「小説家(ライター)になろう講座」だより・・・vol.5(2008.8.15)

  小説家になろう講座(7月講師・佐伯一麦)

 『人生は添削できない』 


  7月の講師は、作家の佐伯一麦先生(プロフィールはページ下に記載)。
山形の講師を務めて今年で9回目を迎える常連講師である。

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    その日の山形は、雨マークの予報だったにもかかわらず、とてもよく晴れていた。山形より涼しい仙台に住んでいる佐伯さんに、今日は晴れてよかったけれど、暑くて大変ですねと挨拶すると、佐伯さん曰く「実は私、晴れ男なんですよ。暑いのも好きだから苦になりません。晴れてよかったです」。なるほど、だから佐伯先生が講師の日は晴れが多いのか。

  今回の講座のゲストは苅山泰幸さん。日本経済新聞出版社文化出版部担当部長で、『鉄塔家族』(大仏次郎賞受賞作。日本経済新聞社→朝日文庫)、と『散歩歳時記』(日本経済新聞社)の担当編集者である。苅山さんは昨年、山形で開催された山形国際ドキュメンタリー映画祭の際に来形している。苅山さんの奥さんは映画監督の河瀬直美さんのマネージャーを務めており、その関係で一緒に山形を訪れたのだ。そのときの苅山さんの役割は、河瀬さんの息子さんの子守りだったとか。もの静かで柔らかな人当たりに、子守は適役だっただろうと思う。

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  日経新聞編集者の苅山さん

 

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 『鉄塔家族』(大仏次郎受賞作)

 


  ■今月のテキストは、3作品

 『ぬばたま』  (冬月池子)

『山形駅のJ・F・ケネディー』/『ヘイ!キャロル』  (花野秀治)

『妹』  (紺野真美子・木山捷平賞受賞)

 


 ○『ぬばたま』(冬月池子作/原稿用紙換算7枚)

 『老いて独り住まいをしている男の部屋の窓の外で、烏がささやくように鳴き交わしている。その聞き慣れぬささやき啼きは、睦言のようで、妻を亡くした吉岡の心を苛む。もう慣れてしまったと思っていた独居の寒々しいわびしさがふくらんでいく。
 誰かと共に生きていくということはどういうことなのか。同じ屋根の下で暮らしていれば、家族と呼べるのだろうか。烏にさえ許されているものを、自分は持っていないではないかと、腹立たしくなる。
 苛立つ吉岡の傍らに、愛犬のあおいがすっと身を寄せてきた。太ももから、じんわりとあおいの体温が伝わってきた。ああ、これなのだと吉岡は嘆息した。先ほど感じていた熱い憤りが解けていく。かわりに違う熱さの波がゆっくりと下腹部に広がっていった。厚い毛皮をとおして、伝わってくる体温が吉岡の心の隙間を埋めていく。吉岡は、指先を毛皮の奥に差し入れて、その体温を確かめるのだった。(著者の概要より)』

※この作品は、以前にも同じ主人公で書いている連作となっている。今回で6作目にあたる。

 ▼生徒の感想

 「季節感がない」
「タイトルの意味がつかみづらい」
「初老の男性の淋しい感じがよく出ている。ただ後半、説明的な箇所が見受けられた」「温度を感じる書き方がよかった」 

 ▼池上先生の感想

 「老人のたんたんとした生活感がよく出ているし、犬に対する愛情が、ほとんど女性に対する性欲的なものと重なり合うラストの描写もうまい。ドキリとするほどのエロティックな響きがある。逸脱しかねない、あやういところでの、さりげなく官能的な描写の作品をもっと読みたいですね」 

 ▼佐伯先生の講評

 「この作品を読んで、川端康成の『山の音』(新潮文庫)を思い出した。『山の音』も初老の男性を描いた作品だが、この作者は改行が上手く、川端の文章のリズムを思わせるところがある。表現も生々しくエロティックで、とくにラスト6行が秀でている。ここの表現はとてもよく、犬に対するというよりも人間同士のようなエロティックな感じを覚える。この部分は川端康成の文章を受け継いだ田久保英夫の描写を連想させた」

