
第26回は作家の村山由佳さん(聞き手は文芸評論家の池上冬樹さん)。今回は新作『放蕩記』(集英社)で描いた「母と娘」というテーマ、文芸賞にまつわるお話などを中心に、語っていただきました。
◆デビューした賞の選考員に就任/紛糾した選考会/新人に求められるもの
――村山さんは『天使の卵』(集英社)で小説すばる新人賞を受賞してデビューされて、それから18年を経て、今度は小説すばる新人賞の選考委員をつとめられてますよね。
村山 ええ、五木寛之さんと、阿刀田高さん、北方謙三さん、宮部みゆきさんと一緒に。小説すばる新人賞の出身者が選考委員になるのは、創設24年目にして初めてだということでした。
――それで、初めて村山さんが入ったのはいいんですけども、前代未聞の長時間の選考会になったらしいですね。村山さんがかなり粘ったと聞いてますが。
村山 でも、私だけ粘ったわけじゃなくて、皆さん粘られたんですよ(笑)。いやもう、いきなり丁々発止の長丁場でびっくりしましたね。二時間、ずっと激論でしたから。
最終選考作品にまでなってくると、どの作品もみんなそれぞれ、いいところがたくさんあるわけです。その中で何をポイントに「これを推そう」と決めるかと言えば、おそらく委員それぞれに「小説とはこうあってほしい」という理想があって、自身の理想に近いものには魅力を感じるはずだし、逆にそこを思いきり外している作品に対しては点が辛くなるわけですよ。
だからこそ、同じ候補作を読んでも、選考委員どうしで対立するということがあり得る。選考会の場にのぼってきた候補作を間に置いて、それぞれの小説観、世界観のぶつかり合いが生じてしまうという。そこは私としても、いくら今回から初めて加わったぺーぺーの選考委員だといっても、譲れないところは譲れないぞ、という鼻の穴のふくらんだ感じになってしまって(笑)。
――小説すばる新人賞の場合は、最終候補作が三本なんですね。三本と少なくて、まず最初に一本落とす。それで二本同時受賞とさせるか、それとも一本に絞るか。二本同時受賞のほうが、声が多く上がったんじゃないですか?
村山 途中まで、「それもまあアリだねえ」という空気ではあったんですけれども、小説すばる新人賞の場合、ここ最近ずっと何年も、二作同時受賞が続いていたんですね。最終選考に残った本数が三本しかないのに、そのうちの二本がずっと通ってきていた。もし本当に実力が拮抗していて、両方ともが同じくらいいい作品だと誰もが認めるなら、そう問題にはならないんでしょうけれども、今回は票が割れてしまって。それでずいぶん長引きました。
――結局、一本目はひじょうに出来もいいんですけど、もう一つの作品も、小説すばる新人賞らしい青春小説で、気持ちのいい作品だったんですか?
村山 気持ちがいいというよりは、青春の痛み、みたいな感じでしょうか。少女たちが、人生におけるひとつの真実を掴み取っていく過程での、成長の痛みとか代償のようなものが確かに書かれていたし、文章もこなれていて上手でした。ある意味、受賞作品よりも全体のバランスは取れているし、小説らしくまとまっていたんです。完成度は三作の中で一番でしたね。でも、私はそちらには票を入れませんでした。
なぜかというと、結果として受賞したほうの作品は、非常に大きく破たんしているところもあるんですけど、「自分にしか見えない世界、書けない世界を伝えてやるんだ!」というエネルギーがものすごく強く感じられたんです。作者が書きたいと願ったであろう「才能とは何か」というテーマが、ある程度きっちり書けているとも思いましたし、何か大きなものをねじ伏せてやろうという心意気がよかった。
一方で、もう一つの作品はとてもそつなくまとまっていて……これは私の印象ですけれども、今までの歴代受賞作と並べてみた時に、さほど見劣りしない程度にはうまく書けていると思いました。でも、いかんせん、どの美点もすべて平均点以内におさまっていたんです。破れたところもないかわりに、突出したところもない。似た雰囲気のものは小説でも漫画でもすでにたくさん世に出ていて、そのぶん、読み終えたらすぐに忘れてしまいそうな感じでした。そういう作品を、わざわざ新人賞として送り出す意味があるんだろうか、と。
何か一つでも、その人にしか書けない世界や使えない言葉、その人しか抱えていない痛み、なんでもいいんですけど、たとえ小説的な拮抗を崩してでも「これが書きたいんだ!」っていうエネルギーや思いが表れていれば、何をおいても応援してあげたくなるんですけどね。
◆先輩方にいただいた言葉/一に才能、二に才能、三、四は……?/特殊を描いて普遍に至る
――僕もいっぱい新人賞の下読みをやってますけど、編集者が求めているものは、平均的な上手い作家じゃなくて、作品に破綻があってもいいんですけど、とにかくその人の持っている力。なんというか……未知の才能を求めているんですね。
