その人の素顔
茶木則雄(作家)×深町秋生&柚月裕子(作家) ゲスト吉野仁(書評家)
「エンドマークを打った数が、その人の力になっていきます」
2009年10月28日

第6回目は、ミステリー評論家の茶木則雄さん(聞き手は作家の深町秋生さんと柚月裕子さん)。
ゲストに、書評家の吉野仁さんもお迎えしました。
幼少から大学までの読書体験、書店員時代、フリーライター時代のエピソード
新人賞を目指す人へのアドバイスなどを話していただきました。


■幼少・中学・高校時代/勉強と読書の日々

深町 今日は、評論家・エッセイスト・書店店長と、いくつも顔をお持ちの、茶木則雄さんにお話をうかがいます。

 個人的な話になりますが、僕がはじめて茶木さんにお会いしたのは2004年です。当時、フリーライターから書店員に復帰されて、ときわ書房の本店といわき店と聖蹟桜ヶ丘、3つの店長を務めていたときです。あまりにいろんな顔をお持ちで「この人は一体何者なんだ」って驚きました。茶木さんって、謎が多い方ですよね。

茶木 そうですか? 常に全てをさらけ出して生きていますけど(笑)。

深町 茶木さんは広島出身ですよね。小さいときは、どんなお子さんだったんですか?

茶木 勉強しているか、本を読んでいるか、どちらかの子供でしたね。教科書にしろ小説にしろ、本が唯一の娯楽でした。いま、聞くとすごいですよね。自分でも信じられない(笑)。
茶木則雄氏


柚月 その頃から、ミステリはお読みだったんですか?

茶木 そうですね。貧乏な家に育ったんで、基本的に本は図書館から借りて読んでいました。小学校の頃は、ホームズやルパンや乱歩を読んでいましたね。中学の頃はませていたから、純文系や哲学系を読んでいました。ニーチェやハイデッガー。ドストエフスキーやトルストイは、中学の時にだいたい読み終えました。正直、中身なんてさっぱり分からなかったけど(笑)、その頃は「読み終わった」という満足感だけで読んでいましたね。

深町秋生氏
深町 本格的にミステリにはまったのは、いつ頃ですか?

茶木 ちょうど角川映画がはじまった頃かな。1970年代なかば。文庫で森村誠一とか横溝正史のあたりがたくさん出た時期です。ただ、大薮春彦はもっと前、小学校の頃から読んでいました。親父が読んでたのでね。隠れてですが(笑)。

柚月 どうして隠れる必要があったんですか?

茶木 昔の大藪の新書版には挿絵がついていて、よく裸のオネーチャンの画があったんですよ。その画の前後だけ読んで「世の中にはこんなにすごいものがあるんだ」と思って興奮してました(笑)。中学に入ってからはエッチなとこだけじゃなくて、通して読みましたね。まあ、私の原点は横溝と大薮でしょうね。


深町 茶木さんは本格が嫌いだ、というイメージを持っていましたが。

茶木 そう思ってる方も多いようですが、大半のミステリファンがそうであるように、私も最初は本格ですよ。実はクリスティーが大好きなんです。クリスティーは中学、高校時代に7割方は読んだと思いますね。推理小説も好きだったけれど、基本的に小説自体すごく好きだったんですよね。いつかは書き手になりたいなあ、と思ったこともあります。具体的に、作家になるために何かしたことはなかったですけれど。
 

■大学時代/単位ゼロ

深町 大学は青山学院ですよね。だいぶ不良学生だったというお話ですが。

茶木 さきほども話しましたけど、私は高校まですごい真面目だったんです。勉強以外、興味がなかった。女の子には人並みに興味ありましたけれど、高校時代、付き合ったこともないです。そんなことしている時間があるんだったら、勉強している方が楽しかった。

柚月 そんな真面目な方が、どうして不良学生になったんですか?
茶木 私はずっと東大しか受験しなかったんです。東大以外、大学じゃないと思っていた。それで結果的に三浪するわけですが。

深町 その話は知りませんでした。東大云々はあまり話してなかったのでは?

