
第14回は作家の大沢在昌さん。
プロの小説家として生きることの厳しさや心構え、そして電子書籍と出版界の未来について語ってくださいました。
◆小説家として生き残ること/書くことが大嫌い
4月の平山夢明さんの回『作家になること、そして喰い続けること』ですが、「いいタイトルでやりやがったな、こんちくしょう」と思いましたね。あれを先にやられると非常にやりにくい(笑)。けっきょく平山さんも同じことを言ったでしょうが、プロの小説家になりたいと思う人は、おおむね「小説家になる」ことが最終目標であって、そこから先を考えないんですよ。
デビューするとわかりますが、小説家にはピンからキリまでいろんな人がいます。歌手でもテレビや紅白に出る人もいれば、昔CDを出したきりという人までいるのと同じように、小説家もとても幅が広い世界です。なんのために小説家になるのかといえば、それは自分が書いたものをひとりでも多くの人に読んでもらいたいからですが、それなら世に知られなければならず、そして少しでも売れなきゃいけない。それらを全部ひっくるめて「食べていける」ということですね。小説家として生き残るというのは。そこまで考えないと、今はデビューさえ難しい。
松本清張賞という新人賞で選考委員をしていますが、やっぱり「こういう人ってもういるよね。本屋にあってもおかしくないよね」という程度の作品ではだめなんですね。今の時代は。昔ならそれでもとりあえずデビューさせて、何年後あたりにいいもの書くかもしれないという余裕が出版界にあったんですが、今はもうどこも体力はないですから、「才能あるけど、まだちょっとどうなるかわからない」ぐらいの人の面倒は見てやれないんですよ。
本も本当に売れないですから。収入は悲しいほど少ない。新人が一冊出したとしたら、印税はせいぜい70万円ぐらいです。一年も二年もかけて書いたとしたら、月収にして5万か6万の世界ですから、とても食べていけない。やっぱりそういうところを考えると、生き残るのがいかに大変かということですよ。
ところが専業でやらないと、なかなかいいものも書けないですね。ここが難しいところ。「田舎ならお金はかからないから」と地方で作家をやってる人も意外と伸びない。なんでかというと焦りがないから。地方にいて作家をやってると、なにか文学賞ひとつ取っていれば、地方文化人として地元のメディアに重宝されたり、テレビや新聞に引っ張り出されたりして、町では著名人だから「先生、先生」って言われて居心地がよくなってしまう。それだと今いる場所から先に行きたいと思わなくなってしまうんです。
はっきり言うと、欲が強くなければ小説家は大きくなれないですから。もっと有名になりたいとか、文学賞を取りたいとか、もっと金を稼ぎたいとか、そういう欲がないと、次の作品に向かうときに「頑張ろう」というモチベーションが生まれてこない。
書くことは本当に苦しいです。(会場の「小説家(ライター)になろう講座」の生徒たちに問いかけるように)みなさん執筆が楽しいでしょう? ぼくも大好きでした。でも今は大っ嫌いですから、小説書くの。書かないでお金貰えるのならこんなありがたいことはない。だから山形まで来てこうやって喋っているわけです(場内笑)。本当だったら家で原稿書かなきゃいけないし、はっきり言いますと家で原稿に書いていたほうが、今回の講師のギャラより稼げます。だけど小説書かないでお金もらえるならうれしくてしょうがないから来るわけなんですね。それぐらい商売で書くというのはつらいです。
◆不遇の時代/今を評価してほしい/フォアグラのガチョウのように
じゃあなぜ書くかというば、いろんな人に自分の作品を読んでもらいたい。それに「先生、すげえ!」って言われたい、お金ががばがば入ってほしい、おねえちゃんにモテたい、そういう原始的な理由からです。自分の名前が入った本が本屋にある。それだけで満足。ぼくにもそういう時代がありました。だけどそれだけじゃダメだということがぞくぞくと起きてくる。誰もぼくが小説家であると気づいてくれない。本屋さんに行ったら自分の本がない。当たり前ですよね、売れない本を置いてくれる場所なんてないですから。すぐ返本されてしまう。自分の新作が赤川次郎さんの本の台になっていたこともあります(場内笑)。