「希望としては、細切れではなく長いものが読みたかった。この作品はいままでにもいくつか書かれていて、短い連作になっているが、短いなかでは言い切れないものがある。新聞の連載小説を例に挙げると、一回ずつを読むのと、通して読むのとではぜんぜん意味合いが違ってくる。作品の長短で、書き方も違ってくる。この書き方で長編はむずかしい。基本的に小説は、一度は最後まで書かないと、部分だけが肥大して手段と目的が逆になってしまいがちになる。 自分にも覚えがあるが、『ア・ルース・ボーイ』(三島由紀夫賞受賞。新潮文庫)は書きあげるのに13年かかっている。240枚の作品だが、最初の80枚を何回も何回も書いている。
 作家になってからは、「最後まで書いてからはじまる」ということがわかる。一度最後まで書いて、もういちど全体を見直しをして細部を直していく。それがわからないときは、どうしても部分に力をいれて書いてしまう。川端康成の掌編のようなものを書きたいのであればそれでいいけれど、もっとまとまった小説を書きたいと思うのならば、もっと緩やかに、もっと長いスパンで書いたほうがいい。いくつもいい表現があり、文章も書けている。作者独自の文章も持っている。この狭い世界がうまく書かれているかどうかしかいえないのが残念である」

 


○『山形駅のJ・F・ケネディー』『ヘイ!キャロル』(花野秀治/原稿用紙換算8枚・7枚)

 『地元のタウン誌「やまがた街角」に7年間掲載しているエッセイ。舞台は昭和30年代、作者であるSとその仲間たちが過ごした青春時代を書いている。
 「山形駅のJ・F・ケネディー」の舞台は昭和38年。ちょっぴり背伸びしたい年頃のSとその仲間たちにとって、遊び場はもっぱら映画館やダンスホールが立ち並ぶ遊興街。いっぱしの不良気取りで街を徘徊する彼らは、来春に控えた高校受験のことなどおかまいなしに、悪さばかり繰り返す毎日を送っていた。そんなある日、いつものように仲間の店で朝方まで遊んだSたちは、空腹を抱え、まだ薄暗い街へと繰り出した。途中、放置自転車を拝借しながら着いた先は、山形駅の立ち食いそば屋。すっかり寒くなった駅の待合室では、たくさんの大人たちがテレビに見入っていた。人だかりの一番前に出てみると、目に飛び込んできたのは、J・F・ケネディー暗殺の場面だった。テレビ中継を通じて目撃してしまった世界的ヒーローの死。自堕落な日々を送っていたSたちは、何も語らず、しかし全員同じ思いを抱きながら、ひんやりした朝の空気の中、来た道を戻っていくのだった。(著者の概要より)』

 ▼生徒の感想

 「文章のリズムがいい。文中に実在する(していた)場所や出来事の羅列を詳しく書くともっと面白かった。当時の空気をもっと出してほしかった」

「文章に独特のリズムがあり、野坂昭如のような印象を受けた」

「山形に土地勘はないが、想像で読みすすめられた。禁じ手と言われている体言止めが逆に効果的に使われていて、テンポよく読めた。創作落語的な面白さがあった。ひとつひとつのエピソードが魅力的なので、もっと世界が広げられると思う」

 ▼池上先生の感想

 「なかなか調子のいいエッセイで、愉しく読める。後味もいい。当時の若者たちの無鉄砲さ、いまの少年たちや社会がもちえない天真爛漫さがある。ある種の健やかな青春がリズミカルな文体で生き生きと描かれてある。ただ、固有名詞に頼りすぎていて、また体言止めが多く、すいすい流れてしまっているところもある。もっと描く対象の内面に入っていないかといけないのではないか」 

 ▼苅山さんの講評

 「(体言止めが多いという批判に対して)実際に本をつくっている編集の立場からいうと、この文体で行くと決めているなら、この書き方はありだと思うが、これで長いものを書くとなると大変だと思う」 

 ▼佐伯さんの講評

 「普通の小説においては、体言止め(の多使用)で文章の感じが変わってしまうが、この作品の場合は野坂昭如を思わせる雰囲気がある。芦原すなおの『青春デンデケデケデケ』(河出文庫)も思い出した。野坂的に書くのであれば、中途半端な改行をせずにもっと続けて一気に書かなければならない。」

「タウン誌のエッセイということで短い枚数に仕上がっているが、こういうものがたくさん積み重なると面白い。松田優作が主演した映画に『ヨコハマBJブルース』という作品があるが、このような話を100個集めて『山形BB(ボンボン・お坊ちゃんの意)ブルース』などとしても面白いと思う。
 ただし、その際には、もっと創ったほうがいい。(話をきけば)この作品は創作ではなく、まったくの実話だというけれど、実話だけでは面白みがないし、限度がある。井上ひさしの『青葉繁れる』(文藝春秋)も、当時の当事者からは「あれはウソばっかりだ」といわれるくらい創っている。小説というのはそのぐらい過剰に書かないと、意図は外部までには伝わらない」