茶木 今回がはじめてですね。もう30年たったからいいかなという気持ちですね。
 それはともかく、東京に出てきて予備校に入った時に、酒、タバコ、ギャンブルを覚えてしまった。友達との付き合いで行ったパチンコなんか、ちょっとした息抜きのつもりが、気がついたら生きがいになっちゃった(笑)。
柚月裕子氏


 よく、結婚する前に男は遊んでたほうがいい、って言うじゃないですか。遊ばないで結婚して浮気の味を知っちゃうと大変だって。あれと同じですよ。私は高校時代、あまりに遊ばなさ過ぎた。友達がギターだのバイクだのといっている時に、参考書と勉強しか興味がなかった。おかげで遊びを覚えたら、転落の一途(笑)。

深町 それは怖い話です(笑)。

茶木 実家から、予備校の夏期講習のお金を送ってもらうじゃないですか。夏期講習なんて受けないんですよ。その金を持って、そのまま雀荘に行っていた。ひどかったのは、親に、私立を受けた、って言って、受験料を送らせてずっと東大しか受けなかったこと。というか、ギャンブルにお金を使っちゃって、私立を受けるお金が残ってないんですよ。当時で20万くらい送ってもらっていたけれど、全部、パチンコと雀荘で使ってた。その頃は本当に「お父さん、お母さんごめんなさい」って、夜ひとりで泣いていましたね(苦笑)。

インタビューの模様
深町 そして、東大ではなく青山学院に合格します。

茶木 青山はたまたま友だちに貰った願書で受験したら受かった(笑)。それもひどい話ですが、もっとひどいのは、大学に四年間いて、単位を1つも取ってないんですよ。普通、何もしなくても1単位や3単位くらい取っちゃうでしょう。単位ゼロっていうのは、卒業するより難しい(笑)。

柚月 授業に出なかったんですか?


茶木 授業には出ましたよ。ただ、一回も試験受けたことがないんです。4月には授業に出るんですけれど、ゴールデンウィークくらいになると、当時、加入していた「推理小説研究会」のクラブ活動と称して、ずっと麻雀を打ってました。結局、青学は4年で中退します。麻雀がなかったら、いま頃は新聞記者か官僚になってたはずなんだけどなあ。(場内で笑い声が)。いや、ここは笑うところじゃないですから(笑)。


■はじめての原稿/「深夜プラス1」開店

深町 はじめて人に見せる原稿を書いたのは、いつ頃ですか?

茶木 青学を中退した後、阿佐ヶ谷の書店でアルバイトをはじめたんです。そこで、藤脇邦夫さんという方に出会ったんですが、この方はサブカル系の白夜書房という出版社に勤めていて、「白夜通信」という小冊子をひとりで作っていたんです。小林信彦特集をずうっと書いていて、それが小林信彦さんの目に留まって、実際に評論を書いてデビューした方ですが(『仮面の道化師 定本小林信彦研究』弓立社)、その方から「茶木さんも、なにか書いてください」って言われて、ハードボイルドや北方謙三について書きはじめたのが最初ですね。原稿料は貰ってないと思うけど。

柚月 初めて原稿料をもらったお仕事は、なんだったんですか?

茶木 たしか、甲斐バンドじゃなかったかな。甲斐バンドがアルバムを作る時に、アルバムに小雑誌を付けるっていう話があって、それに「茶木さんも書きませんか?」って言われたのが、原稿料をはじめてもらった仕事だったと思います。

深町 レギュラーを持ったのはいつ頃ですか?

茶木 「深夜プラス1」(※1)時代に、雑誌の「テレビジョン」の書評をしたのが初レギュラーの仕事です。もしくは「本の雑誌」か。どちらが最初か、記憶が曖昧で忘れちゃいました(笑)。いま業界で活躍しているベテランの書評家には、しっかりとした母体があるんですよ。
 例えば、池上冬樹は「マルタの鷹協会」(※2)、吉野仁は「日本冒険小説協会」(※3)というふうにファンクラブ出身なんです。ファンクラブの会報に書評を書いているうちに、編集者に見いだされて、専門誌の「ミステリマガジン」などに原稿を書くようになり、いつしかプロになるという流れがあるんですけれど、私の場合は「書店の人」という形からはじまっているから、出自が卑しいんですよね(笑)。
(※1・1986に開店した日本初のミステリー専門書店。※2・翻訳家の木村二郎が作ったハードボイルドのファンクラブ。※3・読書好きのコメディアン内藤陳が率いる冒険小説のファンクラブ。書評家坂東齢人=馳星周もここの出身)



