その人の素顔
池上冬樹(文芸評論家)×深町秋生(作家)対談
「言葉は生き残る。いつまでも生き残り、人の心を揺り動かす」
2009年5月1日

第3回目は、文芸評論家の池上冬樹さん(聞き手は作家の深町秋生さん)。
10代、20代の思い出、翻訳家から書評家への転身、
人生を変えた本との出会いなどを話していただきました。


■人生の分岐点/病気と高校の選択/国語学者との出会い

―― 池上先生と知り合って10年たちますが、その前からミステリ評論家、ハードボイルドの大家として池上冬樹という名前は知っていました。でも、その人がまさか山形にいるとは思わなかったですね。しかも同じ山形県立中央高校出身。いまでこそ中央高校といってもコンプレックスを持つ人は少ないでしょうけれど、昔はコンプレックスを持っていた人は多かったですよね。

池上冬樹氏
池上 男子が入る高校としては東、南についで三番手ですよね。南高に行きたかったけど、中学3年生のときに膀胱炎から急性腎臓炎になり、1ヵ月入院して、結果的に内申書の評価が落ちた。この入院の体験も大きいんですよ。一カ月間、天井をみながら生活をする。僕はなにも悪いことはしていないのに何故病気をしたのか、なぜ入院生活を送り、内申書を落とさなくてはいけないのかと考えた。もちろん結論が出るわけがないし、理不尽な思いだった。
 結局、南も入ろうと思えば入れたとは思うけど、危ないから安全な中央にした。いまはもう学歴なんて意味はないと思うけれど、そのときは三番手の中央かという意識はあった。

―― いい高校に入れなかったという意識ですね。

池上 そうだね。病気して入院して、一ランク下の高校に入って、ずっと何故だ? という思いがあったけれど、いま振りかえるときちんとレールが敷かれていたような気がしてならない。中学にもどって、南高に入りたいかというと全くない。何事もなく南に入っていたら、いま自分はこの仕事をしていなかったと思う。中央高で正解だった。

―― 高校がいいか悪いかなんて、自分の考えと行動次第でしょう。自分が置かれている状況とどう向き合い、どのようによりよき方向にもっていくかですよね。

池上 その通り。ちょっと横道にそれるが、遠藤周作の『万華鏡』というエッセイ集に「ある闘病記」という文章がある。ユング派の女性学者が乳ガンにかかった話なのだけど、その学者は、自分はこれこれこういう理由で病気になったとフロイト的に考えるのではなく、自分は何に向かって病気になったのかとユング的に考えたいと。つまり未来にむけて問いを発するべきではないかといっている。遠藤はそれをうけて、病には“創造的な病”があるというんですね。

―― 何かを作りだすため、何かを見出すために病気になった、ということですか?

池上 そういうことになるね。振りかえれば、僕は中央高に入るために病気になったとも考えられる(笑)。僕は高校で国語教師の松坂俊夫先生と出会った。樋口一葉と川端康成の研究家として知られ、のちに山形女子短大の教授になる人だけど、そして親しく付き合うようになったのは大学を卒業したあとだけど、大学受験のとき、日本文学科にするか仏文にするか迷って相談したら「どっちが好きなの?」って逆に聞かれて、「日本文学が好きです」と答えたら「じゃあ、日本文学にしなさい」と言われて立教の日本文学を選んだ。

―― ほかの大学も受かった話をききましたが?

