その人の素顔
大沢在昌(小説家)×池上冬樹(文芸評論家)対談
「ひとつの材料を食材として、いろんな料理法、いろんな味付けによって無限のバリエーションが作れる」
2016年07月27日
 第77回は小説家の大沢在昌さん。キャリアについての考え方や、「食材と料理法」にたとえた物語の作り方、作家と編集者の関係などについて、幅広くお話ししていただきました。


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◆赤いベストの憂鬱/これまでの20年、これからの20年/書きたいものを書く、ということ
 

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――実はですね、大沢さんと僕は同じ年代なんです。僕が1955年の10月生まれ、大沢さんは1956年の3月生まれ。ということは同級生で、なおかつ、去年から今年にかけて2人とも還暦を迎えたわけです。大沢さん、どうですか還暦を迎えてみて。
 
大沢 ええとですね、すごくイヤだったんですけど、編集者がお祝いのゴルフコンペをやってくれたときに、赤いちゃんちゃんこじゃないけど、ベストをくれてね。まあ暑いからすぐ脱いじゃったんだけどね。
 簡単にいっちゃうと、これから先、街でネクタイしてるやつらはみんな俺より年下だってことだよな、っていう。まあ重役とか社長さんは別だけど、みんな定年でいないわけですから。こいつらみんな俺より若いんだな、と思うとねえ。老けた顔してやがんな、と思っても若いという、その一点。
 それから、まあ60歳というと、もう秒読みですよね。こういう生活してるからあと20年も生きられるかどうかわからないけど、まあ頑張って、仮に生きられて20年でしょう。そうすると、残る20年なんて一瞬で過ぎるわけで。20年前、私は40歳でしたけど、それからの20年って一瞬で過ぎたような気がしません? 現実に、直木賞をもらったのが37歳で、それからは怒涛の如く時間が過ぎて、もう締め切りをやっつけながら飲んでゴルフして釣りに行って、おねえちゃんと遊んで、っていうのをずっと続けて、気づいたら60歳。なので、残る体力で何ができるかと考えると、こういうとき私は本当に小説のことは何一つ考えない人間なので(笑)、あと何人おねえちゃんと仲良くなれるかな、とかそういうことしか考えないんですよ。残された時間っていうのは、僕にとっては残された遊びの時間なので。仕事のことは考えないですね。仕事をなんとかしたいとか、そういうことは思ってない。なんでかというと、僕にとって小説を書く仕事っていうのは終わりがないんです。小説家っていうのは死ぬまで小説家ですから。そうすると、生きてそこそこ本が売れ続けるかぎり注文は途切れないんです。でも、どんな作家だって死んだ瞬間、みんな締め切りは抱えてるわけで、運が悪ければその締め切りがクリアできないで死んじゃう。絶筆とか遺作とかいわれるのはそういう作品です。そうでなければ書き上げて、書き上げればまた次の締め切りがくるわけで。

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 ぶっちゃけ、本屋さんに本が並ぶときっていうのは、その本の原稿を書き終えてから、どんなに短くても2ヶ月以上は経ってるわけですよ。下手すりゃ1年ぐらい経ってる。だから、いま「新刊が出ましたね」とか言われたって、その新刊がどんな内容で、書いてるときどんな苦労をしたかっていうことより、いま現在書いてるものに頭が行っちゃってるわけです。いま現在書いているものを、どうしたらもっと面白くできるのかとか、そういうことしか考えてない。おそらく死ぬ瞬間までその繰り返しになるのが、小説家という職業ですから、みなさん「小説家になりたい」と思っていらっしゃるでしょうけど、よく考えてみてください、けっこうキツイ仕事ですよこれ。定年がないからずっとやれるし、収入ももちろんその間は入ってきますけど、終わりがない。自分でもう「引退」と決めちゃえばいいですけど、引退したら当然、彼ら(編集者のほうを眺める)は僕とこんなふうに遊んでくれないわけで。当たり前だよね、俺が引退したら付き合うメリットは何もないんだもんね。だって、原稿を1枚も書いてくれない作家となんで付き合うのさ。せいぜい別荘に行って楽しむぐらいしか使いみちがないわけだから、そう考えると作家って死ぬまで作家なんですよ。
 ということは、先のことは考えてもしょうがない。ずっとこれから、たとえば5年後に書くものとか10年後に書くものとか、考えてないです。いま書いてるもの、そのことしか考えてない。
 
――でも、いろいろ注文は来るわけですよね。狩人シリーズを書いてほしいとか、佐久間公ものの新作はまだかとか。
 
大沢 そういう注文は来ますけど、無視。いま書きたいものを書く。なぜかというと、書きたくないものばっかり書いてると、書くことに倦(う)んじゃうんですよ。そうすると、スランプみたいなのも来るかもしれないし。だからやっぱり、いま書きたいものを書く。そのことしか考えてないです。
 
◆ラストスパートは「膝を前に出せ」/5年後、そして10年後/流行作家ってこんなもの?
 

