会話から、ふと垣間見える、意外な一面。
言葉の中にこめられた、人生のはかなさと美しさ。
さまざまな世界で活躍する方々にお話いただく「その人の素顔」。
第1回目は、作家の佐伯一麦さん(聞き手は文芸評論家の池上冬樹さん)。
山形で暮らした日々、病気、文壇での交友などを話していただきました。
■人生で一番暗い時期/書きたいものと書かなければいけないもの
佐伯一麦氏
―― 佐伯一麦さんは「私小説を生きる作家」といわれています。「木の一族」の言葉を借りるなら、「生きていく人間のあたり前の姿」を誠実に書いている。
しかし生きていく上には多くの苦労があり、短篇「まぼろしの夏」(作品集『まぼろしの夏そのほか』所収。講談社、2000年)の冒頭には、「1993年7月31日、夜。私は睡眠薬で自殺を図った」とあります。自筆年譜(講談社文芸文庫『ショート・サーキット 佐伯一麦初期作品集』所収)にも、“七月末、睡眠薬自殺を図るが、未遂”という記述があります。93年というと山形にお住まいの頃ですよね。鬱が一番激しい時に山形にいらしたんですか?
佐伯 長井市の教会に知っている神父さんがいて、その方から聖書の中の「ひとりでいるのは、よくない」というような言葉を教えられたんですね。僕は無宗教なんですが、それを知って、やはりひとりでいるとろくなことはないなと。それで、なるべく彼女のところに転がり込むようにした。その彼女が当時、山形に住んでいたんです。
―― アパートは4階建て。ひとりでいると飛び降りたくなってしまう怖さがあったから、彼女が朝でかけるときに一緒に出かけたとか。
佐伯 遊学館(※山形県生涯学習センター。県立図書館が併設されている)に行って、図書館が開くまで待っていたりしましたね。最初に行った時はあいにく休館日で、しかたがないから彼女が戻るまで、じっとそこで待っていたりしました。幼児と一緒(笑)。今では考えられませんが、鬱っていうのはそういうものですよ。人間っていうのはそういうことが起こりえるんです。決して劇的なことではない。
―― 自殺を図ったときのことは、本人は覚えてないんですよね。
佐伯 お酒と睡眠薬を一緒に飲んでいたので、ラリっていたというところもありましたしね。
―― でも、遺書を3通書いている。
佐伯 自分でもそれで「ああ、そうなんだな」と思いましたけれども、今の時代、年間3万人の自殺者がいます。だけどその中で完全に死ぬ意思を持っている人と、その意思の手前ぐらいで逝ってしまった人の両方あると思うんですよ。僕の場合、自殺願望が強かったというよりも自己抹殺衝動のようなものかな。立原正秋なども書いているけれど、これは作家なら誰しも、ある程度持っているものだと思いますけれどもね。
―― 幸いにも彼女、当時お付き合いのあった神田さん(現在の佐伯さんのパートナー)が異変に気づいてアパートにやってきた。
佐伯 その前に電話をしていたようなので、どこかで助けてもらいたいという気持ちがあったんだと思いますね。
―― その頃、小説は書けていたんですか。
佐伯 書けませんでしたね。僕は『ア・ルース・ボーイ』(新潮社、1991年。現在新潮文庫)で第4回三島由起夫賞をいただいたんですが、そのときに新宿の文壇バー「風花」にいたんです。受賞を聞いた瞬間、泣けてきましてね。普通ならそのあと「さあ、書こう!」という気持ちになるんでしょうけれど、その頃僕は、仕事が終わってから「風花」でちびちび飲んで、朝になったら新宿から宇都宮に行く始発の特急で、工場に出かける生活をしていたんです。そんなことばかりしていたので、体力的には限界だったのかな。賞を取ったら逆にがくっと来てね(笑)。1年か1年半くらい書けませんでしたね。
―― ネタがないから書けないんですか。それとも書きたいものがなかったんですか。
住んでいたアパートの前にて
佐伯 気力が沸かないし、書きたいものもそんなにないんですよね。書きたいものと書かなければいけないものって、違うような気がするんですよ。書かなければいけないものは自分の中にある。だけど「じゃあ、何を書いたらいいのか」という壁には、必ず一度はぶつかりますね。『ア・ルース・ボーイ』は、ずっと「書かなければ」と思っていたもので、13年くらいかけて書きました。