某賞の編集者はきっぱりと「うちはそういった出来合いの無難な作家は欲しくない」と言っています。本当に書ける、今は書けなくても、書けるんではないかと思わせる力がある作家、そういう作品を選んでくれと。やっぱり個性が欲しいんですよね。
無難にまとまっている小説はいっぱいあります。でもそういう作品は全然、読んでいてつまらない。これ何回も書いて、あちこちに応募しているんだろうなと。何回も応募していればね、だいたい平均的にうまくなるんですよ。今は賞が多いので、「あっちに落ちるとこっちに応募してきた」という例が多いんです。評論家連中はみんな横のつながりがありますから、情報を共有しているので、あまり作品はあちこちに流さないようにしてほしい(笑)。すぐにわかりますから。いくら賞を獲ったって、本になった場合に評論家が「これ、あれで読んだ作品ですね」って言った瞬間に、編集者の顔が真っ青になっちゃうんですよ。本人は「応募してない」とか言うんだけど(笑)。たいていどっかに応募してますし、だいたい評論家は読んでますから。嘘はやめましょうという話ですね。
でも逆に言うと、村山さんは自分の個性や才能って、どういうふうに感じてますか、書いてて。
村山 私は長い間、「個性」という部分がコンプレックスだったんですよ。第六回の小説すばる新人賞をいただいた『天使の卵』にしても、選考委員の方たちはいったいあの作品のどこに、突出したものを見いだして下さったんだろうと考えても、ずっと長いことわからなくて。
当時の選考委員は、いまと同じ阿刀田高さんと五木寛之さん、それに田辺聖子さん、渡辺淳一さんの四名だったんですけれども、五木さんが選評に書かれた言葉が、何というか、私にとってはキョーレツで(笑) 「驚くほど凡庸である」、とお書きになったんですね。そう、驚くほど凡庸だけれども、ふつうはなかなかそこまで徹し切るということはできないものだ、と。尖った才能というのはほどほどのもので、鈍さはその上をゆく才能だ、これを伸ばしていけばこの作家は一家をなすことが出来るかもしれない――というようなことを書かれていたんです。最初読んだときには、「何もそんな持ってまわったイヤミを言わなくても」って思ったんだけれども(笑)。
あとになって、他の作品もいくつか書いた後で、ある時もう一度その選評を取りだして読んでみたら、ふっと、これはもしかしてものすごく大きなはなむけの言葉だったんじゃないか、と思うようになって。五木さんがおっしゃったのはつまり、私自身の本質が「あらかじめ中庸である」ということで、それは多くの読者の人たちとつながることができると強みでもあるんじゃないか、と。そう思ったんです。
とても特殊な世界を、特殊な感覚で書いて、天才と呼ばれる人たちもいます。すごいことだとは思うけれども、じゃあその人たちが多くの読者を獲得して、多くの人の心を動かせるかというと、それはすこし難しいことかもしれない。でも、私はといえば本質的に中庸なので、人が感動するものに私も心を動かされるし、書きたいものを書いただけなのにみんなが読みたいものだったとか(笑)、それこそが私自身の持つ強みなんじゃないかな、と思うようになって。
デビューから三年ぐらいたった頃でしょうか、五木さんと対談させて頂いたときに、「あのとき選評に書いて下さったのはこういうことなのかなと思って感謝してます」と言ったら、すごく喜んでくださったんです。「君がそれをわかってくれたとは、嬉しいなぁ」なんて言って下さいました(笑)。
――昨日ちょっと「せんだい文学塾」の方でもお話ししましたけど、その前に瀬戸内寂聴さんからも言われたんですよね。
村山 私ひとりが言われたというわけではないんですけど、ちょうど私が小説すばる新人賞を頂いた年に、すばる文学賞のほうの選考委員で、授賞式のスピーチをなさったのが瀬戸内さんだったんです。間近で瀬戸内寂聴さんを見るのは初めてだったので「うわー、本物だあ、袈裟着てる」とか思って(笑)、ドキドキしていましたら、瀬戸内さんがにこやかに怖いことをおっしゃったんです。「作家というものは、一に才能、二に才能、三、四がなくて五に才能です。あそこの隅っこに座ってらっしゃるお嬢さん(村山先生のこと)も、あんなにのほほんと健康そうなのにいったい何が悲しくて小説なんか書くのかしらと思うけれども、きっと彼女は彼女でやむにやまれぬものがあるのでしょう」というふうなお話をなさって。