池上 本も読んだが、受験勉強もしましたからね。同じ学年でいちばん勉強したのは僕で、いちばん勉強しなかったのは漫画家になった金井たつおだと思う。あいつは漫画ばかり描いてたからね。高校卒業とともに本宮ひろ志に弟子入れして、後に『ホールインワン』で華々しくデビューした。僕の場合、受験勉強のノウハウを教えてくれた先輩もいて複数の大学に受かった。

―― いまでは考えられないのですが、当時は大学合格者の実名が新聞に出たそうですね。

深町秋生氏

池上 そうだよ。だから詳しくは1974年2月の山形新聞の朝刊をみてもらいたいのだが(笑)、ある大学を選んでいれば、学食で後のサザンオールスターズの桑田圭祐たちと一緒になったかもしれないし、ミステリ研究会に入っていれば二年下で入ってくる茶木則雄を顎でつかっていたかもしれない(笑)。別の大学にいけばコント赤信号の渡辺正行と小宮孝泰、盛田隆二さんと会っていたかもしれない。みんな同世代。江川卓、掛布雅之、郷ひろみ、明石屋さんま、作家では佐藤正午、篠田節子、評論家では三橋暁と香山二三郎、みな1955年(昭和30年)生まれです。

―― なんとなく雰囲気がわかりますね。


■蓮実重彦・黒沢清・周防正行/映画も書評も扇動である

池上 高校時代は映画も好きで、映画評論を読んでいたけれど、もっとも先鋭的的だったのが蓮実重彦で(当時東京大学文学部助教授)、ずいぶん感化された。当時まだマイナーだったけれど、カルト的な地位を確保しつつあった。
 で、立教に入ったら、その蓮実さんの「映画表現論」という授業が一般教養にあった。さっそく受けましたが、最高でしたね。フランソワ・トリュフォーの『アデルの恋の物語』の分析を聴いて、論理的にものを見るということ、細部の組織をどのようにして見るのかがよくわかった。1年目はまだそんなに生徒は多くなくて、後の映画監督の黒沢清(『cure』)も前の席にいましたね。髭面だからよく覚えている。二年後に人気講座になり、それでも隠れて何回か講義をきいたけれど、黒沢のほかに周防正行(『Shall we ダンス?』)の姿も見られた。

―― それは豪華ですね。

池上 当時はみな学生だったけどね(笑)。一度も話をしなかったけれど、彼らは目立ってましたね。僕も彼らの自主上映会をのぞきにいったけれど、いつも蓮実さんがいてね。畑違いだけれど、同じ大学、同じ学年というだけでやはり刺激をうけますよね。ましてや黒沢清たちなどはまさに蓮実チルドレンという感じでしたからね。僕も蓮実節から逃れるのにやや時間がかかりました。

―― 蓮実重彦の影響を受けたというのは意外ですね。

池上 いや意外でもなくてね、評論は基本的に扇動である、アジテーション的性格をもつべきというのは蓮実重彦と目黒考二(北上次郎)さんの影響が大きいですよ。

―― ところで、大学を選ぶにあたって、親御さんの反対はなかったんですか?

池上 文学部に入ることには反対しましたね。経済学部とか法学部とか、将来の設計を見据えたところを選べってね(笑)。でも、結局、納得してくれた。

―― ご家族のなかでの一番の理解者はどなただったんですか?

池上 理解者かどうかわからないけど、いま振り返るとやっぱり親父は立派ですよね。反対はしたけれど、結局好きにさせてくれた。しかも親不孝にも2年間も留年し、そのあと就職もしないで本ばっかり読んでぶらぶらしていたのに、二、三回注意しただけで、あとは何もいわなかった。いろいろ言いたいことは沢山あったはずなのにいわなかった。結果的には、人並みに稼ぐまでなったところを見て亡くなったからよかったけど、よく不満も言わずに我慢したなと感心しますね。

―― ほんとに不肖の息子でしたね(笑)。当時、どう考えていたのですか?

池上 男は30になったときに就職していればいい、という伊丹十三の言葉が漠然と頭にありましたね。でも、30前に、いろいろ動くわけですが。


■池上的恋愛観/文学青年病/マルタの鷹協会・小鷹信光さんとの出会い

―― その一つが小説ですね。作家志望で小説を書いていた。今回、20代に書かれた先生の小説を3作(山新文学賞入選作の「夜の掌」「向日葵」「煙に火をつけて」)読ませていただきましたが、相思相愛のような話はひとつもないですよね。当時の体験となにか関係があるんですか?