―― 「まぼろしの夏」で印象的なのが性描写。あまり性描写をしない佐伯さんですが、ここでとりいれています。とても印象的な場面です。
佐伯 自分の作品はあまり読み返さないんですが、一番読み返したくないといえば、読み返したくない小説ではありますね。この作品は、本当は「群像」の巻頭で一挙掲載250枚の予定だったんですよ。でも、どうしても書けなくて、80枚ちょっとで勘弁してもらったんです。今までで一番苦労しましたね。
―― でも、あの性描写は避けることも出来たし、オブラートに包んで柔らかくすることも出来た。それでも逃げないで正面から描いた理由はなんなんでしょう。
佐伯 私小説としてのひとつの支えとして、やはり告白と懺悔があるんですよね。ルソーのときからの流れとか、そういうことじゃないのかな。
9つの短編による私小説『まぼろしの夏』
―― その場面で、連れ合いの女性が、「あなたの一番はずかしいところを私が見てあげる」といいます。すごくいい言葉ですし、いい描写が続きます。お互いの本当にはずかしい格好を知ることで、お互いを理解する。それが性愛を含んだ大きな愛を獲得するうえで、重要な手続きになると思いますね。
■鬱からの回復/無根拠に耐え続けて生きることの大切さ
大場キミさんが建立した草木塔の前で
―― 自殺を図ったあと、神田さんから「山形で一緒に暮らそう。そのほうが安心だから」と言われて、山形で暮らすようになったんですよね。
佐伯 山形の風土と自然、そして当時山形に住んでいた神田の草木染めの先生、大場キミさんとの出会いなどで、ゆっくりだけれども、回復していったところはありますね。
―― その頃からですか、目の前の風景や自然と向き合う気持ちが強まったのは。
佐伯 そうですね。2作目あたりの小説だと木の名前なども書いてない。名前を書かないで、ただ観葉植物とか書いていたんですよ。名前を知らない植物と書いていたのが、全部名前を調べてでも書こうと変わっていきましたね。
―― 自分で、精神的に回復してきたなと感じたのは、どのようなときでしたか。
佐伯 子供のときの心や気持ちを取り戻したときでしょうね。最初の結婚で、3人の子供をもうけたので、父親として稼がなければいけなかった。でも、最初の奥さんは気が向けば内職ぐらいはしたけれど、共稼ぎは嫌がってしなかった。その分も稼がなければいけない。そして、立ち行かなくなった。
山形に来てからは、霞城公園のお堀端で1日中カモを見ていたり、小さいアリをずっとみていたりしましたね。飽きないんです。小さい子供と同じですよね(笑)。でも、そういうことで回復することが人間にはありますね。そういうことを、許してくれる土地と、許してくれない土地があると思うんですよね。東京や仙台では難しかった。でも、山形はそれを許してくれた。それは大きかったですね。
―― 自分が閉じこもっていた内面の世界から、ようやく外界に目を向けはじめたということでしょうか。
佐伯 ものが目に入ってきたり、音が聞こえてきたりということは、生命に向かうことだと思うんです。死に向っている人っていうのは、目の前のものも見えなくなってくるし、鳥が鳴いていても聴こえてこない。鬱にからめとられてしまっていたときには、生の根拠が見出せなくなっていたのですが、回復するにつれて、生の根拠を求めなくなっていきました。
草木染めをおこなう主人公を書いた『草の輝き』
そして、人間の生の根拠はないのではないか、と思うようになった。この生の根拠が見出せないのは、僕だけではなく、現代に生きる人たちみなそうだと思う。自分はなぜ日本に生まれてきたのだろう。なぜアメリカではなく、またイラクではなく、中国でもなく、この日本に生まれてきたのだろう。もっと言うならば、東京でも大阪でもなく、なぜこの仙台に。そんな無根拠を生きている者に対して、鳥の鳴き声や草花、星の輝きや潮の満ち引きといった自然現象は、性急に根拠を求めて争うことよりも、無根拠に耐え続けて生きることの大切さ、無根拠な世界を充たしてくれる存在があることを知らせているように思います。だから、道端の花が見えたり鳥の鳴き声に気づいているうちは、まだ大丈夫だと思いますね。
