみんな揃っていた。”ここでわからなくなってしまう。なんで鞄を持って階下に下りたのに、台所にいるのか、テレポーテーションかと思ってしまう。そうするとあとになって理由がわかるわけです。“冷蔵庫から水を取り出してコップに注ぎ口に含むと、目が少し覚めた。”つまりのどが渇いているから、台所の冷蔵庫にまで行って水を飲んだんですね。それならこう書けば問題はなくなります。“鞄を持って階下に下りる。台所の冷蔵庫から水を出してコップに注ぎ、口に含むと目が少し覚めた。リビングを眺めると、もう家族はみんな揃っていた。”こうするとずっとよくつながる。だから主人公の行為の順番を時間軸にそって追うだけで、全体がきっちりと見えてくるという書き方が一人称では大事ですけれども、この場合は“台所からリビングを眺めると”という部分が時系列においてねじれを生じてしまっているために変な感じになってしまう。“目が少し覚めた。「おはよぉ」”とつづきますが、誰が言ったのかわからない。それから“「おはよぉ」”ですが、小さい“ぉ”が使われてますが、これも品がない。昔の落語の速記本みたいに感じられる。これは普通に“「おはよう」”でいいです。つまりふつうの言葉遣いでも、読むほうは、それを会話として読んでくれますから。むしろ視覚的に“ぉ”と小さくなっていて、「なんだか職人の言葉遣いみたいだな」と思われるマイナスのほうを避けるべきです。“「おはよう」”だとリアルではないかもしれないけれど、読むほうは音に出して読んでくれるのでそれでいいんですね。


 そして家族が一家団欒の風景のはずなのに、お父さんは新聞で顔を隠して我関せず、“あとの二人は私の隣におばあちゃん、父さんの隣に母さんがいるのに、机の真ん中にいつの間にか壁でも出来たみたいに気付かない。”とあるけれどこれは書き直さなければならない。どういう状況なのかまったくわからない。おばあちゃんとお母さんの間に見えない壁があるという感じでしょうか。状況は正確に書かなければならないけれど、ただお母さんとおばあちゃんが仲が悪いというのを、こんな表現で言う必要はないです。そのあと二人はケンカするわけですから。そのケンカを見れば、誰だって仲が悪いことはわかるから、ここで壁なんて説明してしまうのはもったいないですよ。ショックや驚きやおもしろさは小出しにして、せっかくのおもしろいところをつまらなくしてしまわないことです。


“「んー、味噌汁がしょっぱいらしい」/「そうなんだぁ」/横を見ると確かにおばあちゃんがお椀を片手に怒鳴っていた。”これは悪いところがいっぱいあります。まず一つ目は“横を見ると”とあるけれど、主人公の視点で書かれているから、横を見る必要はないですよ。つねに主人公の目の動きに従って書かれているから、“横を見ると”のおかげで読者に余計なイメージが入っちゃう。“確かに”も必要ない。だって主人公が納得しただけでしょう。その事実を追認する必要はないんですね。さっきも言ったとおり、小説は言葉に指示されたことをすべて読者は「そうだ」と思ってくれるから、作者が“確かに”って納得している合いの手を読者は必要としない。“おばあちゃんがお椀を片手に”で読者は親切に、おばあちゃんが椀を片手で持っている姿を思い浮かべてくれる。無駄なんですね。“横を見ると”“確かに”が。


 それから一番いけないのは、“怒鳴っていた”という現在進行形の過去を使っていることですね。なにがいけないかというと、状況がもうすでに始まっていたということですよね。そうするとショックが消えてしまうんですよ。“おばあちゃんが怒鳴った”という行為ならば、ふつうに小説としての時間が流れるのに、“怒鳴っていた”となると、さっきから怒鳴る行為が続いていた。主人公が横を向いたときに、その事実に気づいたのかと、読者はこの過去の進行形でそう考えてしまうんですね。そんな余計な手間をかけさせてはいけないんですよ。“怒鳴っていた”となると、主人公はそれまで気づかなかった鈍感な女というふうに読者に烙印を押されてしまう。だから“おばあちゃんが怒鳴った”でかまわない。“怒鳴っていた”はマイナスでしかない。   ikegamityujo.JPG
 