池上 それはあるでしょうね。恋愛において「相思相愛なんてありえない」と思ってたくらい、僕の屈折した恋愛観は20代で作られました(笑)。日本文学科は40人クラスで男が9人しかいなかったのですが・・。

―― それは選りどりみどりじゃないですか(笑)。

池上 美人が揃っていたし、いま思うともったいないことをしたのだが、山形の田舎の青年ですからね。完全に奥手なわけです。不器用でしたしね。たまたま好きになった女性が気が多くて、男関係が派手で翻弄されましたね。自分が好きになる女性は絶対ほかの誰かを好きになってしまうのではないかという恐れをもちました。一言でいうなら、コンプレックスのかたまりでしたよ。自分に自信がまったくなかった。


 ただね、クラスでは一応はもてたんですよ(笑)。もてたといっても、いまになって思えば、女性にすれば恋愛感情じゃなくて、人畜無害な人間に寄せる好意だったんだと思いまが。いまでも覚えているのが、ある女性から「池上くんはロマンチストね」って言われたこと。当時の僕はそれをほめ言葉だと思っていたんだけど、それって単に「池上くんって幼いね」ってことでしょ(笑)。その程度の言葉の裏さえ読めなかった。そのくせ文学論をたたかわせて、何でも理解したつもりでいたわけですね。

―― 典型的な文学青年病ですね(笑)。辛口な書評で有名な池上冬樹も、女性から辛(から)いことをいわれて形無しだったと(笑)。

池上 人生そんなにうまくいかないもんですよ(笑)。大学に入ったはいいけれど優秀な学生が山ほどいて、前田愛の卒論ゼミからも脱落したし、大学三年のときに麻雀を覚えて毎日最低5時間打たないと満足しなくて、結局それで留年したし、なぜか膀胱炎は年に数回なったしね。情けなかったなあ。何かバイ菌が入るようなことをしたからじゃなくて、してないのに膀胱炎になる。20代は暗かったね。ものすごく鬱屈していた。

―― 同人雑誌を作っていた話をききましたが?

池上 クラスの男たちと作りましたね。みな文学青年で、作家になりたい欲望をもっていた。当時、立教出身の作家ってほとんどいなかったんです。まして日本文学科出身なんてゼロだった。大学出て10年たってから僕の先輩の伊集院静さん、後輩になるけれど村山由佳さん、評論家では千街晶之君が出てきたけれど。結局、僕もクラスのみんなも小説家にはなれませんでしたね。いまだに同人雑誌をやっている奴がいるけれど。

―― 作家にはなれなかったけれど、翻訳家にはなったんですよね。評論家の前に。

池上 ちょうど30歳のときですね。翻訳家デビューしたのは。20代はうまくいかなくて暗かったけれど、不思議なもので、人間関係においてはいい出会いはたくさんあった。その最たるものが、ハードボイルド小説の翻訳家で評論家の小鷹信光(こだかのぶみつ)さんとの出会いだった。
僕は、翻訳家や編集者やたくさん入っているハードボイルドのファンクラブ「マルタの鷹協会」で書評を書いていたのだが、それを気にいってくれたようで、電話をくれたのです。「君はなにやってるの?」って聞かれてね。「何もやっていません」といったら、「じゃ、僕の仕事を手伝ってよ」といわれたのが、この業界に入るきっかけですね。
“師匠”小鷹信光氏の集大成の本
付箋の数が尋常ではない