深町 そして、阿佐ヶ谷のアルバイト店員を辞めて、千葉の書店に正社員で一年お勤めになった。で、86年に飯田橋にミステリ専門店「深夜プラス1」を開店します。その頃すでに、書店員と書評家の二足の草鞋ですよね。

茶木 そう、ずっと二足の草鞋だったんですよ。深夜プラス1って朝の7時から、深夜の12時半までやっていたんです。さすがに私は、通しの日以外はそんなに朝早くから出ないんですけれど、お昼くらいから閉店まではお店にいるわけです。  店に出ているとき以外の時間に、本を読んだり原稿書いたりするんだけれど、どんどん原稿を書くウエイトのほうが増えていってしまって。特に細かい締め切りがいっぱい重なると、レジに立っているとイライラしてくるんですね。「明日2本も締め切りあるのに、こんなことしている場合じゃないよ、俺」とか。いま思うと、あの頃の接客は悪かったでしょうねえ(笑)。

柚月 ミステリ専門店ということは、ほかのジャンルの本は一切置いていなかったんですか?

茶木 頑固な寿司屋と同じですよね。「俺の仕事が分かんない奴はいいよ」っていうやつ。「渡辺淳一? そんなもの置いてねえよ。そんなのあそこの大きな本屋に行きな」みたいな(笑)。もちろん、口に出しては言わないけども、態度がそうだったと思いますよ。だから、地図だとか実用的なものは全く置いてなかった。でもね、池上さんや吉野さんのように、実際、お店に来た人は知っているけれども、実はコミックとかも売っていたんですよ。「落ちてる銭は拾え」ってのがモットーなので。

深町 「落ちてる銭」? それはどういった意味ですか?

茶木 「落ちてる銭」の最たるものは、エロ本ですね。エロ本って、確実にお金になるんですよ。一定の顧客がいる。ということは、一定の銭が入る。世の中、お金を稼がないと、好きなことは出来ないでしょ? お店も同じなんですよ。ミステリ専門店だっていっても、売り上げがないと出版社は相手にしてくれない。だから、とにかく売り上げを、ある程度は上げなければいけなかった。当時の売り上げで、坪単価5万円以上はいきましたよ。


深町 ミステリとエロ本で、坪単価5万はすごい!

茶木 正確には、ミステリとコミックと雑誌とエロ本ね(笑)。あと、どこよりも早く本を仕入れる、という努力はしていましたね。当時、店の近くにフランス書院っていう出版社があって、そこの編集者が友達だったんですよ。飲み屋で偶然知り合ったんですが、意気投合してテスト販売というのをはじめたんです。新刊見本が出来上がると、うちに100部ぐらい持ってきて、その売れ行きの速度によって、重版のタイミングを見たりするんです。だから、うちの店にくると、どこにも売ってないエロ本があった。

深町 好きな人にはたまりませんね(笑)。

茶木 コミックや文庫も、雨が降ろうが雪が降ろうが、毎日、現金を持って「神田村」というところに、直接仕入れに行くんです。前の晩、3時くらいまで酒を飲んでても(笑)。
 仕入れが通常の書店ルートよりも早いから、新潮文庫なんて発売日の2日前には必ず並んでいました。大手書店だと1日前くらいに並んでいたところはあったけど、さすがに2日前は殆どなかったですね。


 ミステリファンなんかは、1日でも早く読みたいから、たくさんのミステリファンが店に来ましたね。私、書店業では結構、真面目に仕事するんですよ。私生活はろくでなしですが(笑)。


■『帰りたくない!』/北上次郎さんとの出会い

深町 「ろくでなし」といえば、本のコピーにもなっている茶木さんのエッセイ集『帰りたくない!』(本の雑誌社、1997年11月。2006年2年、光文社知恵の森文庫収録時に『帰りたくない! 神楽坂下書店員フーテン日記』と改題)があります。これは書評雑誌の草分けといっていい「本の雑誌」に長年連載されたものですよね。

『帰りたくない!』
(1997/本の雑誌社)
茶木 北上次郎(「本の雑誌」の発行人だった目黒考二)さんと知り合ったのをきっかけに、「本の雑誌」にいろんなことを書いていました。それが一応、中央デビューなのかな、と思いますけれども。

柚月 北上さんと知り合われたきっかけはなんだったんですか?