 これは長い小説なので、簡単にまとめますと、お母さんとおばあちゃんの仲が悪い。それでそのおばあちゃんが病気になってしまう。家が静かになって、ヒロインもほっとする。おばあちゃんとお母さんのケンカは見たくないから。でもなんかお母さんが、おばあちゃんがいなくなって“遠い目”をしちゃう。“遠い目”というのは、憧れとか肯定的な意味合いをふくんだ放心状態ですから、おばあちゃんがいなくなっただけで“遠い目”をするかなと思いますし、これはリアリティがないので削ったほうがいいですね。張り合いを失ったわけですが、それをなにも“遠い目”という表現で表すことはない。とにかく張り合いを失ってしまって、それが原因でお母さんが倒れてしまう。これもなんだか悠長なんですね。“台所に入って、飲み物をとろうとしたら、床に母さんが倒れていた。/「母さんっ!」/顔を近づけると息が荒く、額に手をやると熱かった。”こんなところで対句にしちゃダメですよ。“顔を近づけると”って、そんな場合じゃないだろうと。まず“顔を近づけると”というのはいかにも悠長で、この場合は“息が荒い”ことにまずはびっくりしなきゃ。母親が倒れている人がいるのに、“顔を近づけると”って、「愛情はあるのかこの娘は」と思いますよ。そんなこと、取るものも取りあえずってところでしょう。“息が荒く、額に手をやると熱かった”とすべきで、とにかく悠長にしている場合じゃない。“こういった場合、どうしたらいいんだろうか。”これも“こういった場合”なんて、なんだか災害時のマニュアルみたいですね。ここはカットすべきでしょう。“すぐに対処できずにいると”と続きますが、この“対処”というのも、いかにもお役所みたいです。で、倒れたお母さんは“「心配しないで」”と答えますが、このあとがすごい。


“どうしよう。/父さんに電話しようか?/でも、仕事中で出てくれるかわからないし。/救急車?/でも、救急車なんて呼んでいいの?/「そうだ!」/おばあちゃんだ。”この緊急時に。『ユリシーズ』のジェイムズ・ジョイスなら許しますが、こういうのを内的独白といいますが、こんなシーンでやったらふつうは怒られます。“でも、救急車なんて呼んでいいの?”って言われても、読むほうは「勝手にしろ」ってこのあたりで思いますね。つまり全部いらない。お母さんが倒れて、びっくりして、でもとりあえず叔父さんの家に電話をかけたとやって、こんなところで盛り上げる必要はぜんぜんないんです。大事なのはこのあとにでてくる物語の展開なので、これはやっぱりいらない部分なんですね。


 お母さんが倒れて、けっきょく頼れるのはおばあちゃんだけだった。そしておばあちゃんが家出をする原因となったのは、孫娘のヒロインのために浴衣を作ってやりたくて、驚かせるために家を出てよそで作っていた。そのことが原因でお母さんとおばあちゃんがケンカをしてしまう。けれども最終的には仲がよくなるというお話ですよね。だから物語としては定型ですよ。橋田壽賀子さんがこれに基づいてひとつ話をつくれば何百万円ですよね。うまく書けば、ひじょうに巧みな娯楽小説になります。ただしつねに「こうなるだろうな」という読者の予測どおりに進んでしまう。読者の予測に反して、物語を展開させるというのも才能だけれど、読者の予測のぎりぎり範囲内でちょっとずらしながら展開させていくというのも、読者にやさしい小説であって、読者は読みながらこう思うわけですよ。「ああ、私の思うとおりに展開している」って。そうやって引っ張っていけばしめたものなんです。だから話としては月並みであっても、おもしろく引っ張っていくには言葉の正確さや無駄のなさ、それから先を予測させすぎないことですね。「どうせお母さんとおばあちゃんが仲良くなって終わりだろ」って思わせたら終わりなので、これをうまく隠しながら最後の感動に持っていくというのが大事なんですね。


 じゃあ最後がうまくいっているかというと、おばあちゃんが浴衣を作ってくれるわけですが、“アヤメの模様で涼しげな浴衣だ。既製品と遜色ないぐらい綺麗に出来上がっていた。”とあります。これはほめ言葉にはなってないですよ。(場内笑)せっかく作ってくれたのに、既製品よりはちょっとマシだみたいな。“既製品にはない風合いがある”とかにしないと。