■修行なしでいきなり翻訳家へ/年収30万の時代/修行なしが響いて・・

―― 「マルタの鷹協会」は、大学卒業して山形に戻ってからの話ですよね。

池上 山形に帰ってきたのは26歳ぐらいかな。僕には姉貴がふたりいるんですが、上のほうの姉貴が家を継ぐと思っていたんですよ。でも、長女は早々と嫁いじゃって、次女と僕のどっちが家を継ぐかという話になった。いまの時代では考えられないけれど、子供は実家に帰って親の面倒を見るというのが、まだ一般的だった。
 で、仕事のあてもないのに、僕が継ぐしかないだろうなと思って山形に帰ってきた。その半年後ですよ、マル鷹が結成されたのは。半年前にそれがわかっていたら、僕はずっと東京にいたと思う。幸か不幸か、山形に帰ってきてから、マル鷹の例会に顔をだすようになった。年に1回か2回くらいいくと、翻訳家デビューしたての、当時都立の英語教師をしていた田口俊樹さんがいて、こっちが無職だと知ると、「君ね、20代後半で無職というのはないよ。ちゃんと働きなさい」と毎回説教されたなあ(笑)。

―― そういう田口さんはいまでは超一流の翻訳家だし、先生も朝日新聞の書評委員にもなられた。

池上 ちょうど書評委員のときかな、「池上も有名になったじゃないか」とひやかされたことがある。実は田口さんも小説家志望で、同人雑誌に小説を書いていた時期があるんです。おたがい作家志望というのを知っていたから、遠慮なくものをいえたんですね。
 いまでいうプー太郎で、小鷹さんの仕事を手伝うようになり、資料集めやリーディング(翻訳する価値があるかどうか原書を読んで判断する仕事)をしているうちに、小鷹信光編纂の『アメリカン・ハードボイルド全10巻』(河出書房新社)の企画が動き出し、作品選定で何冊も原書を読んだ。その一冊がエド・レイシイの『死の盗聴』で、叢書の一冊にいれることになり、翻訳してみないかと誘われた。小鷹さんの下訳の仕事だったのだが、第一章を見せたら、下訳の必要はない、君の名前でだすからといわれてびっくりした。


―― これが翻訳第1作ですか。はじめて見ますね。この本を訳すのにどれくらいの時間がかかったんですか?

池上 1年。当時、一冊訳して30万だから、年収30万ね(笑)。30歳から35歳の年収は、だいたい30万だったね(笑)。

―― これは作家が原稿を埋めるより訳文のほうが時間かかりますよね。

池上 この『リーダーズ英和辞典』(研究社、1984年)を使っていたんですが、この辞書は当時画期的で、語彙が実に豊富で、しかも新しい俗語がふんだんに入っていて、翻訳者はみなもっていましたね。


―― 一般の辞書には俗語はあまり入っていないですからね。それにしても字が細かいですね。

池上 翻訳するようになってからとたんに目が悪くなり、それで眼鏡をかけるようになった。

―― では、訳した本は『死の盗聴』『悪党パーカー/怒りの追跡』(リチャード・スターク著、ハヤカワ・ミステリ)『真夜中のトラッカー』(ジョゼフ・ハンセン著、ハヤカワ・ミステリ)の3 冊ですか?

池上 いや、本当はもう一冊あるんですよ。小鷹さんと大久保寛さんと共訳したゲームブックが。なぜか二見書房から出なくなってしまってギャラももらえなくてね。小鷹さんと大久保さんは『刑事コロンボ』のノベライズの仕事をもらったのに、僕にはこなくて。
 大久保さんは小鷹さんの弟子で、修行したクチだったけれど、僕はしていない。ということは基本的なノウハウがわかっていない。端的にいうと仕事が遅い。田口さんのように早くてうまい人がたくさんいるんですね。仕事としては厳しいかもと思いましたね。




■翻訳家から書評家へ/真夜中の叱責/辛口であることのスタンス

―― 翻訳家から書評の仕事をするようになったのはいつごろからですか?