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大沢 じゃあ今書きたいものを全部書いて楽しいか、というと楽しいわけはなくて、1個の小説だって楽しいときと楽しくないときがあって、だいたい書き出すときは楽しくて、どんどん先に行くにつれて楽しくなくなってきて、もうあと100枚ぐらいで終わりだなと思うと、すごく楽しくない状況になってくるんだけど、そこを一生懸命、まあつぎはぎして終わらせるわけですよ。若いときは、残り100枚ぐらいでゴールが見えてくると、逆に馬力が出て、があーっと書けたんだけど、最近はやっぱり年齢ですよね。僕も100冊ぐらい本を出してますから、その馬力のラストスパートが「またこの一山を登るのか、つらいなあ」と思うけど、この一山を登んないと小説が面白くならない、ってことがはっきりしてる以上は、駑馬(どば)に鞭打ち登るわけですよ。
 私は毎日ウォーキングを1時間から1時間半ぐらいやってるんですけど、まあそれは別に仕事のためじゃなくて、ゴルフの飛距離が落ちるのがイヤだからっていう理由なんだけど、そのときにも、登り坂になるとね、「歩こう」は思わない。昔の帝国陸軍じゃないけど「膝を前に出そう」って考えるの。膝を前に出せば、自然と身体も前に行く。膝を前に出せ、膝を前に出せ、っていうことは小説を書くのと一緒で、「今日はつらいな」と思って、「この物語をどう締めこんで、どう形作ってやろう」というときに「わかった、今日はお前5枚で許してやるから、5枚だけ書け」って、僕は自分に言うんですね。その5枚は、とにかく何があっても書く。それを書き終えたら、明日も5枚書く。
 昔に比べると本当に1日の枚数は減っちゃいました。昔は普通に1日20枚は書いてました。多いときは30枚書いてましたから。それが当たり前で、週刊誌の連載原稿ってだいたい15~16枚なんだけど、1日で書いてた。だいたい2時間か2時間半ぐらいで書けてたんですよ。それがいまは全然書けなくて、本当につらいときは、いま言ったみたいに15枚を3日かけて書くこともある。いまでも1日で書くことはできますけど、まあ2日ぐらいに分けて書くかな、無理するとくたびれちゃうからね、って、そういうときはちょっと自分を年寄り扱いしてあげて、その分、外に行ったときは若いふりをするというところでバランスを取ってるんですけど(笑)。

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 仕事に関しては、とにかくいま書きたいものを書く。書いていて楽しくなるもの、まあ最初だけなんだけど、でもまあ楽しくなりそうなものを書く。それを続けて、まあ注文がなくなっちゃえばそれはもう終わりなんだけど。正直、5年後はまだ注文があるような気がするけど、10年後に注文があるかなんてまったくわかりませんから。編集者の彼らだって、いまはこうやって来てくれてるけど、10年経ったら、道で会ってもあいさつもしてくれないかもしれない(笑)。だいたい編集者の仕事はそれですから。とくに部長ぐらいになるともう切ることが仕事みたいなモンだから、「いいんじゃない? 大沢さんってもうたいして本も売れないし、うるさいだけで金ばっか使うし」って、そういう話になりますから。だから、書いてて楽しいものを書く。そして、書き続けるモチベーションというのは、書くことで収入を得られるわけですから、そのモチベーションは遊ぶことなわけで。それはゴルフであったり釣りであったり、酒場へ行くこともそうですけど、それに対して自分が興味を失わない。気持ちを持ち続ける。それが自分の気持ちを若くすることでもあります。
 これはね、みなさんとは違います。なぜなら僕は職業だから。むしろみなさんのように、ほかの職業を持ちながら小説を書いている人たちは、職業を続けていくことのモチベーションが、たぶん小説を書くことなんですよ。私にとっての、ゴルフや釣りや酒場で遊ぶことと同じで、みなさん小説を書くのがすごく楽しいはず。小説を読んだり、小説のことを考えたり。これは間違いない。僕だってそうだったから。それは当たり前なんです。小説家になるまでは、小説を書くってすごく楽しいんだから。小説家になっても、何年かは楽しい。何年か経って、売れなくてもたぶん楽しい。売れてくると、ちょっと苦しくなる。すごく売れると、すごく苦しくなる。そういうことです。でも、そうなりたくてみんなやってるはずです。僕自身もそうでした。すごく売れたかったし、売れっ子になりたかった。締め切りに追われる真似をしてみたかった、若いころは。いまは締め切りがなきゃいいのに、と思うけど、締め切りがなかったら当然、原稿なんか1枚も書かないわけで。