茶木 これが不思議なことに、二人の記憶が全然違うんですよ(笑)。目黒さんは「どっかの書店で『本の雑誌』の悪口を言っている奴がいる」っていうんで会いにいったら、私がいた。意外と話が合って、そこから付き合いがはじまった、と言っているんですけども、私の記憶だと、自分がアルバイトした書店で「本の雑誌」を置いてなかったんですよ。それで置きたくて「本の雑誌」に電話したら、木原ひろみ(後の作家群ようこ)さんが出て「じゃあ、今度伺います」っていって、やって来たのが、北上さんだった。


 私は当時から、目黒考二が文芸評論家の北上次郎だと知っていたから「目黒さんって北上次郎さんですよね」って言ったら、「えっ、何で分かったの?」って。そこから付き合いがはじまって、麻雀でもだいぶお世話になりました。正確には、お世話になった、というより、カモられた、ですけどね(笑)。

柚月 目黒さんは、麻雀お強いんですか?

茶木 酒乱ならぬ、雀乱ですね(笑)。もらった原稿料なんて、私の口座を通過して、また目黒さんの口座にもどっていく(笑)。それ以外は、戸籍上の妻の口座行きです。(場内に笑いが起きる)。笑い事じゃないんですよ!(笑)。隠し口座を作ったり、色んなことするんですけれども、すぐ分かっちゃう。ほんと不思議ですよ。

深町 そのあたりの夫婦関係は『帰りたくない!』でも詳細に(?)書かれていますが、あれはどこまでが本当で、どこまでが脚色なのかわかりませんよね。

茶木 最近は自分でも、あれは作ったのか本当だったのかわからなくなってきましたね(笑)。事実の断片は、あることはあるんですが、そこはノンフィクションではなくエッセイですから、真実の断片を繋ぎ合わせながら、何を書くのか決めるわけですよ。『帰りたくない!』は、毎回、かならず一冊の本を取り上げていたんです。取り上げる本を決めて、本に合ったネタを考えていく、っていうのが、私の場合は多かったんですが、どうしても本が決まらない時は、ネタを決めてから、本を探さなければいけなかった。
 これがまたすごく大変なんです。本という縛りがなければ書きやすいけれども、本のネタがなかったら馬鹿な男の話だけでしょ。まあ、笑ってくれる人もいるかもしれないけども、それだけじゃ面白くないよね。だから本を絡めたんだけど、本当に大変でしたね。
『帰りたくない!』
(2006年/光文社)


 いつも本が決まんなくて、話を作って、本を探して、話を作って。そうしているうちに、何年か経つと自分でも「あれって、本当だったのか?」って思うんですよ。

深町 若いオネーチャンの部分も作り物ですか?

茶木 ギャンブルのあたりは大体本当ですけれど、オネーチャン関係のとこは上手く作ったり隠したりしながら書いてますね(笑)。

深町 ご家庭があるんだから、そのまま書いたら大変ですよね(笑)。

柚月 このインタビューは、さくらんぼテレビのホームページに載るので、言葉をお選びになったほうがよろしいのではないでしょうか(笑)。

茶木 お気遣いはありがたいけれど、嬉しいかな悲しいかな、もう、何を知られても構わないような家庭の事情なのでね(笑)、今更どうでもいいんですよ。だから、最初にも言いましたが、常に全てをさらけ出して生きています(笑)。


■フリーライター時代/下読み裏話

深町 その後、深夜プラス1をやめて、フリーライターに専念します。独立したのは、やはり忙しくなったことが理由ですか?

茶木 昼間の仕事が、物理的に無理になってきたんです。原稿料も、当時、このくらいの収入だったら食べていけるかな、っていうくらいはもらっていたんで、思い切ってフリーになりました。あと、書店員としての仕事は飽きないけれど、ミステリ専門店も10年やってると飽きてきた、っていうのはありましたね。そして独立して、6年間、原稿料だけで生活しました。でもね、やっぱり大変でしたよ。家のローンを払いながら、食い盛りのガキと家族を6年間も原稿料だけで養うのは。

柚月 評論家の方は書評以外に、文学賞の下読み・予選委員の仕事もありますね。下読みのお仕事は、いつ頃からされていたんですか。

茶木 (1994年にスタートした)日本ホラー小説大賞が最初かな。新人賞の下選は最盛期には多分7本くらいはやっていたかもしれません。ライトノベルの「電撃大賞」も、立ち上げの第1回から3回目ぐらいまでやってました。正直、元々ファンタジーはあまり好きじゃないから辛かったですね。

柚月 ホラー大賞から下読みをされているということは、もう下読み歴15年ですね。15年の間に、投稿作品の質や傾向に変化はありますか?