池上 ちょうど『怒りの追跡』が出たあとから、書評の仕事が来るようになった。池上は翻訳よりあとがきが面白いよねって言われてね(笑)。「悪党パーカー名場面集」の分析についやした『怒りの追跡』の訳者あとがきが非常に評判がよくて、そのうちに老舗の雑誌「ミステリマガジン」(早川書房書房)の常連の書評家が目を悪くして、その空いた穴に僕が入った。それが書評家デビューだよね。
 やがて文庫解説の仕事もくるようになり、文庫解説2冊目のジェイムズ・クラムリーの『さらば甘き口づけ』の解説を読んだ「本の雑誌」の発行人の目黒さんが声をかけてくれて、「本の雑誌」で連載はじめた。そのうちそれらを読んでいた「週刊文春」のMさんが文春によんでくれて書評の連載がはじまった。

―― 業界関係者がみな読んでいる「ミステリマガジン」と「本の雑誌」、それから大手の週刊誌での連載、順調ですね。



池上 僕は運がいいなあと思いましたね。ほんとにいい編集者に出会えた。褒めるだけでなく、ちゃんと叱ってくれる編集者にも出会えたし。やはり最初のころ、順調に仕事がくると、どうしても守りに入るんですね。編集者は褒める書評を求めているがわかると、多少筆が甘くなり、バランスをとるようになった。そんなときに僕の辛口の書評を贔屓にしていた、産経新聞の服部さんにものすごく怒られた。真夜中の12時ごろにいきなり電話がきてね。「お前なにをやっているんだ! 褒めてんのかけなしてんのか、はっきりしろ! おれはお前のそんな書評読みたくないんだ! お前がそんな風にやったってお前の将来のなんの役にもたたないぞ」といわれてね(笑)。そこで目がさめましたね。
 だから僕は、山形に戻ってきて、結果的によかったと思ってる。評論活動って作家と仲良くなってしまうと甘くなってしまうからね。辛口の書評を書けたのも田舎にいて作家の顔も見えないからで、本当にいいか悪いかだけの判断で書いた。それが「池上冬樹は辛口でぜんぜん媚びない。本音で書いてるよね」ってなり、仕事の依頼が来るようになった。今も昔も、本音で書いている書評が信用できるしね。
 ただ、そうはいっても、人は迷うもので、ときどきふらふらするんです。でも幸いなことに僕には、僕のことを思って叱ってくれる人がいた。それは何よりも得がたいものでした。もう服部さんは亡くなってしまったけれど、目黒さんや数人の編集者がいて、はっきり苦言をいってくれるので助かりました。

―― 話を聞くとすべて必然のように思いますね。人とも会うべくして会っている。

池上 人との縁だと思いますね。「池上さんは運がいい」と友人にいわれるけれど、たしかに運がいいと思うほうだが、でも、運を好転させている自信はある。運が開ける開けないというのは、素直に来たものを拒まずに受け入れるかどうかにかかっている。世の中にはどうして運を手にしないの? と思うくらいに屈折して拒絶する人がたくさんいる。人生どう転ぶかわからないのだから、まずは受け入れて挑戦すればいいんです。


■本との出会い/ミステリから純文学へ/人生を変えた2冊
―― 先生はかなりの本を読んでいますが、本を読むきっかけはなんだったんですか?

原稿の資料集めに最適の古本屋
「香澄堂書店」(山形市)にて
池上 姉貴の本棚ですね。小学校のころはマンガを読んでいたんだけれども、4年のときにおふくろから「マンガなんか読むな」って言われて姉貴の本棚を見ていたら、江戸川乱歩の少年探偵団があって、それが面白くてね。それで小説にはまって、図書館に行って横溝正史のジュニア版を読んだりしているうちに、創元推理文庫を見つけてエラリー・クイーンの『Xの悲劇』を手にした。それから推理文庫の本格探偵ものを中心に読むようになった。当時、すでにハードボイルドも読んでいたんだけれど、小学6年ではわからなくて、ぜんぜん面白くなかった(笑)。


―― 純文学も読まれていますよね。いつ頃から読んでいたんですか?