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 だから結局、幻想を追っかけてるんだよね。流行作家になりてえな、と思ってた時代があって。自分がアマチュアのときから、作家になりました、けど流行作家はとても無理、と思った時代が。で、ちょっと売れて、流行作家っぽく扱われるときがあったけど、これじゃねえよな、もっと流行作家って楽しかったはずだよな、って思いながら、でも現実にはあんまり楽しくなかった、っていうね。でも、作家っていうのはやっぱり、すごく欲が深い生き物なんで、もっと認められたい、もっと褒められたい。それはどういうことかというと、もっと本が売れてほしいとか、もっと、たとえば文学賞とかそういう評価をしてほしいとか、終わりのない飢えがあるんです、自分の中に。
 もっとみんなに褒められたい、もっと「素晴らしい」って言ってほしい。誰でもいいから褒めてほしい。だけど、だんだん褒められなくなるんですよ、歳をとってくると。居るのは当たり前みたいになっちゃって。そうするとみんなやっぱり、編集者も評論家も、若手の作家に行くじゃない。いまだったらもう柚月裕子さんサイコー、みたいな話で、「週刊ポスト」だって「美人作家」なんてグラビアに出ちゃって、なんだこれと思いながら、しかも俺のコメントまで入ってんじゃねえかよ、と思って(笑)ムカっと来たりしてね。そういうことだったのか「週刊ポスト」、みたいな話でね。
 でもね、誰でもこういう旬の時代が来るときはあるの。これがなかったら寂しい。だからね、吉村龍一さんも、それが来るように自分でしないとダメなの。でなかったら、作家としてデビューした意味がないから。プロになったら、旬を迎えるべく努力をするしかない。で旬が来たら、幸せだけどよくよく考えてみたらもっと楽しかったはずじゃないのか、こんなに苦しかったのか旬って、と思うのが作家という職業ですよ。
 
◆ネタ帳を見ながら思い浮かべる/暗がりの中のメモ/食材、料理法、味付け
 
――いま40歳のころからずっとやってきた話をされましたが、でも、40歳のころは書きたいものを書けるわけではなかったですよね。求められるものを書くこともあったでしょう。
 
大沢 いや、でも僕は書きたいものしか書いてないですよ。だから『新宿鮫』もそんなに書いてないのは、書きたくないから(笑)。『絆回廊』を出した2011年にもここに来ましたけど、もうあれから5年経ちましたけどまったく書いてないし、書く予定もないんですけど、それは書きたくないから。
 
――書きたいもの、って変わってきましたか。
 

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大沢 それはそのときそのときの感覚ですよ。別に、何が書きたいかというのは、そのとき何となく書きたいなと思ったものを書き出すことが多いので、本当に何も考えないでやってますから。下手すると、次の連載なんて、スタートの1ヶ月前まで何を書くか決めてないですから。タイトルを決めるのが締め切りの2日前とか、そんな世界ですからね。
 
――さっきの講評では「ネタ帳を作りなさい」とおっしゃってましたが、ご自分でもネタ帳は作られるんですか。
 
大沢 それはありますよ。思いついたことを書いてる。で、本当に連載スタート直前になってもアイディアが思い浮かばないときは、過去のネタ帳を引っ張り出してみるんだけど、これやったら俺ももう終わりだな、と思いながらやってるね(笑)。さすがに、そこで見てるうちに、そうではないネタを思いつくので、何となくつないでつないで、いままでやってきた感じですね。
 
――昨日は、姉妹講座の「せんだい文学塾」で堂場瞬一さんをお招きして、「次々に作品をうみだす原動力」というテーマでお話をうかがったんですけど、大沢さんもいろいろ生み出さなければいけない中で、どのように作品をご自分の中で生み出されるんですか。ネタはどのような状況で思いつくんでしょうか。
 
大沢 基本的に、ストーリーを思いつくときっていうのは、ほぼ僕の場合は決まっていて、ひとりで、苦しいときは締め切り直前に机に向かって、落書きをしながら作るし、余裕があるときは、夜に仕事場で酒を飲んでぼんやり考え事をしてると、ぱっと思い浮かぶ。その「ぱっと思い浮かぶ」というのは、かならず「ぱっと」思い浮かぶわけではなくて、思い浮かんだ材料を頭の中でくちゃくちゃいじってるうちに、ババババッとものの数秒で全部ができちゃうときってあるんですね。「俺、天才じゃん」ってそのときは思うんだけど(笑)、それを急いでメモんないと忘れちゃうんだよね。でも、酒を飲んでるくらいだから部屋は暗いわ、音楽はかかってるわで、メモ帳はそこらじゅうにあるんだけど、とりあえず明るくするのがイヤなので、薄らぼんやり半分夢見てるような状態のまま、頭に浮かんだことを全部メモっておこうとするので、当然、暗い中で殴り書きをして、翌朝に見ると半分ぐらいしか読めなかったりするときがあるんだけど、そういうときにババババッと思い浮かんで書けた作品が、全体の3分の1から半分ぐらいですね。
 で、そうじゃないと、今日いよいよ何か考えないとマズイぞ、っていうときに机の前に座って、何を考えるかというと、僕の場合は作品の形を考えるんですね。
形っていうのは何かというと、前もこんな話をしたかと思うんですけど、料理にたとえてみましょう。
 