「この作品の欠点をあげるなら、人物たちが行った行動に対する感情が書かれていない。事実の羅列や固有名詞の羅列だけでなく、文章としてもっと感覚的なものを入れるべきである。起きた出来事にくっついてくる感覚があってしかるべき。
 この作品はちょっと意地の悪い読み方をすれば、かつての恵まれた人の自慢話になってしまうきらいがある。その自慢話を読み手に自慢話だと感じさせないようにするには、感覚的な共有が必要である。喜怒哀楽を共感することによって、読み手は共通意識を持つ。自慢話の類には病気の自慢話や自分の経験した悲惨な悲しみの自慢話もある。経験した人物の感情、様子、姿を書かないとただの自慢話になってしまう。それが、通俗的な表現になるかならないかの、ひとつの瀬戸際だと思う」

「仲間たちの友人の書き分けが出来ていないのも問題点のひとつ。友人たちの個性をもっと出すべき。場所と時代の雰囲気はよく出ているのだから。おおらかでユーモアがある作品だった」

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 一行一行、丁寧に読み込む


 ○『妹』(紺野真美子/原稿用紙換算54枚)

 『女子刑務所に勤務する三上茜は三十歳の保安課長補佐である。年上の部下から現場知らずと陰口をたたかれ、中でも看守部長を束ねている富樫は、反発を露骨な態度であらわす。
 そんな茜のもとへ、妹を保護していると警察から連絡が入る。後妻である義母が生んだ妹とは九歳違い。新幹線で茜を尋ねてきた妹だが、意思の疎通がままならない精神疾患になっていた。
 実家から迎えがくるまでの一日、茜は妹と過ごすうちに、過去をさかのぼる。小学校一年生の妹と同級生だった、脳性麻痺の啓介君。啓介君の姉である涼ちゃん。それに茜のふしだらな叔父。
 現実に戻ったとき妹が暴れだし、そこへ仕事中の富樫が訪れる。部屋に男を連れ込んでいると勘違いしての嫌がらせだったが、玄関先で暴れる妹を前に、富樫は謝罪して部屋をでる。富樫が頭を下げたのは初めてのことだった。
 疲れて横になった茜が目をさますと、妹は茜に向かって膨らませた風船を放っていた(著者の梗概より)』※木山捷平賞受賞後の第1作。

 ▼生徒の感想

 「文章の倒置法がけっこう出てくるが、効果を狙うならもうすこし少なくしてもいいと思う」
「緊張感がある作品になっている。ラストが肝だと思うので、ここをもっと膨らませて、妹の人間的な部分を出し感情移入させてほしかった」
「タイトルは妹だが、書かれている内容は友人のことが多く、妹より友人のほうの印象が残ってしまった。タイトルが妹ならば、妹のことをもっと書いたほうがよかったのではないか。妹との関わりがもっと読みたかった」
「臨場感があったが、時系列的な矛盾がある。しかし、よどみない文章で一気に読めた」 

 ▼池上先生の感想

 「紺野さんの作品にはいつも緊張感がみなぎっているが、この作品もそう。少女たちが行う売春の現場にしろ、性的虐待の場面にしろ、富樫とのやりとりにしろ、またラストの妹との対立、富樫の登場の場面にしろ、ひじょうに生々しい。臨場感にあふれている。
 場面のみならず、妹があらわす生きることの困難さ、コミュニケーションをとることの難しさもよく描かれてある。とくにラストの風船に象徴される思い(なにかを介在してはじめてつたわって来る、漠然とした愛)が、なかなか印象的だ。刑務官の仕事に必然性がない点が、唯一の欠点だが、それでも秀作である。紺野さん、いちだんとうまくなりましたね」 

 ▼苅山さんの講評

 「どこかの小説誌に掲載されてもおかしなくない、高いレベルの小説です。完成されています。(生徒たちの感想のなかで)妹の説明がないという不満があがりましたが、でも逆に説明的ではない、ある種の色合いがでていて、ひとつの魅力になっています。だから、最後の最後に、友人からの手紙が引き出しに入っているというエピソードがあまりに出来すぎていて(説明的になりすぎていて)気になってしまった。そこだけ妙につじつまがあってしまっていて、作品のいい色が消えてしまったような気がする」 

 ▼佐伯さんの講評

 「文学界の新人賞を狙える力は十分にあると思うが、この作品では短すぎる。150枚くらいはほしい」

 「人間の惨めさや業を感じさせる小説である。しかし、どこか純文学とテレビの2時間ドラマが混在しているような感じがある。人間の業を描くのであれば、最後の手紙の部分などは書かずに、解釈がつかないようにするほうが業を感じさせるように思う」

 「タイトルは「妹」だが、この小説には主人公がつとめている刑務官という仕事と、主人公と妹との関係、そして友人である「涼ちゃん」のみっつの柱がある。この話はみっつの柱をばらばらに描くことは出来ない」