先ほど言いましたように、渡辺淳一さんも私を選んでくださった選考委員の一人なんですけど、その渡辺さんは二次会の席でこうおっしゃいました。「さっき瀬戸内さんはああ言っていたけれども、僕はね、僕よりも才能があったのに消えていってしまった人をたくさん知っている。だから、一に才能、二に才能ぐらいは本当かもしれないけれども、三と四は体力や運かもしれないよ。それも含めて、才能ってことなんだ。だから君は、体も大事にしなきゃいけないし、小説的な体力や心の強靭さも身につけなきゃいけない」。そうおっしゃった後で、「特殊を描いて普遍に至るのが文学だよ」とおっしゃったんですよ。
瀬戸内寂聴さんの「作家は才能がすべてです」という厳しい言葉と、「特殊を描いて普遍に至るのが文学だ」という言葉とが、それ以来ずっと、時々ぴしりと鳴るムチみたいに、私の心の中にありますね。そういう境地を目指せたらいいな、というふうに思います。
◆家族のかたち、小説のかたち/支配者と被支配者の関係/放蕩息子と放蕩娘
――新作『放蕩記』の348ページにも、主人公で女性作家である夏帆のお父さんが、娘に「ふつうのことをふつうに書くのは誰にでもできる。けど、ふつうでないことを書いてなお、読んでる人に共感してもらおうと思たら、そのほうがずっと難しいのんと違うか。お前が書きたいのんは、そういうものやろ」という台詞がありますね。
この作品の中では、主人公とお母さんにずっと葛藤の歴史がある。そういう、一家族の話ですね。その一家族の話を、別な作品として主人公は書きまして、ある大きな文学賞を獲りましたと。これは『星々の舟』(文春文庫)のことですね。それを書いたとき、読者から「そんな家族はない」と言われて。
村山 読者というか、評論家の方からだったんですけれど(笑)。ひとつの家族のなかで、こんなにも一人一人がそれぞれに事情を抱えてるなんていうのは不自然だ、こんな家族があるわけない、というようなことを実際に書評で書かれたことがあるんです。でも、それを読んだとき、ええーそうかなあ、と思って。家族のことって、みんな、みっともないことは隠すから外には表れないだけで、本当はいろんな秘密を抱えてると思うんですよ。あるいは、自分ではそれが普通だと思いこんでいるけど、他人が聞いたらドン引きするほど変わってたとか。そんなのをいっぱい抱えているのが家族で、どこもみんなそれぞれに特殊だと思うんですけどね。
――そういう家族が抱えているややこしい話が、実はこの『放蕩記』にも書いてあると。これは母親と娘の話ですね。主人公は作家で、その母親は家庭内では絶対君主として、権力をふるってるんですけど、外面がよくて、他人にはにこやかなんですけど、娘さんはひじょうに苦労してきたと。なぜこういう話を書こうと思ったんですか。
村山 本の帯に「半自伝的小説」とあるんですけれども、「この『半』ってどのぐらいの割合か」とインタビュアーの方から聞かれるんですね(笑)。主人公には妹がいることになっていて、その話もいっぱい出てくるんですけど、私自身には実際には妹はいないんです。兄が二人いるだけなんです。ですから、作中では四人兄妹になっているけれども実は三人兄弟であるとか、あるいは今いっしょに暮らしているパートナーが七歳年下と書いてあるけど実際は九歳年下だとか(笑)、彼との出会い方がちょっと違うとか、そういうことは小説的な事情であちこち変えてありますけれども、本質的な部分、とくに母と娘に関して書いたところは多くが実際にあったことです。私自身と母の間のいろいろな出来事をもとに、幼少期の頃からこんなふうに母は育ててくれた、でもこんなことを言った……ということを、現在と過去とを行き来しながら記憶をひもといていくうちに、新聞連載350回ぶんの長編になっていた、というわけなんですけれども。
そもそも、なぜ書こうと思ったかというと、実は数年前に『ダブル・ファンタジー』(文春文庫)を書いたとき、すでに「母の娘」であるというふうな部分は出てくるんですね。『ダブル・ファンタジー』では、主人公の脚本家の女性は、夫の支配から逃れられずにいる。夫はおもに言葉で彼女を支配するんだけれども、それを「週刊文春」で連載している時に、担当編集者から言われたんですよ。「じっさいに殴る蹴るの暴力を振るわれているわけではないのに、なぜこの主人公は、夫の言うことをこんなに気にして従うんでしょうね」って。
私は「えっ!」って驚いちゃって。「それって普通じゃないの?」って聞いたら、「普通じゃないですよ」って。「どこに原因があると思いますか?」と訊かれて、そこで初めて考えてみた時、もしかすると……と思ったのが、私と母親の関係だったんです。母が支配者で、私は常にそれに従う立場。とにかくいっさい反抗することは許されずに従う、そうでなければ罰が待っている、という形の関係だったわけですが、結婚した後も、支配者が夫に代わっただけで、私自身の立ち位置は何も変わってないんじゃないか、と。相手に判断を全部ゆだねることで罰を免れているような関係です。ということは、「私は未だに『母の子ども』のままなんじゃないの?」というふうなことに、そのとき初めて気がついたんです。でもその話は『ダブル・ファンタジー』の中でオマケ程度に書くことはできなくて、やっぱり、作品を改めて向かい合うべき大きなテーマだと思いました。