茶木 社会情勢っていうのはやっぱりありますね。リタイヤされてから原稿を書かれる方っていうのが、10数年前から、多くなってきましたね。あと、作品の提出の仕方は、あまりおかしなものはなくなったかな。いまはほとんどの人がパソコンで書いているけれど、昔は手書き原稿とかあったので、自分で表紙をつけたり、イラストをつけたりして応募してくる人がいたんですよ。これがけっこう凝っていて「そんなことする時間があるなら、推敲しろよ」って思いましたね(笑)。


 そのほかには、自画自賛のコピーつきの作品もありましたね。文庫の帯でみるような「ミステリー史に残る金字塔」みたいな(笑)。自分で自分を絶賛しちゃいけませんよね(笑)。あと変わったところでは、水着姿の写真入れてきた人がいた。

深町 水着って、グラビアコンテストじゃないんだから

茶木 20代前半くらいの女性で、自分で水着の写真を送ってくるぐらいだから、ルックスもスタイルもまあまあいいんですよ。でもね、そんなもの芸能界じゃないんだから、選考とは全然関係ない。一応、写真はじっくり眺めますけどね(笑)。
 あとはテープをつけてくる人がいましたね。オリジナルの曲をつけてきて「これを聴きながら読んでください」って。大きなお世話だっていうの(笑)。菊地秀行さんとかがよく後書きに「なんとかを聴きながら」とか書くじゃないですか。たぶんそれに触発されてだとは思うんだけど、それも何の意味もないので、やめてください(笑)。

柚月 作品の質はどうですか。手書きからパソコンに時代が変わって、なにか作品にも違いがありますか?

茶木 手書き原稿はかなり減りましたね。昔といっても、当時からワープロはありましたから、活字原稿はめずらしくなかったけど、やっぱりワープロの人のほうが、書ける人は圧倒的に多かったですね。書くことで生きていこうとすれば、ワープロぐらい出来なきゃいけない、っていう意思が強くあったんでしょうね。作品のレベルは昔に比べて、高くなっているような気がしますね。


■賞を受賞するには/プロットの大切さ

深町 作家を目指す人が一番知りたいのは、どうすれば賞をとれるか、だと思います。何を書いたらいいのか、何で賞をゲットできるのかと。

茶木 『このミス』大賞に関して言うなら、冒険小説を書いてきたら、よほど傑作じゃないと受からないです。私や吉野仁が、全部ハネちゃうから(笑)。ふたりとも冒険小説がめちゃくちゃ好きで、レベルを知っているんですよ。だから「こんなレベルだと、とても賞なんかあげられない」ってなってしまう。

吉野 題材は違うんだけど、似たような調子やパターンで書かれているのが多いんですよね。

茶木 書評家とか評論家とか、下選やっている人間同士の評価って、えらい違いますよね。同じ作品でも、読む人間で、評価がまったく違う。でも逆に、みんなが「いい」と支持する作品も当然あるんですよね。賞がとれる作品って、大体みんな一致して「いい」っていう感じじゃないですかね。一次に関しては、読み手の運があるかもしれないけれど、最終的に賞をとるかとらないかというところまできたものに関しては、もう実力勝負しかないですよ。
吉野仁氏



吉野 最終候補に残る人は、だいたい決まってますよね。僕が下読みをやっていちばん面白かったのは、新潮社の「新潮ミステリー倶楽部賞」。もともと「日本推理サスペンス大賞」という宮部みゆきさんや高村薫さん、天童荒太さんが出た賞があって、それが終わって、次に「新潮ミステリー倶楽部賞」が出来たんです。最後の年に伊坂幸太郎さんが受賞したんですよね。そのほか、賞を受賞できなくても、最終まで残ってデビューした作家が、何人かいたはず。最終に残る常連は、どこの賞でも残っていますよね。

茶木 力がある人は、最終的に必ず賞をとります。運が良くてデビューする人もいるかもしれないけど、力さえあれば最終的に必ずデビューできます。

吉野 あとジャンルの面白さもありますよね。例えば恩田陸さんとか篠田節子さん、坂東眞砂子さんなど、みんなホラーでデビューしたけども、その後どんどん活躍して、いまはジャンル関係なしに書いている。その時の流行みたいなジャンルでデビューすることはあっても、その後、書ける人はいろんなジャンルを書いていきますよね。