―― その頃の佐伯さんにとって、神田さんの存在が大きかったんでしょうか。
佐伯 大きかったですね。山交ビルの隣あたりの喫茶店だったかな。そこで、半日ぐらいしゃべらずにいるような生活が普通だった。そういう生活を受け入れてくれる人の存在って、やはり大きいですよね。
―― 治ったと思うまでに何年くらいかかりましたか。
佐伯 まだ薬は飲んでいますからね。本当に「大丈夫だな」って思えるようになったのは、ここ一年くらいかな。
―― そうなんですか。いまから11年まえ、1997年にノルウェーに行った前後はずいぶん明るかったような印象でしたが。
佐伯 人前ではそう振る舞ってしまうのも鬱の特徴なんですね。だから、あの人がなぜ自殺を、となる。僕の場合は、ノルウェーに行っていたのが劇的によかったですね。鬱の場合、転地療法がいいと言われていますが、それを意図せずにやったことになりますよね。ノルウェー行きをきっかけに、だいぶ眠れるようになりましたね。
―― むこうは白夜ですが、眠れましたか。
佐伯 金がないからカーテンが買えないし、ナイチンゲールも夜通し鳴いている。それでも眠れましたね。外国って言葉が通じないじゃないですか。子供が遊んでいても言葉がわからない。小鳥の声と同じなんだよね。人ごみの中にいても、鳥の鳴き声の中にいると思うと楽なんですよ。すべてに意味をつけなくてもいい。日本にいると言葉がわかってしまうから、すべてに意味がついてしまう。意味をつけなくてもいい環境は楽でしたね。何もしない時間というのも、人間には必要なんだよね。それは若いときはわからなかった。それがわかったのが、ノルウェー行きでしたね。芝生に寝っ転がってぐだぐだしている時間も必要なんだなってね。
―― 芝生でぐだぐだしている時間、つまり人生の休息ですが、それが大学なのではないか思うときがある。20歳前後で休息してどうするのだ、休息ではなくて勉強すべき時間なんですが、佐伯さんの場合、大学には行きませんでしたね。佐伯さんが通っていた高校は有名な進学校で、大学に進学するのが普通なのに、なぜ行かなかったのでしょうか。あえてドロップアウトしたという人もいますが。
佐伯 『石の肺』(新潮社、2007年)にも書いたけど、僕は高校3年生の12月に東京に出てしまったので、卒業したと思っていなかったんですよ。あとで卒業証書が送られてきて「卒業したんだな」ってわかった。僕は高校時代から小説を書いていたので、「大学に行かなかったことをドロップアウトした」と捉える意識はまったくないんですよ。逆に早く自分の力を発揮したいという気持ちのほうが強かったですね。
―― でも、級友たちはみんな大学に行きますよね。それをどう思っていましたか。
佐伯 作家になるって決めてから、迷いはなかったですね。ただ、後になって「あのときの選択はどうだったんだろう」と思うことは、正直のところありましたけれども。
―― 今の若い世代は、自分が進むべき道がわかっていない人が多いですよね。結局エスカレーターに乗って大学に入っていく。無駄にはならないけど、遠回りしている人もいるんじゃないでしょうか。
佐伯 進むべき道がわからないというより、決められないんじゃないかな。可能性がありすぎるんだと思う。可能性の誘惑が多すぎて、たしかに自分がどの道に行くのか、どこに行きたいのかわからない人は多い。でも、15歳くらいで将来何がしたいのかわかる人はわかるんですよね。わかってしまったら、もうそれでやっていくしかない。
僕の場合、それがわかってしまったから、逆に大学に行かないほうが有利だという考えもあった。なりたいものに最速短でいけますからね。音楽家でもなんでも、結果的になりたいものになる人って、それしかなりようがないからなるっていうのが強いですよ。
でも、大学に行く良さももちろんありますよね。例えば友達。僕の場合は高校の友人ですが、鬱になったときに診てくれたのが、その友人でしたね。高校で作れなかった友達を大学で作るという場合もあると思う。