それともう一つ、母が数年前から認知症になって、私の小説を最初から最後まで通して読めなくなったんですよ。そのことでものすごく解放されたんです。母が読まない。つまり、何を書いても母に叱られることもなければ、母を傷つけることもない。そうなったときに、書けることがものすごく増えて、そういう自分にびっくりしました。そうでなかったら、『ダブル・ファンタジー』以降の私の作品は生まれていないと思います。
ただ、今回の『放蕩記』についてはとにかく、作品そのものが母から受けた仕打ちへの復讐のような、つまり、その作品を書くことが母への仕返しみたいなことになるのだけは、絶対にいやだったんです。どんなに救いのない、ひどいことを書いていても、最終的にはどこかもっと高いところに到達できるような小説でありたいな、というふうにも思いました。
――読むと分かるんですが、途中から、認知症にかかっているとだんだん分かってくるんですね。記憶を失っていく母親を見ていて、逆に娘が失われた記憶を甦らせる役目を担っているんですね。それで小さいときからの話がいろいろ出てくるんですけども、いやあ、すごいというか、素晴らしいというか。すごい体験をしているし、ひじょうに記憶が生々しくて、素晴らしく書かれていますよね。言ってはなんですけれど、とても嫌なお母さんではあるんですけども、教え方も非常に的確で、文章を書くときのたとえ話なんかいいですよね。
村山 ありがとうございます。小さいころから、母が私に、文章の書き方の手ほどきをしてくれたんですね。小学校の絵日記が宿題に出ると、「『今日は』で書き始めたらアカンで。日記やねんから今日に決まったぁるがな」とか、「もっとこう、カギカッコで始まるとか、意外な始め方をしてみ」とか、姑息なテクニックを教えてくれるわけです(笑)。あるいは、「喩え」というものはどういうものかということを教えてくれたときには、私がヒメリンゴの花をさして、桜の花みたい、と言ったら、それじゃ駄目だと。「花を花にたとえるのは喩えとは言わへん、面白うない。もっとほかに考えてみ」と言われて、子どもなりに必死で考えるわけです。で、木蓮の花を見て「小鳥が枝にとまってるみたい」って言ったら、とたんに「うまい! ようでけた! さすがはお母ちゃんの子や!」って握手をしてぶんぶん手を振り回してくれるんですよ。ふだんはなにしろすごく厳しい母だから、褒められるとよけいに嬉しいし、晴れがましいんですね。すべてがそんな感じでした。私に「書く楽しみ」「書く喜び」を教えてくれたのは母だったし、その一方で、私を追いつめたのも母で。でも、今になると思うんです。ほめるばかりで追いつめてくれなかったとしたら、たぶん私は物書きになってないんですよ。両方の意味で、なんだかんだ言っても、母が私をつくったんだなという、いや~な諦めの境地ですね(笑)。
――読み進むとわかりますが、この家では、お父さんがなかなか帰ってこない。それで、お母さんがいらいらしていると。その理由がだんだんとわかってきて、またお母さんが変わってるんですよね。娘に、両親のセックスの話をする。
村山 高校一年生ぐらいの娘にね、父親の浮気について克明に話すんですよ。父が外でどういうことを覚えて帰ってくるかとか、そういう自分たちの性生活について、赤裸々に話すんです。愚痴の中で……。
何しろ小学校からずっと女子高に通っているようなおぼこな娘でしたから、なかなかそういう話というのは聞きたくなくて……まあ普通そうですよね、両親が男と女であるというふうなことは、十代の娘としては親の口から聞きたいわけがないのであって。でも、お構いなしでした。そういう意味で、ほんとに、「オンナ」をむき出しにしている母だったんですね。
――性というのは汚い、いやらしいものである、罪であるという、そういった意識があって。主人公の夏帆も、性というものに対して、毛嫌いというかそれを疑うんですけど、同時に、誘惑といいますか、だんだん惹かれていく。
村山 つまり、母親から見えないところで、母親が禁じたことや忌み嫌うことをわざとしてみせることが、彼女への復讐のようになっていく……というふうな、ちょっと屈折した感じになっていくわけです。
――『放蕩記』というのは、そういう主人公の、放蕩というほどでもないと、僕は思うんですけど、精神的な放蕩ですかね。肉体的な要素ももちろんあるんですけど。
村山 そうですね、いわゆる、ものすごくグレたりとかっていう、わかりやすい放蕩ではないのだけれども、とくに性に関してですね。母が禁じたことをするのが母への精神的な反抗になっていくという。