(ホワイトボードに板書をする)
 
 
(食材) (料理法) トンカツ
 
和風 豚しゃぶ
 
中華 角煮
 
豚肉 炒め
イタリアン ソテー
 
 
 たとえばこんな感じで、まず「豚肉」という食材があったとする。それを和風に料理するのか、あるいは中華か、イタリアンか。とりあえずこの3つ、やり方があるとする。で、和風の中でも、トンカツにするか、あるいは豚しゃぶにするか。中華だったら、角煮にするのか、あるいは、何か料理学校の授業みたいになってきたけど(笑)、野菜と炒め物にするのか。イタリアンだったら、たとえばソテーするとかね。ソースはオリーブオイルとにんにくに唐辛子を入れて、トマトをぶちこんで、というような。こういうのがあるわけです。
 
◆小説の「和・中・伊」/ネタを中心に形を作る/インプットの多さが引き出しになる

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大沢 では、この料理を小説に置き換える。和風の小説、中華風の小説、イタリアンの小説。これはどういうことかというと、たとえば和風というのは、わりとしっとりしてて、あまりアクションとかそういうのがなくて、人間関係の情緒だとか、会話だとか、そういうものでじっくり読ませる。
 中華っていうのはアクション主体で、敵と味方がはっきりしてて、見せ場の激しいドンパチシーンがある。
 イタリアンっていうのはお洒落な感じ。会話が粋で、男女の機微みたいなものが出てきて。
 じゃあ、この食材というのは何かというと、さっきの講評で取り上げた佐藤さんの『亡夫のお年玉』でいうと、年賀状が遺言状になる。これがネタですよ。これがまさに食材なんですね。じゃあ僕が、年賀状で遺言状が届く話を書こう、とする。では主人公をどうするか。佐藤さんの作品では、ヒロインは、自殺した男の奥さんだと。じゃあ、俺が仮にヒロインの享子を書くとしたら、その設定をどうするか。これは主人公なので、長篇を読む間、読者に思い入れを持ってもらわないとしょうがない。そうすると、享子を最初から悪人としては書かない。でも、この物語を引っ張っていくためにはどうするか。
 まず享子は、旦那さんが結婚して10年で自殺しちゃいました。なんで自殺したかわからない。会社の経営もそこそこうまくいっていた。借金はあるけれども、首が回らないというほどではなかった。ほかに愛人がいるという気配もなかった。優しかった。ちょっと小心者でケチなところもあるけど……ここは佐藤さんが作ったキャラを借りてるんですけどね。そういう人だった。でも自分には優しかった。この2人には子どもがいない。子どもがいないことに対していろいろあったにせよ、10年経ったいまは幸せに暮らしている。
 で、旦那が自殺した原因がわからない。これがたとえば、自殺したのが12月25日、クリスマスだとしましょう。ここがヒントになる。12月25日に死んだ。年賀状は1月1日に届きますよね。でもまだ、年賀状が遺言状として投函されたことを主人公の享子は知らないから、この、12月25日から年賀状が届く1月1日までの7日間が、この物語を読ませる動機になるわけです。
 ということは、ここでひとつの形ができる。まず、ヒロインが旦那の死の謎を解く。それから、7日間というタイムリミットサスペンス。しかもこれは正月の話だから、いろんなものが暮れでばたばたしてて、情報がなかなか集まらなかったり、あるいは何かをしようとしたら役所がもう閉まっていて、29日、30日、31日と何もできない。そういう中で、ヒロインの享子は一生懸命、旦那の死の謎を解こうとする。そして、彼女は義理の弟であった貴志とデキちゃっている。このことも、最初のうちは出さない。旦那が死んでいろいろあって、たぶん25日に死んだら、その日は長い1日ですよ。たとえば、この7日間の話を1日100枚ずつに分けて書くとしたら、最初の1日は100枚どころか120枚ぐらいになる。この、最初のパート1では、貴志と享子がデキちゃっていることを書かない。ただ彼女が巻き込まれて、旦那の死にアタフタする。そして、意地悪な孝子姉さんが出てきて、過去にこんな因縁があってあれ以来うまくいっていない、みたいなのを書く。まあ俺はあんまりそういうのが好きじゃないから書かないけど。