そんなの当たり前で、本屋さんというのは決まったスペースで売ってるわけですから、一円も利益をもたらさないような本を置くわけにはいかない。じゃあせめて台として使ってやるかってなもんですよ。赤川作品をどーんと立てるために、ぼくの本が積まれてあった。そういうのを繰り返していると、やっぱり「これではいかん、頑張らなければいかん」という気持ちになってくるんですね。たとえばこの講座から何人かがプロデビューをしたとする。そのうち一人だけが文学賞を取って、注文が殺到した。雑誌で華々しく取り上げられた。残りはシーンとしている。これが日常茶飯事なわけです。パーティなんかで「やあやあ」と酒を飲んでいても、周りの編集者とかマスコミの対応はまったくちがってくる。揉み手しながら「先生、お原稿を」と言われてるやつがいれば、いくら挨拶しても「あ、どうも」なんて編集者に冷たくあしらわれる。もうそういうのを何度も経験している。
そんな出版パーティーを想像してみてください。かたや大注目、あとは「あの人、誰だっけ」なんてことになる。そこをなんとかするには書くしかない。どんなにつらくても苦しくても、歯を食いしばっていいものを書くしかない。そういうつらい想いをするから書こうと思う。苦しいときに書くから、いいものができるんです。「クソ、見てろよ。おれだって。才能あるところ見せてやるんだ」って。だからすごいものがでてくる。たとえば足りないと言われた表現、自分には書けないと思っていた言葉がでてくるようになるんです。そういうモチベーションを作家は持っていなきゃならない。
私も三十一年やってきて、本を80冊以上だしました。文学賞もけっこうもらいました。こういう時代ですけど本もそこそこ売れてます。でもそれでいいと思ったら、来年の自分というのはもういないと思ってます。つねに今書いているものが話題になってほしい、売れてほしい。ただそれだけです。「おれ大沢さんの『新宿鮫』の大ファンなんです」と言われたら、「ありがとう」ってにこやかに応じるけど、心のなかで「20年前なんだけどなあ」って思う。先日出たばかりの本だったら悪い気持ちではしません。もっとうれしいのは連載中のものを「今、読んでます」と言ってくれる。それが一番うれしい。小説家というのはそんなもんです。まあいろんな作家がいて、「数年前に直木賞もらったときは」なんていつまでも昔にこだわる人もいるかもしれませんが、今を勝負してない人間の話は聞いたってしょうがないです。今の作品にするにはどうすればいいんだ。ぼくらはそれをいつも考えてます。
そういうこともあって、小説家としてデビューするのも大事ですけど、デビューしたあと、引き出しはどれくらいあるのか、どんなものを次に書けるのか。我々が新人賞の選考委員のときに考えるのは、「この人の作品はいいよね。でもその他にどんな世界があるんだろう」ということ。「この人、ひきだしありそうじゃん」って読んでわかる人と、「わかんないなあ、これ一本じゃないかな」という人がいる。それぞれ得意なジャンルは武器として置いておきましょう。それにプラスしてあとなにが自分は書けるのか。どんどんひきだしを増やしてください。それと同時に得意なジャンルも磨かなきゃならない。ものすごく無茶なことを言っているようですけれど、プロの小説家は、一ヶ月の間に何本もの作品を書かなきゃいけない。
ぼくは連載四本ぐらい持ってますけど、同時に書いています。月曜はA、火曜はB、水曜はC、木曜はDとやっていって、また一週間経ったらA、B、C、Dと書いていく。一年経つとAもBもCもDも全部一冊になっているわけです。そしてその途中で、関係のないイレギュラーな短編を年に四本ぐらい頼まれて書く。プロはこれをふつうにやっているわけです。「一本ずつやらせてください、今は別の作品を抱えてるんで、書けません」なんて言ってるようなやつはすぐに消えますから。仕事もらったら「はい、よろんでやります。書かせてください」って、今書いているものがあっても「それはそれでやりますから、こっちはこっちでやりますから」と。それぐらいができなければプロとして生き残れません。書かないやつはダメってのが基本です。最近、書くのが少ない人が増えてます。「ぼくは締め切りがあるものを書いたことがないんで書けません」なんて断る。そんなやつはとっとと消えてしまえとぼくは思います。電話が鳴ったらうれしい。20代のころはどんな締め切りだろうと受けてました。