■人との出会い/様々なエピソード
―― いままでにいろいろな人との出会いがあったと思いますが、印象に残っている出会いってなんですか。
佐伯 僕は25歳のときに、「木を接ぐ」で海燕新人文学賞をいただいたんです。ホテルの授賞式が終わって文壇バーのようなところに行ったんですが、その席で文芸評論家の川村二郎と戦後文学者たちを育てて名編集者といわれた坂本一亀が、突然殴り合い寸前の喧嘩をはじめて(笑)。川村さんは僕たちの流れで行ったんだけど、坂本さんはそこで待ってたんですよね。その頃、埴谷雄高の「死霊」の七章が出たときで、それを川村さんが文芸誌の文芸時評でけなしたんですよ。坂本さんはそれが頭に来ていて、顔を合わせるなり「川村が来た。てめぇ!」って。川村さんも「こんなやつと飲めない、もう帰る!」とかになっちゃって(笑)。「なんだか、すげえ世界に飛び込んでしまったなあ」と思ったね(笑)。
―― エンターテインメントの業界では殴り合いの喧嘩はおきないんですが、純文学のほうではよくあるみたいですね(笑)。それにしても、いきなり喧嘩の場面に遭遇するとはすごい。
佐伯 強烈な洗礼を浴びましたね(笑)。
―― 人に教えてもらって、蒙が啓かれた言葉ってありますか。
佐伯 中上健次に言われた言葉がありますね。僕の前年に島田雅彦がデビューして、僕がもらった海燕新人賞の同期が小林恭二で、彼らはもう本を2、3冊出していたんですよ。僕は電気工の仕事と小説を書け持ちしていて、3年間本が出せなかった。そのときに中上健次に会って、「電気工でいくら稼いでるの」って聞かれて、「このぐらい」って額をいったら、「バカヤロー! それじゃあ、学生のバイトと一緒じゃねえか! 今の3倍は稼がないと妻子を養ってるって言えねぇだろう!」って机をバーンと叩かれてね。ほら、中上健次って、怒ると机を叩くかひっくり返すかする人だから(笑)。
それで、「そうだな」と思ってね。それから8時から5時勤務のほかに残業もするようにした。3倍までは行かないけれども、倍くらいまではいくようになりましたね。でも、残業をすると仕事が終わるのが夜の10時過ぎ。もっと小説が書けなくなるんじゃないかと思ったけど、逆に、僕の代表作のひとつである『ショート・サーキット』(福武書店、1990年)という電気工を主人公にした作品が生まれた。『ショート・サーキット』の世界が見えてきたのは、そうやって働いてからなんですよね。
―― そう考えると、中上さんの指摘は大きかったですよね。
佐伯 でも、中上健次にはいつもボロクソ言われてね。酒の席で横にいると、耳元でささやくんですよ。「お前は才能がない、才能がない」って。それも50回くらい(笑)。あの人は後年、三島賞の選考会で大江健三郎にも「大江、お前には才能ない、才能ない」ってずっと言ってたそうですね(笑)。
あるとき、おれと島田さんと中上さんの3人で飲んでいて、また中上さんが「島田も才能がない」とか言いはじめたんですよ。おれたちはもううんざりしているわけ(笑)。でも、中上さんは金がないからついてくる。タクシー代もないから「今日はお前のとこに泊めて」って言いはじめる(笑)。店を出てタクシーに3人で乗ったとき、中上さんが立小便のために車を降りたすきに「もうタクシー出しちゃおうぜ」って言って、ふたりで中上さん置き去りにしたんですよ(笑)。
―― それはひどい(笑)。
佐伯 そしたら中上さん、タクシーの中に革ジャン置いていて、僕がそれをもらったんです(笑)。中上さんとはそれっきり会ってなかったんですが、三島賞が設立されて僕がノミネートされたら、なんと選考委員が中上さんで(笑)。「革ジャンの恨みがあるから、絶対くれないよな」って思っていたら、なぜかいただいてしまった(笑)。
―― 「今日はお前のとこに泊めて」って台詞は、佐伯さんを口説いていたんじゃないんですか(笑)。
佐伯 あの当時はみんな、そっちのほうも勉強してましたよね。
霞城公園にて
―― 性的な趣味ではなくて勉強ですか?