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 そして、ようやく2日目の12月26日。出張していた貴志が帰ってくる。で、奥さんの目を盗んで会いにきてくれる。「大変だったね」と、そこで初めて、ふたりが実はデキてたということが明らかになる。これは読者にとって驚きになるし、ここで、タイムリミットサスペンスで、年賀状のトリックが食材になって、あとは和風でいくか中華でいくかイタリアンでいくか。じっくり書くだけとは限らない。アクションだってある。旦那が、実は闇金から借金があったとする。そんなはずはないのに、どうして闇金なんかに金を借りてたのか。「奥さん、旦那さんにはあなたの知らない顔があったんだよ」、そういうのが出てきちゃう。で、貴志が彼女をかばう。これはアクションに持っていけますね。
 あるいは、イタリアンにするんだったら、ちょっと旦那さんを悪者にして、義弟の貴志はすごくいいやつで「やっと私は大人の恋を……」みたいな話に持っていくこともできる。
 これがいま言った、材料と料理法の話なんです。ここでは佐藤さんの話を借りちゃったけど。申し訳ない、いいネタだったからね。僕が書き始めるときは、こういうふうにして、長篇小説を作っていく。いま即興で作りましたけど、こういうことです。「じっくり読ませる」とか「アクション主体」とか「お洒落に読ませる」というのは、別にどうにでもできますから。なんでできるんだ、と訊かれたら、山ほど本を読んできたからだ、としか答えようがない。山ほど本を読んできて、山ほど書いてきたし。あるいは、もっと言えば、あの映画のあのテイストもいいんじゃない、だとか。ちょっと乾いた感じで書いてみよう、ちょっとウエットな感じで書いてみよう。映画だっていろんな映画があるように、古いハリウッド映画のようにちょっとウエットな感じで書くのか、あるいは現代風に、乾いた感じでいっちゃおうか、とか。あるいは韓国映画みたいに、とことん残酷に突き詰めて突き詰めていっちゃうのか、とか。いろんな料理法、いろんな味付けがあるので。それを組み合わせると、ひとつの食材だけど、いろんな料理法で物語は無限に作れちゃうわけですよ。それが、小説家のテクニックです。こういう感じで、僕は作っています。

――ありがとうございます。だけど、こういうふうに小説のバリエーションを考えるって難しいですよね。そのためには、たくさんの映画や本から吸収することが必要なので、基本的には本をいっぱい読みなさい、ということになるんでしょうけど。なかなか、いまの若い人って本をあまり読まないんですよね。さっきの講評でね、M・ナイト・シャマランの映画の話が出ましたけど、僕はいま仙台の女子大で非常勤講師をやっているんですが、学生にシャマランの代表作であり、どんでん返しの名作の『シックス・センス』を観たことがあるかと訊いても、「それ何ですか?」って感じですよ。もう昔の映画は観ない。

 
大沢 あれが「昔の映画」なんだ(笑)。
 
――彼女たちが小さいころの映画ですからね。そういうふうに、影響を受けた作品も若い人たちは少ないと思いますけど、大沢さんは、ご自分が影響された作品のバリエーションって考えますか。
 
大沢 それはありますよ。テイストでぱっと思いつくのは小説よりも映画だったりします。小説の場合は文体だったり世界観だったり。たとえばエルモア・レナードの、会話が粋で、活き活きしていて、現場で生きてるやつらの会話でぽんぽんやり取りが続く、あの感じがいいな、とか。あるいは、最近はあまり知られなくなっちゃったけど、ロス・トーマスの粋な会話の感じとか。小説って文字ですから、どうしても、会話とか文章からくるイメージですよね。映画だと、やっぱり映像ですからね。
 
◆強い女たちの物語/書きたかった決め台詞/史上最強のヒロイン
 
――大沢さんはわりと男性的な作家としてのイメージが強いですけど、実は女性が主人公にしたほうが面白いのではないかという(笑)。僕は『ライアー』(新潮社→光文社カッパ・ノベルス)がすごく好きなんですが、続篇はないんですか。
 

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大沢 いまは何も考えてないです。『ライアー』っていうのは、読んでない人のために言うと、主人公は主婦で、母親なんですよ。で、冒頭シーンは、上海に家族旅行に来る。上海のスモッグを見て、息子がぜんそく持ちなので心配だわ、私この街好きじゃないわ、って言う。そういう場面から物語は始まるんだけど、そのあと彼女は何をするかというと、上海にいる日本の暴力団幹部を殺すんですね。クスリを飲ませて具合悪くして、中国マフィアとメシを食っていた幹部が部屋に帰ってくると、そこに仲間と待っていて、眠り込むのを待って、風呂場へ連れてって、わざと外れやすくしてあった扉から落として、殺す。それを淡々とやるんです、主人公は。子どものぜんそくを気にした後にね。で、終わって出てくると、様子がおかしいのに気づいたボディガードのやつが入ってくる。中国マフィアもいっしょにね。で「お前は何だ」と言われると、「私は外務省の人間で、書類を届けにきたんです。この書類が……」と言いながら、バッグからピストルを取り出して顔をバーンと撃ち抜く。そういう場面から物語は始まります。いったい彼女は何なんだ、というね。
 