 「技法的には、主人公の茜だけが安全地帯にいる、いい子になってしまっている。茜の「私」の悪意がもっとあってもいいように思う。過去の罪の意識があるから、刑務官の職についているとも思えるけれど、それについてもちょっとは触れてほしかった。主人公が自分の罪をどうみているかが知りたかった」 

「この長さの作品なら出だしはこれでいいと思うが、100枚の作品ならば、この出だしでは浮いてしまう。冒頭に作品のキーワードを入れるといいのではないか。キーワードがあると、それが気になって読者は読んでしまう。この作品は、冒頭とラストに短いエピソードが段落として入っているが、そのエピソードを入れる場所を変えるだけで、主人公の罪の意識を強調できる。自分がなにを一番書きたいのかか、どこにエピソードを入れれば効果的に伝わるのかを、常に意識して考えるべきである」

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 会場全体


■小説世界における水平軸と垂直軸/「人生は添削できない」

  いつも細かい点を掬い上げるような、丁寧な講評が評判の佐伯先生。今回は「妹」のテキストの講評のときに、小説世界における水平軸と垂直軸という話が出た。

  小説には現在と過去という時間的な水平な軸と、物語の人物が抱く罪の意識など、読み手にも通じる普遍的なものである垂直な軸がある。作品には、このふたつの軸が必要である。いい小説にはエピファニー(神は現在する。神聖という意)が出てくる。例えば、草のしずくひとつにも全世界が映っているというようなイメージだったり、読む人も永遠性を感じさせるものが小説には必要だと思う。そういうことを考えてほしいとのことだった。

  また、佐伯先生は「業」ということを取り上げ、登場人物のしぐさ、顔つきから、ひとりの人間を表さないといけないと語った。「人間を表せば、脇役にも人間の業が生まれ、読み手にもなにかが伝わる。そこがあると深いものが生まれると思う。どこをどう上手く書くのかという小手先のことではなく、人生や人物をどう捉えるのかという点で見てほしい。三浦哲郎さんの短篇に、川端康成文学賞を受賞した「じねんじょ」(新潮文庫『みちづれ』所収)と「みのむし」(新潮文庫『ふなうた』所収)というのがあるけれど、この二作などはまさに読み手になにかが伝わる深い作品である。ぜひ作品にあたって、それを確認してほしい」という。

  佐伯先生は、今年のはじめに文芸誌「群像」で創作合評に出席され、現代文学が抱える問題点を、次のように語ってくれた。「小説はうまくなってきている。しかし、何を書くかではなく、どう書くかという意識が強くなってきている。視点の問題も、本来はなにを書くかが先で、視点の問題が後だと思うのだが、いまは、ひとりの人間をどういう視点で書くかということが先になってきているように感じる」と。
 佐伯先生はその合評で、今年芥川賞を受賞した揚逸(ヤンイー)さんの「時が滲む朝」(文藝春秋)に苦言を呈した。合評のなかで佐伯先生が一番厳しい意見だったようだ。日本語の表現が悪いということではなく、「ばら色の新婚生活が始まった」というような通俗的な書き方が多く見受けられ、それがどうしてもひっかかったのだという。それでも評価されたのはやはり書くべきテーマがあったから。小説は自分が何を書くのかというテーマが大切であると語った。

  講座の生徒にむかって佐伯先生は「小説をとにかく書き続けてほしい」と語る。「古井由吉さんは以前「小説は書くことがなくなってからはじまる」と言っている。彼が言っている意味を車に例えるなら、車はメーターがゼロになってもまだ走るということ。つまり、小説を突き詰めていくと、どこを書いたらいいのかわからなくなったり、書いても書いても書きたいことが書けない無力感に苛まれてくる。その無力感からスタートしてどう書くかだと思う」という。

  佐伯先生の好きな言葉に、島崎藤村の「人生は添削できない」という言葉がある。その人が思ったり感じたりしたことは否定できない。基本的に小説はどう書いても、どんな感情を書いてもいい。しかし作者の感じ方を変えることはできない。そこが小説の面白さではないかという。
 とにかく、自分の感じた小説を書き続けてほしい。その言葉を二度繰り返し、佐伯先生は講義を終えた。

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  佐伯先生の本を紹介する池上冬樹先生

 

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 最新作『ピロティ』(集英社)

  text by K

 


 【今回の講師プロフィール】

◆佐伯一麦(さえき・かずみ))

1959年7月21日、仙台市生まれ。
1984年 「木を接ぐ」で「海燕」新人文学賞。
1990年 『ショートサーキット』で野間文芸新人賞。
1991年 『ア・ルース・ボーイ』で三島由紀夫賞。
1996年 『遠き山に日は落ちて』で木山捷平賞。
2004年 『鉄塔家族』で大仏次郎賞。
2007年 『ノルゲ』で野間文芸賞。 



 

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