「原稿が落ちちゃったから、お前3日で80枚書けるか」って言われて、「なんとかします」と返事をして、それから3日徹夜して80枚書いて持っていったことも何回もあります。むしろそんなふうにして書いたもののほうが評価がよかったりするわけです。火事場のバカ力みたいなものが小説家ってのはでるんですね。そうすることで、その作家が持ってるキャパシティが広がっていくんです。もう書けないって思っていたのが、無理したらもっと書けた。じゃあ次はもっともっと書ける。そうやってどんどん広がっていくんです。だからすごく非人道的な行為で、なんだかフォアグラのガチョウのようですけど、無理やりつめこむとまだ入っちゃった、というような話で、それを繰り返して作家は書けるようになりますから。これがおれの限界だと思ったら、もうそこで終わりなんです。それはアマチュアの時代からそう思っていなければ、プロになったらもっと通用しなくなる。
◆電子書籍の時代/膨大なリスト/減っていく書店
これから電子書籍の時代にもなるなりますが、そうなるとどういうことになるかといいますと、だいたい街の本屋さんというのは本が8万冊ぐらいある。その8万冊のなかから、お客さんはどれを買って読むかというのを考えるわけです。しかし電子書籍の世界では100万冊、200万冊がぶわっとでてくるわけです。たとえば“あ”から始まったら、それこそ“あ”で始まる作家だけでたくさんリストアップされる。しかも時代などおかまいなしに夏目漱石や森鴎外などの文豪から、今の我々のを含めてそこのなかから、どれを買うんですかという話になってくる。それぐらいサバイバルが大変なことになるわけで、しかもそのうえ毎年新しい才能が出てくる。電子書籍であれば、古い作家の本は昔ならすぐに消えたでしょうけれど、今度はそのまま残る。電子書籍だから在庫管理がいらない。本屋さんの店頭とちがって、ずっとそのまま置かれているわけですから、ちょっと考えればそれがどれほどおそろしいかわかるでしょう。自分の書いた本を買ってくれるなんて、親兄弟以外にありえないんじゃないかってそういう気持ちになってくるはずです。でもプロの物書きってのは、その会ったことのない人に本を買ってもらうことで、生活を成立させているわけですから、自分になにができるのかを考えなきゃいけない。
けっきょくはプロの物書きは本を売るためには、書いたものがおもしろいかどうかに尽きちゃうんですよ。お金を使ってよかったと思わせられるかどうか。今日、ぼくの話を聞いた方は、全員とはいいませんが、「役に立つ話を聞いた。いい話が聞けた」と思ってくださると思います。ぼくはその受講料をもらって帰るわけですけれども、本はそうじゃない。買って読み終わらないと、おもしろかったのかわからない。電子書籍になれば、価格は今の半分から3分の1ぐらいで売られるでしょうから、おそらく500円前後になるでしょう。新刊で。売れないものはどんどん値段が下がる。それこそブックオフの均一100円じゃないですけども、去年ダウンロードがまったくなかったものに関しては、「今年から定価100円ぐらいににします」なんてのをアマゾンとかはやると思います。十把一絡げに安く売られる。それでも買ってもらえればいい。お客さんシビアですよ。100円だって買ってくれない人は買ってくれないんだから。舌もだしたくない。100円ぐらいいいじゃんと思ったって、膨大なリストのなかからでは、はるかに選ばれない確率のほうが高いわけです。本屋さんですらそうなんですから、電子書籍になったらどれだけおそろしいことになるか。
最近勘違いをしている人がいて、「電子書籍になれば、出版社通さないで直接売れるじゃん」と思ってる。たしかにやろうと思えばできます。ディストリビューターという配信業者に、たとえば一冊500円で売る。本の印税って10パーセントですから、500円の印税なんて一冊売れたって入ってきません。1500円のハードカバーが売れたって、ぼくらは150円しか入らない。紙の時代では150円しか入ってなかったのが、一冊500円売ったとしたら、すごく儲かることにはなる。またアマゾンなんかでは印税最大7割払いますって言ってるわけです。500円のものだったら、350円が著者に印税として入ってくることになる。紙媒体なら1500円の本を売っても150円しか入らないのに、直接アマゾンに売れば350円になる。じゃあたとえ本の売れ行きが半分だったとしても儲かるよねってそういうふうに考えるわけです。紙媒体なら1万部売れても150万円。電子書籍なら500円で売って、印税が350円だとしたら、半分の5000部の売上だって175万円になる。それなら儲かるじゃないかと思う人がたくさんいる。だから電子書籍になったら出版社いらない。おれは直接売るよ、読者に直接売ったほうが金になるよと。