“「おばあちゃんありがとう」/と言うと、/「いいんだよいいんだよ。可愛い春花の為だもの」/と、抱きしめられた。”ヒロインがお礼をいうと、おばあちゃんが抱きしめてくる。進んでるおばあちゃんですね。フランス帰りですか。まあこれはいいです。こういうおばあちゃんがいてもおかしくはない。ただ“その間、母さんは顔を引きつらせながら「どうもありがとうございます」と言った。”とありますが、“その間”はいらない。“顔を引きつらせながら”というのは誇張しすぎです。これは削って、“ありがとう”に対して、“全然ありがたくなさそうだった”としたほうがおもしろいと思う。そうしたほうがそこはかとないユーモアがすんなりと出ますね。同様に“反対におばあちゃんは勝ち誇ったように笑った。”というのもいらないです。


 そしてまたおばあちゃんとお母さんが口論になる。“その後また口論になった。/こういうのは何て言ったか。/うーん。/あ。/似たもの同士だ。”これは真ん中の3行がなければすんなり落とせます。“その後また口論になった。/似たもの同士だ”でいいんですよ。わざわざ主人公の内面の忖度みたいなものを3行にも渡ってやっても、このオチで3行も使うのかと読者は不満に思うから、さっと落とさないと。“似たもの同士だ”と、ちょっと距離を置いた孫娘の感覚を的確な言葉で表現できたら、この小説は1ランクアップします。つまり気をつけなければいけないのは、この主人公の視点がどこにあるのかがいささか定まっていない点です。ちょっと皮肉な子なのか、それともナイーブな子で、二人の仲にはらはらしているのか、ときどきその二つが混ざっている。皮肉な子だったら、いつもやっている二人のケンカにわざわざ一喜一憂しないでしょう。だからナイーブな子に設定するなら、世間なれのしていない子のような言葉遣いをさせる。全編をシニカルに書くのなら、全体の説明を削っていって、お母さんとおばあちゃんのケンカをセリフとアクションだけでさっと書く。それならハードボイルドな主人公像ができあがる。これはどっちかを選ぶしかないです。奥手な女の子なのか、それともシニカルな女の子か。どちらかの世界で完全にまとめないと、この一人称が成立しなくなる。主人公の性格が分裂しちゃうから。どちらかに統一すればよくなります。その前に、ぼくの意地悪なダメだしにおつきあいしてくださる気力があるならばですが(笑)。


◆『女王の結婚』(チアーヌ/小説32枚)

 とある国に、適齢期を過ぎた醜い女王様がいました。女王様は美男である隣国の王子に恋をし、婚約までしますが、ずるがしこい王子に利用されるだけと気がつき破談に。次に女王が恋をしたのは旅の商人。この男もただ顔が良いというだけで、ろくでもない野心だけがある男でしたが、女王様は恋に目が眩み結婚を具体的に考えます。が、最終的には身分や考え方の違いに悩み、やはりとりやめます。
 もう結婚を諦めかけていた女王様の前に最後に現れたのは、幼なじみでもある大臣の息子で、彼はけして美男ではありませんでしたが知性があり優しい男性でした。女王様は彼と結婚、国を治めつつ幸せに年を取りました。責務を果たし最期の時を迎えた女王様は、夫を枕元に呼び寄せ感謝を捧げます。しかし、女王様の臨終の瞬間に瞼の中に浮かんだのは、若い頃に恋をした、美男で薄情な隣国の王子や、女王様に初めて女の幸せを教えてくれた旅の商人の姿なのでした。


●中条氏の講評

 
 これは3作のなかで一番水準が高かったですね。だから今言ったようなダメだしはほとんどしていない。擬似的なおとぎ話としてとてもよく書けている。ちょっと皮肉だし、意地悪だし、つまらないまちがいもしていない。だから文章の修行をかなり積まれているんじゃないかと思います。ただところどころやりすぎもある。たとえば決定的な言葉があります。“女王様は、デブで、ブスだったのです。”って言ってますね。デブでブスとカタカナ書きにすることが、これをやっていいかどうかといえば微妙ですよね。つまりデブでブスという即物的な言い方に、この小説の意地悪さを凝縮して、この言葉遣いしかないというのなら、それはいいです。ただこの言葉遣いで、この小説そのものに反発する読者層もかならずいると思う。でもそういうのは相手にしないというのならそれでいいです。これをたとえば女王様は太っていて醜かったといった童話調にするならば、意地悪さは減るけれど、読者はより感情移入をしやすくなる。ごくふつうの童話調にしても、ぼくはそんなに悪くないと思うし、ここで意地悪さを強調しすぎて、読者に引かれるよりは、童話調の無難な言葉にしたほうがいいと思います。それから王子様のセリフのなかで“お前はブスなんだからしょうがないじゃん。”(“じゃん”という語尾から)お前は横浜出身かとツッコミたくなるセリフですね。これは王子様と女王様の間の会話ではありえないなというのがぼくの個人的な感想です。 tekistowo.JPG
 