佐伯 勉強だね。そういう性癖がまったくないとは言わないけれど、性癖としてあったのは三島だけだったんじゃないかな。僕もある年齢までは「自分は女性を抱けないんじゃないか」って思っていたことがあった。僕は5歳のときに男性にいたずらされているからね。女性を抱けないんじゃないかって心配で、新宿2丁目に行ったこともあったんですよ。でもそのときはダメだった。いちおう、16歳のときに女性とはじめて経験を持ったんですが。
―― 16歳とは早いですね(笑)。
佐伯 池上さんと比較してですか(笑)。それはともかく、そのときは事故みたいなもので。その後、「ああ、女性を抱けるな」とほんとうに思えるまでがちょっとあった。それまでは不安でしたね。
今になれば出来なかったことを「あれは思春期特有の緊張だったんだ」と笑えますけど、当時は深刻でしたよ。
―― 男性の、という言い方は語弊があるし、女性もそうかもしれませんが、一般的に男性の性的機能はナイーブです。好きな女性と完全な性的関係を結べるかというとそうでもない。むしろそんなに好きでもない女性と簡単に結べたりする。好きだから逆に感情があふれて抱けないときもある。
佐伯 抱けないといえば、肉体的な問題で女性を抱けない人もいるよね。去年、新潮に「俺」っていう小説を書いたんですが、それが高校時代の友人の話なんです。すこし生々しい話になって申し訳ないのだが、彼のいちもつがビール瓶くらいあった。夏に合宿すると、みんな彼のものを見に来るんですよ。そして、みんな自信をなくして帰っていく(笑)。でもね、そいつにとっては大きいのがコンプレックスでね。ストリップのまな板ショーでも、ソープでも、無理といって断られた(笑)。そいつが「結局みんな自分のことを、いちもつが大きい、としか記憶してない」って嘆くんですよ。それって、自分のアイデンティティーがそこにしかないみたいなことでしょう。それは厳しいだろうなって。
―― 性器の大小は本来関係ないのに、ある種の性的幻想(アダルト・ヴィデオ的幻想といってもいい)に支配されていて、それに左右されている。性的幻想にふりまわされるといっていいかもしれない。ほんとうはもっと好みや関心が違うはずなのに、みなひとつしかないように捉える。男性器の大小や機能、さらには女性のオルガズムの問題もそうですが、男性の肉体と心理、いや、女性の肉体も心理もそうでしょうが、とても難しく微妙です。精神的な相性ももちろんあるでしょうし、肉体的な相性もある。それは異性愛、同性愛関係なく存在する。
佐伯 国内外問わず同性愛者がいるけれど、男性が女性と付き合えるようになるのも、男性が男性から「女と付き合うにはこうするんだぜ」というような教えられるわけでね。例えば若い頃の志賀直哉と里見弴が仲が良かったとか、夏目漱石だって「こころ」に隠蔽されているのは同性愛的なものだったんじゃないか、とか言われている。それは文学のもうひとつの捉え方として、たしかにあるんですよね。
―― 文学にはたくさんの効用がありますが、社会が作り上げた制度としての幻想をこわして、新たな価値観を創出するという面がありますね。人生における性のもつ多様さをもっと見つめるべきですね。幻想や偏見にとらわれることなく。
■五感で受け止める/純文学・エンターテインメント・私小説とは