でもそれは大きなまちがいです。直接売らなきゃ売れないような人は、はなから電子書籍でも売れない。年に10冊も売れればいい。出版社を通しても売れる人は売れる。だから直販してもいいんです。そのかわり宣伝してもらえればいいんだから。直販を自分でしたら、宣伝も自分でしなきゃならない。宣伝なんかできませんよね。けっきょく売れる人はさらに売れる。売れない人は100万冊、200万冊のなかのコンテンツに埋没してしまうわけですよ。それが電子書籍の時代です。8万冊しかない本屋さんでも目立って売るのが難しい時代に、この電子書籍の何百万のなかからどうやって買わせるか。考えるだにおそろしい時代だと思いませんか。やっぱりそれは買い手がその人の著書をみんなが知ってる。話題になってる、ドラマになってる、映画になってる。そういうきっかけがなければ、何百万のなかから浮かび上がれませんよ。それだけを考えても、いかに電子書籍の時代が作家にとってサバイバルがより厳しいことになるのかがわかると思います。出版社もそうです。本屋さんや出版社はおそらく3分の1ほどに減るでしょう。印刷会社や製本会社や取次ぎという問屋さんはもっと少なくなる。全体的に紙の業界の規模は3分の1にまで落ちていくだろうと思います。
しかしまちがってはいけないのは、編集者は絶対に必要とされるということです。コンテンツをつくる作家も必要とされる。物語は機械じゃ作れませんから。人がつくる。書いた物語をよりブラッシュアップするのが編集者の仕事です。そういう意味では作家と編集者は、電子書籍の時代がきても仕事が減ることはありません。ただし印刷や製本といった仕事はどんどん数が減っていく。いきなりゼロにはならないだろうけれど徐々に減っていく。ぼくの考えですけれど、最短5年で紙と電子書籍の比率が1:1になると思います。これはもっとも短く進んだ場合です。この場合、1:1になるということは、今1万冊でている紙の本の著者だったら、5千冊が紙で、5千冊が電子書籍になるかもしれない。あるいはもうちょっとちがって、7千冊が紙で、5千冊が電子書籍になるかもしれない。プラスすると1万2千冊です。当初1万しか読者がいなかった人が、1万2千になる可能性を持ってる。あるいは電子書籍でしか読まない人も出てくるかもしれない。こうした今までのマーケットには存在しなかった読者が出てくることを願ってます。
日本の景気が悪いから、出版界の景気が悪いと思っている人がいますけれど、日本の景気がたとえ戻ったとしても、出版界の景気は戻りません。このままいけばどんどん先細りしていく。唯一の可能性が、プラスになるかマイナスになるかわからないですが、電子書籍の出現なんです。本屋にとってはとても脅威で、自分たちが売っている本が売れなくなってしまうとおびえている人はたくさんいます。でも書き手にとってはあんまり関係ないですね。紙だろうが電子だろうが、売れればいいわけですから。だから本屋さんには大変申し訳ないけれど、このままいけば本屋さんの未来はかなり暗い。
だけど本屋さんにもできることはある。それは生身の人間が、生身のお客さんに接して売っている以上、そこでしかありえないコミュニケーション、情報の流通というものを本屋さんが入れていくことだと思うんです。そういうことを本屋さんがやる一方で、作家や出版社は紙だけでなくて、電子書籍の市場にもコンテンツをおろしていくことになるでしょう。
◆必要とされる評論家/小説の未来
じゃあ評論家の人たち。じつはこの人たちが一番大きな仕事が待ってる商売なんですね。100万ものコンテンツが電子書籍市場に広がっている。なにを読んでいいのかわからない。ハードボイルドって読んでみたいけど、そのジャンルだけでおそらく千も二千も出てくる時代に、どれを読んでいたらいいかわからない。そこをリードしてあげるのがプロの書評家たち。それぞれの評論家たちが、自分の意見やカラーでもって、読者という支持層を得ることができる。おれは池上冬樹が推す本が好きだ、おれは西上心太が薦めた本が好きだ。池上マークがついているのを読んでみよう、西上マークがついているのを読んでみよう。そういうふうに評論をやっている人たちが、マーケットとユーザーの間をつないであげられる。情報の発信をしてあげる。そうすることで評論家の存在意義というのはむしろこれからあがりますね。