このなかに、聖書の放蕩息子のたとえが出てくるんですね。キリスト教においてはとても有名なたとえ話です(※新約聖書ルカの福音書第15章)。ある兄弟がいて、兄はお父さんに一生懸命に仕えている。弟は放蕩ばっかりしていて、自分の貰った全財産を食いつぶして、ふらふらになって後悔して帰ってくるんですよ。けれどお父さん、つまり神様のことなんですが、放蕩を尽くした弟を許して、抱きしめて、喜んで迎え入れてやるんです。「よくぞ帰ってきた」と。彼のために羊をつぶしてパーティーなんか開いちゃったりして。それを見て、今まで真面目につかえていた兄は、自分がこれほど一生懸命に仕えていても羊なんかつぶしてくれたことがないのに、どうしてですか、と父親につめ寄るんです。すると父親は、「死んだと思っていた息子が帰ってきたのだから、喜ぶのが当たり前ではないか」と兄をたしなめる。ある意味とても理不尽だけれど、でもそこには大きな許しがある。そういう話です。
私にとっては、正直言って、許しのもとに迎えてくれる家というのがなかったんですね。母は、相手の罪を決して許そうとしない人でした。ゆうべ、仙台に単身赴任している兄のところに泊まったら、兄がちょうど『放蕩記』を読み終えたところで(笑)。その兄自身も、この本を読んで初めて家族の歴史に整理がついたと言いました。「ここに書かれているのはお母ちゃんそのままだよな」って。兄は私の十歳上で、当時はもう就職したり結婚したりで家を出ていましたから、あのころ家の中で起こっていたことを見ていなかったし、あの家に私だけを残して自分は逃げたという罪悪感がある、と言っていました。
兄にとっても私にとっても、家は帰れる場所じゃなかったんですね。そういうところを含めての『放蕩記』なんです。
◆「母という名の恐怖、躾という名の呪縛」/芸術家肌だけど芸術家になれない悲劇/アダルト・チャイルド
――別に離婚とか、家族が死んだり、そういった悲劇はないんですけど、それでも歴史という言葉が出るくらい波乱万丈。ひじょうに精神的なものですよね。ちょっと特殊なことを描いているけれど、普遍的なもの。誰もが味わう、子どもと親との関係ですよね。そういった苦労に至っている。帯に「母という名の恐怖、躾という名の呪縛」とありますが、これはうまいですね。これを書かれては、書評家はもう何も書けない(場内笑)。
村山 母が、神だったんですよ。さきほどの放蕩息子のたとえでも父親はつまり神ですけど、あれは新約聖書なので許す神なんです。でも私の母は、旧約と新約でいうなら旧約の神だったんです。旧約の神というのは慈悲がないんですよ。で、わけもなく相手を試すんです。私も兄もつねに母への愛情を試されてきたし、確認されて、それでダメだと罰せられる。例外はいっさいなし。そういう意味で、つねに母の顔色を窺わなくてはならないという、そういう家ではありましたね。
――「放蕩の果てに向き合う家族の歴史、母親の真実。女とは、血の繋がりとは」この物語には謎があって、だんだん後半で謎が解けていくので、ここでは言いませんけどね。うまくできているし、まあそれが本当かどうか……とにかくびっくりですね。お母さんはずっと関西弁なんですけれど、最初は関西弁じゃなくて標準語で書き始めたそうですね。
村山 母はじっさいに関西弁なんですけれども、書き始める前には迷ったんです。「母と娘」の普遍的な物語を書くつもりなら、関西弁じゃないほうがいいかな、と。実際の母を対象として突き放して書きたかったし、関西弁という個性にキャラクターがあまりにも寄りすぎるのは楽をすることになっちゃうかな、と思って標準語で書いてみたんですけど……だめでしたね。私は、あの母の関西弁の言葉で支配されていたので、それはもう諦めて書ききるしかない、と。そうして私の母という特殊な人間をありのまま書くことを決めたときに、主人公の職業も「じゃあ私自身と同じ小説家にしよう」と開き直りました。じつは、この仕事を十八年間やってきて、これが初めてなんです、小説家を主人公にするのは。
――(小説の冒頭を朗読してみて)それにしても、このお母さんのキャラクターがいいですね。比喩の使い方とか。感覚がいいんですね。
村山 この間、この作品を元に、とても久しぶりに五木先生と対談させて頂いたんですけど、やっぱり、いま池上さんがおっしゃったのと同じように、「このお母さんはチャーミングだよね」って。その後で、「でも、芸術家肌だけど、芸術家ではない。この人の抱えている悲劇は、芸術家肌ではあるけれども、芸術家にはなりえない女性であることだね」と。もし、世が世なら何者かになれるような人であったならば、家庭の中で、これほどものすごい嵐が吹き荒れるようなことはなくて、ちゃんと別の表現方法を見つけてたかもしれないんですけど。女優であれ、作家であれ、何かになっていたら。なんでしょうね、自分が女優だと思いこんでいる女が家のなかにいる、という感じで、なかなか強烈だったんですよ。