池上 中学のときに集英社の「デュエット版世界文学全集」が出たんです。それを家で買いはじめ、いろいろ読んだけれど、決定打はヘミングウエイの『武器よさらば』でしたね。抑制のきいた心理描写の巧さ、秘められた感情の激しさ、つややかな風景描写の美しさ。それらはみなハードボイルドの文体のたまものだったのですが、当時はまだわからなかった。
 中学時代は文学全集とミステリを読んでいましたが、高校のときに福永武彦の『忘却の河』に出会って一変した。読後、涙がとまらなかった。本を読んで泣いたのはこのときがはじめてでしたね。そこから日本文学にどっぷり浸かりました。福永、辻邦生、吉行淳之介、森内俊雄、三島由紀夫・・と好きな作家も増えていった。それは大学に入ってからもかわらなかったが、ただ、一方で、福永のエッセイによくでてくる結城昌治が気になって、結城昌治を読んだらこれがものすごく面白くてね。特に『暗い落日』『公園には誰もいない』『夜の終り』という真木探偵三部作にしびれた。


それで『暗い落日』が影響をうけたというロス・マクドナルドの『ウィチャリー家の女』を読んで仰天、海外ミステリ、まずはハードボイルド小説へと入り込んでいくわけです。
 人生を変えた本は何か? ときかれたら、1冊目は『忘却の河』。2冊目が『ウィチャリー家の女』になりますね。とくにロス・マクは好きですね。ごらんのように(本を手にして見せる)本を開くとアンダーラインが引かれてるでしょ? これは全部比喩です。僕はこれを、ロス・マク全作で行ったんですよ(笑)。

―― これはすごい! 貴重ですね。でもどうして比喩にラインを引いていたんですか?

ロス・マクドナルドの文章には比喩が多い


池上 比喩が好きだったこともあるし、比喩を通してロス・マクのハードボイルド論を書きたかった。ロス・マクはハードボイルドとして、本格ミステリとして、さらに文体からいけば純文学的でもあって、僕が惹かれてきた小説の魅力をすべてかねそなえていた。

―― ひと月どのくらいの本を読みますか?

池上 文学賞の下読みをいれたら70、80冊のときもあれば、執筆におわれて20冊弱のときもある。ただひとつだけいえるのは、自分の好きな本が読めないこと。時間がなくて、自分の仕事に関わっている本しか読めない。これは予想外のことだったね。一冊の書評でも関連図書がたくさんあるから、それも読まなければいけない。

―― 映画もよくご覧になってますが、映画は息抜きですか?

池上 そうだね。でも映画はDVDばっかりだね。映画館に行かなくなった。

―― それは、どうして?

池上 涙もろいから(笑)。

―― そんな理由でですか?


池上 人前で泣くのがはずかしいんですよ(笑)。あとは時間もないから足を運ぶのが億劫になっちゃったね。息抜きといえばドライブかな。夕方、かならず走らないと気がすまないね。走ると気持ちがいい。時間があれば、といってもぜんぜんないのだが、予定もたてないで一日ずっと車で走りたいね。


■小説を選んだ理由/いちばんの読者とは/大切にしまいこまれた“言葉”

―― いろんなメディアがあるなかで、小説の世界を選んだ理由はなんですか。小説の魅力とはなんでしょう。

池上 単純にいってしまうなら、文章の魅力でしょうね。作家になりたくて小説を書いて、翻訳をやって、評論の仕事に落ち着いているけれど、結局、言葉の吟味の仕事なんですね。翻訳していたときも、小鷹さんからは“自分の言葉を使え”とよくいわれた。辞書を引けば、そこに言葉があるが、それは単なる説明であって生きている日本語ではないと。いままで読んできた小説の言葉を自分の言葉にしろとよくいわれた。
 それは高校時代の恩師の松坂先生の文章にもいえる。僕は多くの人の影響をうけてきたけれど、僕にとって松坂先生の文章の存在が大きい。気品があって、リズミカルで、格調が高くてね。ああいう文章を書きたいなあと思った。
 ともかく、文章のひとつひとつの手触り、匂い、表現の奥深さといったことかな。僕は詩や俳句や短歌も好きなんだけど、それも、短い文章にすべてが凝縮されているからなんです。普通に使っている言葉でも、ちょっと配置を変えるだけで言葉が輝きだす。世界が一変する。その瞬間の美しさ、驚きと感動だね。小説はそれが会話になったり行動になったりする。言葉が喚起する力のすばらしさでしょうね。

―― もういちど小説を書きたいと思いませんか?