今、週刊誌の書評をやったところで、正直、売り上げに影響することはほとんどない。だけど電子の場合ははっきりと商売につながる。数字で見られる時代がやってきますから。もちろんやたらに薦める人はダメですよ。「この人、1万冊も薦めてる」なんてのは誰でもできるって話だから。「これだ!」とお勧めをする人、それがまちがいない、当たりだってなれば、ハーメルンの笛吹きじゃないけれど、寄ってきますから。その人の言葉がある種のカリスマ性を持って、その人の薦める本を買うようになる。アマゾンで本を買うことがあると思いますが、アマゾンの商品を薦めた人に対して3パーセントぐらいのお金が入る仕組みになってます。本だろうが車だろうが家だろうが。まあ車や家はないでしょうけれど、たとえば西上心太のホームページからアマゾンに飛んだ。アマゾンで家を買った。そうすると家の代金の3パーセントが、西上心太の口座に振り込まれるようになってます。当然、アマゾンがやってる電子書籍のキンドルでも同じことが起きるんですね。キンドルでも百万冊の本を売っている。どれを買っていいのかわからない。そこでキンドルのソフトのなかに、西上心太のホームページや池上冬樹のホームページとかあって、そこのお勧め本としてあった『新宿鮫』をおもしろそうだなと思ってクリックして買った。そうすると『新宿鮫』の定価の3パーセントが、そのサイトの主の口座に支払われることになる。
だから池上冬樹や西上心太という評論家を何人が信じるか。これが電子書籍のときの選書ですね。本を選ぶという意味での大きなビジネスモデルになるでしょう。これだけいっぱいいろんなものを売っていたら、みんなどれを読めばはずれがないか教えてほしいと思いますよ。本屋だったら、本に触れて、表紙をながめて、パラパラと読んで、どれを買おうかと悩む時間がある。電子も最初の10ページ、20ページは立ち読みできるシステムになるでしょうけれど、表紙や装丁があるわけじゃない。著者の情報と立ち読みができるぐらいで、本当に当たりかハズレか、買ってみないとわからない。定価が紙にくらべると、500円とか300円とか、安いだろうから買うでしょうが、それでも「しまった」ということになるかもしれないので、そうならないためにも評論家が必要とされるんじゃないかなと私は思います。
電子書籍の時代がきたら、おそらく紙の時代とはちがうキャラクターを創造する書き手がでてくるんではないでしょうか。どういうタイプを書けば、電子書籍に向いているのか。これはまだわからない。たとえば車やバイクが出る作品だったら、パネルにタッチするとバイクの写真がポンと出る。カーチェイスなんかをすれば、舞台になった高速道路の地図が出ると。こういうおまけがたくさんつけられるような話が、電子書籍には向いているかもしれない。本来なら文章だけで味わせていたものが、音とか映像でもって感じさせられるようになったら、これはこれですばらしいものになるでしょう。
「これは小説じゃない」っていう人もいるでしょうが、一方で「これがいいんだ」という人も必ず世の中には出てきますから。そういうコンテンツを提供できる可能性を、これから小説家になる人たちは持っているわけで、そうしたことも頭の隅に置いててください。電子書籍の世界を構築する人間というのは、理系の人間ばかりですから、実際にその手の業者と話すと、小説というものをなんにもわかっていない。なにがおもしろいのかの判断基準も彼らにはない。小説なんてほとんど読まないですから。
一方でこういうものを書いたり、編集したりしている文系の人間には、こういう理系の、画が浮かぶとか、音や光がするとか、そういったアイディアは考えられない。そこをうまくつなげて、理科系のアイディアをぼくの小説でやっていこうかと、考えられる人間がでてきたら、電子書籍でベストセラーを作れるんじゃないかと思います。
(2010年6月遊学館にて)
大沢さんのプロフィールと講座の模様はこちらを参照してください。