――主人公はだんだん小説家として地位が上がっていくんですけど、それでもやっぱり、母親は「自分が書いたほうが上手いんじゃないか」とか、「作家になっていたんじゃないか」と言いますね。
村山 「お母ちゃんは何をさせても上手かったんやで」みたいな。私のことを褒めるときだけは、「さすがはお母ちゃんの子や」というんですけど、気に食わないところは「あんたはお母ちゃんの子やない、お父ちゃんの子や」って(笑)。ちっちゃいときからそうでした。
――だんだん思い出していくと、実は自分もやっぱり母の血を受け継いでいて、虚構とか、演技のタイプとか、骨の髄まで母親の演技ぐせがしみついている。そういった、いろいろなところで自分は母親の血だと。
村山 母に似ているところを自分のなかに見つけると、母を嫌いな分だけ自分のことも嫌いになっていくという。昔から、自分を認めてやるというのがとても難しかったですね。ゆうべ兄と話してたんですけど、何よりしんどいのは、「自分はこの人を正しく愛しているんだろうか、愛ってこういうものでいいんだろうか」ということを、いちいち疑わなくちゃいられなくなってしまったことだよね、って。つまり、母の私たちへの態度は、愛情のお手本にはならなかったんです。すべてが演技に基づいていた。そのせいで、私が今、たとえば男性なり友だちなりに感じている愛情も、「これ、愛なの?」「これでいいの?」と、いつもいつも考えてしまう。それぐらい、トラウマといえばトラウマなんでしょうね。困ったことではあります。
――そういえば昨日うかがって驚いたんですが、前の結婚生活が十何年あって、破局する二週間前まで手をつないで寝ていたそうですね。手を握るというのはやっぱり確認なんですか。
村山 たぶん、そうなんでしょうね。でも、別居する二週間前までは手をつないでいたのに、ある日突然ダメになっちゃうと、もう同じ寝室に入ることもできないというようなことが起きました。確認や安心だったのかな。何しろ正しい愛し方というもののイメージというかひな形が、自分の中に無いもので、何べんも何べんも確認してしまうんですね。それは今でも……今は新しいパートナーと暮らしてますけれども、やっぱり、これでいいんだろうか、これで伝わってるだろうか、あるいは相手からもっと伝えて確信させてほしいとか、そういうところはまだまだ私自身、アダルト・チルドレン的なところがあるなと思います。
◆作品どうしのつながり/母と娘の神話/言葉にならないものを言葉に
――『ダブル・ファンタジー』と『放蕩記』は、「血の繋がっていない双子」という感じじゃないですか。
村山 そうですね、血の繋がっていない双子なのか、血の繋がった他人なのか(笑)。とても不思議な感覚なんですけど、同じ根っこから派生してきた二つの物語です。『ダブル・ファンタジー』のほうが、官能の世界を遠慮会釈なく書いたということからいえば、『放蕩記』の中には、そういうシーンは必要最小限しか出てこないんです。そういう意味では全然違うんだけれども、やっぱり繋がっていると思いますね。
――笑ってしまったのは、女子高校生のところで、同性愛みたいのがあるんですけど、それが何年か経って、大学生になると「夏帆が女装してる!」と言われる。あれは面白いですね。
村山 あれ、実話です(笑)。この主人公の鈴森夏帆も、同じ大学へ進んだ友だちに言われるんですよね。高校生までの間はとても男っぽく振舞って、女の子の恋人を持って、そういう中でこそ初めて母親から解放されて自由になれる、という感じだった。それが大学に進んで、初めて男性と恋をした夏帆が女性らしい格好をしていると、高校の時のことを知っている友だちがそれを見て、「鈴森が女装してる!」と言う。女性なのに(笑)
――あの表現で一気にわかりますよね、その世界がどういう感じだったのか。そういった点も非常によく書けてますし、読み応えがあります。ぜひ皆さんお読みください。
村山 さっき山形の八文字屋書店さんでサイン会をさせていただいたんですけど、もう読んでくださった方もいて。「うちの母と自分の関係にあまりにも似ていて、もう笑うしかありませんでした」とおっしゃる方がいらしたり、妙齢のご婦人が、「母はもう亡くなっているのに、いまだに許せないんです」とおっしゃったり。
そういう意味では、『放蕩記』に描いたのはとても特殊な母であるにもかかわらず、それでもやはり母と娘という意味で、どこかには感情移入してもらえるところがあるみたいです。何より、これを書いた私自身が「こういうふうに読まれたらいいな」と思うのは、「母と娘」ってほんとうに微妙で、娘の側は「私は母を愛していない」っていうことを、ものすごく言いにくい空気が世の中にあるんですね。