――かっこいいですよね。
 
大沢 まあけっこう好きですね。でも、あれも本当にオチが大変だったんですよ。彼女はもともと政府の暗殺機関の人間で、殺しの本能を持っている。初めて人を殺したのは小学生のときという人で、彼女の才能を知った上司にスカウトされて、全部ニセの身分、ニセの学歴で、そして、人を一度も愛したことがないまま、大学教授をやっている夫と結婚するんです。夫には愛着はあるけど、愛情は息子にしかない。ところが、その夫が焼死体で発見されるんです、新宿のラブホテルで。それも、正体不明の娼婦らしい女と。絶対にそんなことはないはずなので、彼女はその原因を探り始めるんです。
 
――冒頭の設定、シークエンスの連続が実にすばらしい。で、引っ張っていく謎もすごいし、主人公の情と冷酷、冷たい気持ちと息子への愛情。そのコントラストもいいですね。
 
大沢 まあ、最後に彼女は夫がなぜ自分を愛したかを知り、そして死んだ夫を本気で愛する。夫は絶対に自分の正体を知らない、と思っていたんだけども、という話です。これ以上言うと買ってもらえないかもしれないからやめておくけど(笑)。
 まあ、最後のオチというところでは、暗殺機関の話なのでどうしても手垢のついた展開になるなと思ったので、さっき言った味付けの部分でいうと、アクションよりもむしろ人間関係を読ませるっていうか、真の愛情というものを、殺しの本能を持って人を愛さなかった女が、最後に気づく、という設定を書こうと思ったのが、この『ライアー』。「週刊新潮」にずっと連載していた小説です。
 
――その前の作品も、女性が主人公の小説ですよね。
 
大沢 ああ、『冬芽の人』(新潮文庫)ですね。これは逆で、主人公は捜査一課の刑事だったんだけど、決して優秀ではなかった。ただピストル射撃がうまくて、オリンピックの候補だった。でも自分はあんまり好きじゃなくて、お飾りとして女刑事でいて、上司の先輩刑事と一緒に、ある強盗殺人の容疑者のところに聞き込みに行って、その容疑者が上司を突き飛ばして逃げた。その上司が階段から落ちて頭を打って、こん睡状態になってしまう。そして結局、退院することなく死んでしまう。その件で彼女は警察を辞めて、いまは普通のOLをやっているんです。そこから物語が始まります。
 彼女は、その亡くなった上司が自分に愛情を持っていたのを知っている。男女の関係はなかったけど言い寄られて困っていて、むしろセクハラに近い状態だった。応えずにいたらその上司が死んでしまい、その奥さんからなじられたりもしていた。その彼女が、命日をずらしてその上司の墓参りに行く。そこでひとりの大学生と出会う。それが、その刑事と離婚した奥さんとの間にできた息子で、なんとその男の子に、彼女は恋をしてしまうんですね。
 
――大沢さんの小説というとみなさん『新宿鮫』のハードボイルドなイメージが強いかもしれませんが、実はこういうしっとりした、情感に満ちた作品もけっこうあるんですけど、ご自分でもこういう、しっとりとした作品もお好きなんじゃないですか。
 

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大沢 好きですけど、イライラしてくるんですよね、書いているうちに。とくに『冬芽の人』の場合は、しずりっていう主人公が、残りの人生を一本の線で生きる、と。色のないモノクロの人生で私はいいんだ、とずっとうつむいて、トボトボ生きてる子なんですよ。だからもちろん、刑事であったことも会社では誰にも言ってない。ハイミスの状態で、ハイミス仲間とカラオケに行っても自分はあまり歌わない、みたいな。ところが、刑事の先輩が死んだ事件にからんで、どうやら隠された謎がある。警察も、捜査ミスを認めることになるからその謎には触れようとしない。その状況の中で、彼女は捜査せざるを得なくなる。これは、彼女に元オリンピック候補という立場を与えたので、最後は当然、銃撃戦に持っていくんですよ。彼女はいやいやピストルを手にするんだけど、沖縄から来た殺し屋に、これは言いたかった。「私は決して外さないから、もう撃たないで。もうやめて」彼らが撃とうとすると、全部ババババッて撃っちゃう。クソッ、って撃ち返そうとすると「もうやめて。私は決して外さない」。そりゃ元オリンピック候補だからね。それで、ヤクザがガクッとなる。そのラストシーンを僕は書きたかったんですよ。かっこいいでしょ?
 