茶木 どういったジャンルでデビューするかというのは、その時の流行とかあるでしょうけれど、作家って基本的に色んなものを書きたいんですよね。ただ、デビューしたいと思うなら、今、何が売れるかということを考えなくては駄目。「自分の好きなものを書きたい」という気持ちは大切です。でも、それは同人誌に書いている分にはいいけれど、応募するんだったら、まずマーケティングしなさいと言いたい。今、世の中の関心がどこにあって、どういうものを書いたら多くの読者の目を引くのか、ということを考えなきゃ駄目なんですよ。


 あと、エンターテインメントだったら、プロットはしっかり作らなければ駄目です。プロットっというのはストーリーの流れを書いていくものですが、その時に大切なのは説得力。登場人物の行動ひとつひとつが、読者を納得させるものであるかどうかが大事。そこをプロットの段階でよく練らないと、実際に書きはじめたらつじつまが合わなって、またやり直し、ということがおきてくる。長編の場合は特にそうです。短編に関しては「オチ」が大切。最後の切れ味ですね。まあ、短編にしろ長編にしろ、ストーリーの流れがしっかりしていて、なおかつ「これはいったい、なんだろう」というような、読者の心をガッチリ掴むようなものがないと、受賞はなかなか難しいですよね。


■座右の書/作家を目指している人に

深町 茶木さんはかなりの本をお読みですが、座右の銘ならぬ座右の書というのはありますか?

茶木 座右の書というより、何度でも読み返すという意味では『ドサ健ばくち地獄』(阿佐田哲也著、角川文庫)と『極道記者』(塩崎利雄著、幻冬舎アウトロー文庫)ですね。『麻雀放浪記』が好きだ、っていう人は結構いるかもしれないけど、やっぱり博打をやっている人は「ドサ健」の方が全然いいですね(笑)。これは、お金がないときに読むと、博打の追体験できるんですよ。手元にお金がない、でも博打はやりたい、そういった時に必ず読み返しましたね。
 でもね、どんな博打の本も、最後はほとんど負けるんですよ。主人公が儲かった話なんて、別に読みたくないからいいんですが(笑)。それにしても負ける話はどこかホラーに似てますね。カタルシスが味わえる。博打に負ける話は、ほんとに恐いです(笑)。

深町 最後に、作家を目指している人に、ひと言お願いします。

茶木 とにかく諦めないことです。「そのうち書こう」とか「いつか書いてみたい」の「そのうち」とか「いつか」は、なかなか来ません。そして、とにかく応募する。応募するためには書かなければいけない。短編であろうが長編であろうが、エンドマークを打った数が、その人の力になっていきます。

 それから、昔の原稿は昔の男、もしくは女と同じで、きっぱり捨てなさい(笑)。自分の作品が落とされたのは選考委員が悪かったんだろう、運が悪かった、そう思いたい気持ちはわかります。あるいは、充分に推敲が出来ないまま出して悔いがあるのかもしれない。でも、こちら側から言わせれば、充分に推敲していない作品なら出すな、と言いたい。同じ作品を何度も焼きなおして応募してくる人もいるけれど、あれは読む側にとってはすごくテンションが下がるんです。そういう人は、仮にデビューできても続かない人が多いですね。
「作家になるにはとにかく諦めないこと」と
茶木氏は語る



 いいですか、推敲は何度も何度もやりましょう。推敲が不十分な作品が通ることは、まずありません。作家の志水辰夫さんは7回も推敲をするし、真保裕一さんは念稿にまで手を入れる。プロでもそのくらい推敲を一生懸命やっているんです。ましてや、素人が2回も3回も同じ原稿を応募する、それも推敲しないで応募するっていうのは、選考する側からすれば考えられないことですね。
 ともかく落ちても諦めない。新しい作品に挑み、何度も推敲を重ね、応募する。エンドマークを打ち、応募し続ける。これにつきます。

深町 今日は貴重なお話をありがとうございました。


(09年9月 遊学館にて)

茶木則雄さんが講師を務められた「小説家(ライター)になろう講座」の模様と、茶木さんの略歴はこちらを参照してください。

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