「父と息子」だったら、父と訣別することによって息子ははじめて一人前になれるみたいな、そういう通過儀礼としての神話がちゃんと用意されているんですけど、娘が母を捨てるとたちまち「悪い娘」になってしまう。そういう、社会があらかじめ娘を規定する不自由さがあって。そこが、「母と娘」の問題が表に出てきにくいことの、ひとつの原因だと思うんですけどね。そういうふうな事情で、これまでは「母を愛せない」「許せない」と言えなかった人たちが、あるいは「あっても、なかったことにしよう」と自分で思ってしまっていたような人たちが、この小説を読んで「ああ、自分だけじゃないんだな」と感じて、少しでも心慰められてくれればいいなと思います。
――この主人公の妹が、いわゆる「普通の主婦」で、「普通」のことを、「子どもを産んで幸せになる」っていうことを言うんですけど、それに対して「違います」と言う。
村山 「普通」って何だよ、っていう話ですよね。
――子どもができない幸せもある、と。ラストは本当に泣かせますから。感動的な作品です。愛情が溢れてるのかというと、いや、愛情はないですという。
村山 ええ。母への情はあるけど、愛はないかもしれません。愛せるものなら本当に愛したかったし、愛させてほしかったです。とても切ないですね。
――でもそこがね、やっぱりチャーミングでね。いろいろ、嫌なお母さんだなと思いつつもやっぱり、可愛いんですよね。
村山 そう言って頂けるのは嬉しいですね。もし本当にそういうふうな人物として書けていたんだとしたら、この作品が、決して復讐の書にはなっていないということなんじゃないかと思って。それはとても嬉しかったですね。
――この作品で、一番苦労したことは何ですか。
村山 一番は、やっぱり対象との、あるいは自分自身との距離のとり方ですかね。自分の身の上にひじょうに近いことを書きながら、でも、あったことをそのまま書いたのでは日記になってしまう。日記にせずに、ちゃんと虚構として成り立たせるためにはどうすればいいんだろう、ちゃんと小説として読めるものにするためにはどういう距離のとり方をしたらいいんだろう、という点でしょうか。
――でもこれを書いたら、周りからいろいろ言われますよね。
村山 言われますよねえ。うちの家族には、「今回の本だけは知り合いに薦めないほうがいいよ」って言っておきました(笑)。お父ちゃんの浮気も、娘の放蕩も、何もかも全部ばれちゃうよ、って。
――やっぱり『ダブル・ファンタジー』で腹をくくったんですかね。
村山 そうでしょうね。ただ、『ダブル・ファンタジー』のときには、「自伝的なものです」っていうふうには謳っていませんでした。でも、この『放蕩記』に関しては、帯にもう「半自伝的」と謳っている。それだけに、逃げたくなかったですね。母のことや父のことをこれだけ赤裸々に書くのであれば、私自身の放蕩のことを黙っているのはフェアじゃないと思って。小説家は嘘をつくのが仕事ですけれど、今回は、自分を守る嘘だけはつくのをやめようと思って、正直なことも書きましたけれども。本当だったら言いたくないことなんですけど、でもそれで作品が良くなると思うと、結局書いちゃいますね。
『放蕩記』というタイトルは最初から頭にありました。林芙美子さんの『放浪記』(1930年)にちょっと重ねてみて。あれも女の一代記ではありますし。
今度「婦人公論」誌上で対談することになっている、信田さよ子さんという心理カウンセラー、臨床心理士の方がいらっしゃるんですけど、その方が『母が重くてたまらない』(春秋社)という本をお書きになっていて、その中に「重い母の3パターン」みたいなのがあるんですよね。一つめは、「あんたはダメだダメだ、だから私がついててやらないと」っていう形で支配をする母親。二つめは、「あなたはすごい、でもそのあなたを育てたのは私なのよ」という、いいとこ取りで支配する母親。三つめが、「あなただけは私を捨てないわよね」と同情を買って、自分を被害者にしながら支配する母親。なんと、うちの母親は、全部あてはまるんですよ(笑)。
でも、全部にあてはまる母を『放蕩記』の中に書いたことで、たぶんその3パターンのどれか一つでしかない母親を持つ方であっても、どこかには感情移入をなさるんだろうな、と。そういえば、これまで書いてきた小説の中で、インタビューに来て下さる方それぞれが、「うちの場合は……」って自分のことを語り出すというのは初めての体験でしたね。私自身の話か、作品についての話を聞いてくれるのがインタビュアーなんだと思うんだけど(笑)、なぜか私が聞き手になっちゃう。どうやらこれは、「読めば自分を語りたくなる小説」みたいです。
――講座前半のテキスト講評では、「人間の心の裂け目」ということをおっしゃっていましたが、もう少し具体的に教えていただけますか?