――ラストシーンまで言っちゃった(笑)。でも、小説講座らしい話をすると、どうしても男性の書き手は男性の話、女性の書き手は女性の話になりますよね。性別を越えて、納得させられる話を書くコツみたいなものはあるんですかね。
 
大沢 コツですか……。切ない思いをすることしかないんじゃないですか、女性で(笑)。もう、女の人の気持ちをひたすら考えてるってことですよ。だから、台詞なんか自分で口にしながら書いちゃってるから(笑)、けっこう気持ち悪いなと思うときがあるね。仕事場ではひとりだから、誰もいないからいいけどさ。「(裏声で)私は決して外さないから」とか言いながら書いてるのって、けっこう気持ち悪いよね(笑)。
 でも、わりとそうなっちゃうんだよね。気分が女性になっちゃって、完全に女の人の気持ちになる。さっきの講評でも言ったように、登場人物の立場になって行動を考える、っていうのはそういうことなんで、ただ名前が女になって外見が女になっただけの主人公ってのは、やっぱり興味ないんですよ。やっぱり物語の中で、なぜヒロインはこういう行動をとるのか、そして、たとえば最後の勝負に向かうときどうするのか。そういうことを考えて、女性になって書いていくというのは、楽しいですよね。女になった気分、もうひとつの性になれる、っていうのは。

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 僕が一番好きなのが、『魔女』シリーズ(文藝春秋)に出てくる水原っていう、めちゃくちゃ男前な、半端じゃなく怖い女がいて、男の怒りは理屈だけど女の怒りは理屈じゃないから、私はあなたのことを嫌いだから、って殺しちゃうみたいな女なんだけど、それが女だ、っていうのがはっきりしてて、しかも美人で、平気で人を利用するし、自分の身体も使うし、でもはっきりしてる。自分の生き方を決して曲げない。あのヒロインを書いてるときは、史上最強だろうと思って書いてて、めちゃくちゃ楽しいです。しかも親友がオカマなんだよね(笑)。オカマとヒロインのやり取りがね、本当に書いてて楽しいの(笑)。
 
――『魔女の笑窪』『魔女の盟約』『魔女の封印』と3作ありますね。4作目の計画はあるんですか。
 
大沢 いや、まだないです。結局、いろんな派手な敵を出しちゃったからね。『魔女の盟約』で、朝鮮系中国人と韓国人と在日朝鮮人の、いわゆる民族マフィアが日本を支配しようとしてるのを、なんと女ひとりで潰す、っていう壮大なスケールの話を書いちゃったので、今度の敵はどうしよう、と思って、出てきたのが「頂点捕食者」という、人間じゃないようなのを『魔女の封印』で書いちゃったんでね。こうなると、次の敵はもうエイリアンぐらいしかなくなっちゃうので(笑)。さすがに、さっきの講評で言った「作品のルール」を逸脱しちゃうので、厳しいですね。
 
◆敵役と恋人役が重要/設計図を書くより、物語を膨らませる/『男は顔で勝負する』
 
――やっぱり、冒険小説・ハードボイルドの読者としても、書き手としても、敵の存在っていうのは難しいですよね。
 
大沢 まあやっぱり、敵役と恋人役ですね。男の主人公なら女だし、女の主人公だったら男だし。その恋人役、ヒロインなりヒーローなりだけど、それが魅力的じゃないと、小説ってやっぱりふくらまないじゃないですか。だから変な話、主人公なんて何百枚か出てくれば、なんだかんだ言って読者の中に何らかのイメージはできるんですよ。たいしてちゃんと書いてあげなくても。ところが、敵役とかヒロインはちゃんと作ってあげないと、やっぱり読者の心に届かない。これは言っておくけど、ミステリだけの話じゃないですからね。時代小説であれ恋愛小説であれ、必ず、敵役であったり、恋人役というのは出てくるわけですから。それが熱烈な恋人なのか、ほのかな想いを寄せている恋人なのか。敵役にしたって、殺しをするような敵役から、会社の中でちょっとライバルになっているような関係まで、いろいろあるけど、いずれにせよそういう存在っていうのは、みなさんの人生にもおありになるように、必ずありますから。そこを一番に考えないと、小説って面白くないんですね。