―― さて、話はかわりますが、筆は早いほうですか。
佐伯 (原稿が)出来るときは、書き直しなしで出来ます。それまで時間がかかりますけどね。僕の場合書くんじゃなくて、成るっていうのかな。実が成り熟すのを待つという感じかな。
―― 実がなかなか熟さないときの対処法ってありますか。
美味い酒に話もはずむ(呑み処・小野にて)
佐伯 身体を動かすこと。外に出て、目に見えるもの見えないものを五感で受け止める。そこから言葉が立ち上がってくることって、あると思いますね。自然は誰にでも触れられるものです。イメージ上の情緒というだけでなく、木の肌や石ころだとか、踏んでいる土だとかでも、具体的に触れるということも大切なんじゃないかな。自分の中だけを見ていても、無理なことってあると思う。
―― 佐伯さんは、僕が世話役をつとめる山形の「小説家(ライター)になろう講座」の常連講師ですが、そこで前に「文を読めば人となりがわかる」と言われましたよね。
佐伯 わかりますね。人となりがわかるのが純文学で、人となりを裏切るのがエンターテインメントじゃないかな。
―― 書かざるをえない作者の強い衝迫性が感じさせるのが純文学、どう書くのかという技術で迫り、自分を韜晦するのがエンターテインメントでしょうか。
佐伯 そうですね。純文学っていうのは、たとえつくった物語であっても、書き手との繋がりを見ちゃうんだよね。「書き手がこの作品とどこで繋がっているんだろう」という部分が見えるか見えないかが、純文学とエンターテインメントの境じゃないかな。繋がりを消したいのであれば、エンターテインメントの技術を身につければいい。どこかで繋がっているというリアリティを持ちたければ、純文学だと思う。その反映のさせ方を、一見誰にでも出来るような形で見せているのが、私小説だと思います。でもほんとうはそれが難しい。
―― とくに『鉄塔家族』(日本経済新聞社、2004年。現在朝日文庫)がそうですね。どちらかといえばエンターテインメント的な群像劇を採用しつつ、それでもなおかつ切実に書き手が現実と繋がり、強い衝迫性を感じさせる。「生きていく人間のあたり前の姿」を書きたいという思いがひしひし伝わってきました。今日あらためて話をうかがって、「私小説を生きる作家」の意味がわかったような気がします。今日はありがとうございました。
(2008年秋 天童市竹蕎麦にて)
◆佐伯一麦(さえき・かずみ)
1959年宮城県生まれ。高校卒業後上京し、週刊誌記者、電気工などをへて作家活動に専念。1984年、「木を接ぐ」で「海燕」新人文学賞を受賞。90年『ショートサーキット』(現在講談社文芸文庫)で野間文芸新人賞、91年『ア・ルース・ボーイ』(新潮文庫)で三島由紀夫賞、96年『遠き山に日は落ちて』(集英社文庫)で木山捷平賞、2004年『鉄塔家族』(朝日文庫)で大仏次郎賞、そして07年『ノルゲ』(講談社)で野間文芸賞を受賞する。
主な小説としては『雛の棲家』(福武書店)『一輪』(新潮文庫)『木の一族』(同)『川筋物語』(朝日文庫)『無事の日』(集英社)、エッセイ集『蜘蛛の巣アンテナ』(講談社)『読むクラシック』(集英社新書)『散歩歳時記』(日本経済新聞社)、往復書簡『遠くからの声』(古井由吉との共著、新潮社)などがある。