村山 お話を頭で考えてしまうと、こういうときに人間はこうする、だからこういう行動をとりました、というのが、三段論法みたいにトントントンってつながってしまうことが多いんですね。
だけれども人間って、皆さんも経験があると思うんですけど、「どうしてこんなことしちゃったんだろう」とか、たったひとつの予期せぬ出来事があったがためにとか、本当はこうするべきなのに「あのひと言のせいで」とか、なかなか予定通りにはいかないものじゃないですか。他人が理解し得ないようなことを引き起こしてしまったり。そういう瞬間が、人間の心の中ではいっぱいあると思うんです。
「こういうことをすると結果としてこうなるよね」っていう当たり前の話を書いたとしても、誰の心も動かさない。だけど、小説を読んだときの感動とかカタルシスっていうのは要するに、今まで自分のなかでモヤモヤとしていた疑問とか感情を、はっきりと言葉にして言い当てられる快感なんじゃないかと思うんです。「これなのよ!」と。「そうだよ、自分にもこれと同じような瞬間があったよ」とか、「ずっとワケのわからなかったあれはつまりこういうことだったのね」って、名前をつけてラベリングをしてもらうような。そういった部分が鮮やかで深い小説を読むと、激しく心を揺さぶられるし、よく作品を評して言われる「人間が書けている」というのは、そういうことだろうと思うんですね。
人の心の闇や裂け目に鋭く切り込んで書こうと思うと、やっぱり普段から、人間のかかえるワケのわからなさに対して、自覚的でいなくてはいけないんです。普通とは違うことを自分がふっと考えてしまったときに、「なんでこんなことを考えたんだろう」と突きつめて考えるクセをつける。
私はさっき、たまたま最初のご挨拶で、ここへ来る峠越えのバスの中から遠くの山々や谷底の美しい景色を見て、いったいどうしてこんなに切ない気持ちになるんだろうと思った、という話をしましたよね。「ああ、それはきっと、世界の全ての美しいものを知るには、この人生は短すぎるっていうことなんだな。だからこんなに泣きたいような気持ちになるんだな、と思った」と。それは、じつは今日初めて私の中で言葉になったことなんです。美しいものを見て悲しい気持ちになったことはこれまでにも何度もあったのに、言葉に翻訳できたのは初めてでした。これは私にとっては新しい発見だと思って、それでご挨拶のときにその話をしたんですけれど。
たとえば、「そんなことはもうとっくに知ってるよ」という方も、きっといらっしゃると思いますけれども、何でもいいんです。どんなことでもいいから、あることを言葉にできた瞬間、つまりはっきり知って納得できた瞬間を、できるだけたくさん覚えて、自分の中に蓄積していくようにするといいんじゃないかと思います。それこそ、人の心の裂け目としか言えないような普通じゃない部分や、なかなか表現しにくい混沌としたことを言葉に置き換える技術は、そういったふだんの訓練の積み重ねを経て、初めて身につくんじゃないかなと思います。
人は、名前のないものや、言葉で説明のできないことを理解することができないし、そういうものを恐怖したり遠ざけたりします。小説を書くというのはつまり、言葉にならないものに一つひとつ名前を付けていく作業なんだろうと思います。
――いい話ですね。これは今回のトークのテーマになりました。今日はありがとうございました。
【 講師プロフィール】
◆村山由佳(むらやま・ゆか)氏
1964年 東京都生まれ。立教大学文学部卒。
学習塾講師や有線放送アナウンサーを経て、1993年に『天使の卵-エンジェルス・エッグ』で第6回小説すばる新人賞を受賞し、本格的な作家活動に入る(なお、同作は2006年に映画化された)。2003年に『星々の舟』で第129回直木賞、09年に『ダブル・ファンタジー』で第22回柴田錬三郎賞、第16回島清恋愛文学賞、第4回中央公論文芸賞をトリプル受賞する。
『おいしいコーヒーのいれ方』シリーズ、『BAD KIDS』『翼』『遥かなる水の音』『アダルト・エデュケーション』など著作多数。恋愛小説の名手として、中高生から大人まで広く支持されている。 千葉鴨川での自然派生活、都心や墨田での暮らしを経て、現在は軽井沢在住。
http://www.sakuranbo.co.jp/special/narou/039.html(村山氏による講座の模様はこちらに掲載)