池上 書きたい気持ちはありますね。尊敬するある評論家が亡くなって、フロッピーを開いたら、書きかけの小説が何本かあったときいて、評論家として一家を成しても、小説に対する思い入れはあったんだなと思いました。それは誰にもあるんじゃないのかな。

―― いまなら昔と違うものを書くと思いますか?

池上 文章も違うし書くテーマも違うと思う。今回「小説家(ライター)になろう講座」のテキストにするために、30年前の小説を読み返したけれど、懐かしかった。でももうそういう小説は書けないなあとも思った。似たような世界ではあるが、アプローチもぜんぜん異なると思う。

―― 吉行淳之介の『暗室』が好きだ、ああいう小説を読みたいし、書きたいともいってましたね。

愛用のパソコン、キーボードは文筆関係者に
根強いファンをもつ親指シフト


池上 『暗室』は好きですね。あれは人間性の闇をさぐるミステリなんです。もともと吉行淳之介が好きなのですが、性をテーマにしているというより、小説の方法意識ですね、関心があるのは。斬新な断章構成で、エッセイ風にエピソードを並べながら、切実な風景を巧緻に彫り込んでいく。名人芸だと思う。
 小説を書きたい気持ちがあるのは、吉行淳之介や開高健のような作家が出てこないからですよ。誰か書いてくれればいいんだけど書いてくれない。新作に出会えない欲求不満が強まってるんですね。吉行や開高の“新作”を求める読者はいまだにいると思いますけどね。

―― 読者といえば、自分の一番の読者って誰だと思いますか?

池上 いろいろいるけれど、最近は亡くなった人たちを思いだしますね。松坂先生、打海文三さん、講座でも個人的にも世話になった「鳥信」の親父さん、そしてお袋と親父。僕の家系では、曾祖父が短歌を趣味でやっていたぐらいで、文芸に関心があるわけではない。「漫画を読まないで本を読め」といったお袋が、少しは本を読んでいた程度かな。
 ただ、本よりも僕の書いたものを熱心に読んでたことを、亡くなってから知りましたけどね。遺品の整理をしていたら、山新文学賞を受賞したときのコピーやら何やら出てきてね。一番古いものは小学校4年生のものでしたよ。母の日で書いたのかな。というか学校で書かされたものですよね。小さなカードに鉛筆書きで、「おかあさんへ、いつもありがとう」みたいな決まり文句が書いてある。それを見たとき「こんなものまで取ってたのかよ」って思ったらとたんに泣けてきてね。もう涙ボロボロ(笑)。

―― 生きているうちに親孝行しなさいということですね。

池上 それと同時に、見方をかえるなら、君の文章をひそかに待っている読者がいるということだね。君の言葉を必要とし、それを大切にしまいこむだろう読者がいるということ。最初にユング派の女性学者の話をしたけれど、病気になったとき、自分は何に向かって病気になったのかと考えるのが有効であるように、自分は何に向かって書いているのかという問いも有効だと思う。小学4年のときに儀礼的に書かされた文章を、30年後に読まされることもあるんだよ(笑)。言葉は母親の箪笥の底に、母親の心の奥にあった。それを30年後に知る。小学4年の僕は、30年後に母親の愛をもういちど知るために書いたんだよ。言葉は生き残る。いつまでも生き残り、人の心を揺り動かす。

―― そのためにも手をぬかないで、ちゃんと仕事をしなくてはいけませんね。今日はお忙しいなか、ありがとございました。


(09年3月・郷土料理あげつまにて)

連載中のレビュー『あなたに有利な証拠として』と、池上冬樹さんの略歴はこちらを参照してください。



このページの先頭へ