 それから商人と仲よくなって、ベッドを共にするんですが、“男のマグロでしかなかった王子とは大違いでした。”とあります。これはぼくは嫌だな。マグロというのは、性的な不感症を意味する本来は女性に対する侮蔑語ですね。それを男に使うのはちょっといいんだけど、でも露悪的すぎて、そこまでする必要があるのかとぼくは思いました。


 それからこの作品がおもしろいのは、女王様の結婚と国家制度の奇妙な寓話が挟まっているところです。王族や貴族というのは、子供を産むのが商売です。たとえばフランスの貴族というのは、結婚して子供が生まれたら、夫も妻も浮気は自由でした。浮気というより、子供作りという義務が果たされたら、貴族は男も女も自由になって、恋人も作るのは当然なんですね。だから大貴族では、亭主用の寝室の出口と、妻用の寝室の出口がべつに設定されてました。男も女も好きに呼べるように。つまり嫡子嫡男を産むことができればそれでもう重要な役目が果たされたことになる。王様にとっては最大の仕事が、このお世継ぎを生むことなんです。だからこの寓話でおもしろかったのは、女王がお世継ぎを産まなくていいという、王様の概念をくつがえすような寓話を、20行ぐらいですんなりと書いているところですね。これは相当な文章力がないとできない。王政や権力に対して、ぴりっとした風刺になっているし、子供を産めないことを条件づけられた女性の悲しみという最後の主題につながってます。


 女王様は幸せだったのか、幸せでなかったのかはわからないし、たぶん恋は知らなかった。でもさまざまな自分の人生がぱっぱと走馬灯のごとく浮かび上がってきて、一応の微笑を浮かべて死ぬ。つまり人生は子供が産めないこともあるだろうし、ひじょうに不自由で、男からも愛されないこともあるだろうけれど、でも最終的にはある種の充実感とともに死ぬことは可能だ、という一種の寓話なんですね。ぼくはすなおに感動しました。女王様頑張ったなと。すごく意地悪な書き方をしているけれど、後味はすっきりしている。最後にこういう暖かさで落とすことができるならばデブとブスという嫌な書き方が、逆に効果を生むことにもなりうる。微妙ですけれど。ただブラックにやるんだったら、思い切りやったほうがいいですけれど。とにかくよくできてます。


 ただ“コウは女王様よりもいくらか年下で、性格は大人しく、見た目は地味で、真面目な男の子でした。”とあります。“見た目は地味で”はダメです。なぜなら見た目というのは、服装なのか顔なのかわからないから。だからイメージがあいまいになる。イメージをクリアにするってこういうことなんです。だから“服装は質素で”にしてもいいし、顔立ちについて触れるのもいいんですが、“見た目は地味で”という、じつはまったくなにも意味していないことを思いつきで言ってはいけない。必ずイメージをくっきりさせなきゃいけません。やはりダメだしが多くなりましたが、完成度が高く、寓話としてほのぼのとしたオチを感じさせてくれました。

 


 以上の講義のあと、中条さんによる文豪の作品を用いた特別授業が行われました。そちらの模様は数日中に、「小説家(ライター)になろう講座だより」でアップいたします。あわせてご覧ください。


 

  【 講師プロフィール】

◆中条省平(ちゅうじょう・しょうへい)氏
 
   1954年神奈川県生まれ。学習院大学フランス語圏文化学科教授。専攻は19世紀のフランス小説。おもな研究書に『最後のロマン主義者―バルベー・ドールヴィイの小説宇宙』、翻訳としては、バタイユ『マダム・エドワルダ/目玉の話』、コクトー『恐るべき子供たち』、ラディゲ『肉体の悪魔』などがある。また、『映画作家論―リヴェットからホークスまで』『フランス映画史の誘惑』『中条省平の決定版!フランス映画200選』などの映画評のほか、マンガやジャズといった大衆文化への造詣も深く、『読んでから死ね!―現代必読マンガ101』『ただしいジャズ入門』『小説家になる!―芥川賞・直木賞だって狙える12講』『反=近代文学史』など多方面で文化論を展開している。