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 だから、さっき言ったように、僕が苦しいときは机の前でひねり出すときにまず考えるのは、主人公のキャラクターと、敵役のキャラクターと、ヒロイン・恋人役のキャラクター。それを考えると、さっき言った「材料」は適当に仮決めしておいて。キャラクターさえ作ってしまって、ある程度材料がそこで、さっき言った年賀状の遺言状みたいなのができれば、それでもう枠はできた。じゃあ味付けはどうする。じゃあ中華でいこう。そう決めたら、もう書き出しちゃいます。あとのことはあとから考えればいいや、とわりと大雑把なタイプなんで、それで書いていくうちにどんどん話は変わってきちゃうし、膨らんでくるし。
 設計図をきちんと決めて書いちゃうと、その設計図を消化することにどうしても気持ちが行っちゃうので、物語が膨らまないんですよ。だから考えないで書く。もちろん、結果として「バカ野郎!」みたいな話になっちゃって、こりゃ本にできねえわ、とボツにしちゃったのも何冊かあります。つい最近も、20年前に書いてボツにしたやつを、トミー(KADOKAWA 富岡薫氏)が掘り出してきて「面白いから本にしましょう」って言い出してね。イヤだ、って言ってんのに、ゲラにして持ってこられて、読み返すとまあさほど悪くないんだけど、一番の問題は、20年前の作品だから携帯電話とかインターネットとかないんですよ。それを全部足していかなくちゃいけない。これはキツイな、と思いつつも、でも材料として悪くはないんで、どうしようかな。たぶん、書き足して本にするのかな。でも、書いたときは「こりゃダメだな」とボツにした長篇です。そういうのが、僕の中で何本かあります。
 
KADOKAWA 富岡氏 『男は顔で勝負する』というタイトルの連載で、読んでる方がいらっしゃるかどうかわかりませんが……。
 
大沢 いやいないでしょ。あれはデイリースポーツっていう関西のスポーツ紙に連載したやつだから。これはね、主人公は顔がすっごい怖いやつなんですよ。でも本当は心優しいところがある。で、顔がすごく怖いもんだから、人を脅したり、殺し屋の演技をしたりして、アンダーグラウンドの世界でちょっと小銭を稼いでる男なんだけど、そこにある弁護士がやってきて、要は、ナニワの狂犬と呼ばれている有名なゆすり屋がいて、主人公はそいつと瓜二つだったらしいのね。で、東京の黒社会を支配してた、有名な恐喝屋がいて、ありとあらゆる政治家や財界人の弱みを握っていてお金を取ってたのが、死んじゃうんですよ。で、彼が持ってた恐喝の情報を、遺産として誰かに渡す。子どもがいるんだけどそいつはマトモに育ってるから。そうすると、それを役立てられるのは同じような業界の人間しかいないわけで。そこで、いろんなゆすり屋とか総会屋みたいなやつらがいっぱいいる中で、なぜかその死んだジジイは「ナニワの狂犬」と呼ばれてる、そいつに譲ることにする。なんで狂犬かというと「キョウノケンゾウ」という名前だから。北方謙三じゃないですよ(笑)。キョウノケンゾウという名前だから狂犬というあだ名がついているという設定で、ところがその狂犬が何者かに殺されてしまう。その遺産を狙ってるやつらが、主人公のところに来て「お前はナニワの狂犬に化けて遺産を受け取れ」という話なんですよ。だから『男は顔で勝負する』というタイトルにしたんです。
 
富岡氏 その遺産を得るためにはパスワードを探らなければいけないのと、あと、それにもタイムリミットがあるんですね。限られた期間で、主人公はいろんな恐喝屋に狙われながら、パスワードを探す……その過程がスリリングで面白いんです。これをボツにするのはもったいな過ぎる、というぐらい面白い作品です。
 
大沢 騙されないぞ、そんなこと言ったって(笑)
 
◆昭和の話は「時代小説」/北方領土の殺人/「島もの」の効用
 

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――大沢さんがボツにする理由は何なんですか。
 
大沢 それはやっぱり、面白くないと思ったからです。何かね、物語も膨らみかけなのと、最後の犯人像、ナニワの狂犬を誰が殺したのか、というオチが全然よくなくて、こりゃダメだなと思ってボツにしました。
 
――難しいのは、現代の読者に届けるには、現代の風俗、携帯電話とかそういうものをちゃんと入れないといけないことですね。
 
大沢 そこなんですよ。だってね、そのときはフロッピーにデータが入ってるという設定でしたからね。もう「フロッピーって何?」って話でしょう。しかも、主人公のところにはパソコンがなくて、パソコンがあるところに行かないと開けない。いまはもう持って歩いてるし、みたいな話になっちゃうんで(笑)、そこをどうする、というところも含めて、使えるのはエッチなシーンぐらいですね、いま読み返すと(笑)。
 
――こないだ逢坂剛さんに話をうかがったんですが、やっぱり現代で、携帯のない時代の話が出てくると読者が拒否反応を起こす、というのがあって。昔の話を書きづらくなっちゃったんですよ、とおっしゃっていたんですが、そういう昔の、時代を遡る話っていうのはどうですか。
 
大沢 いや、書いてもいいんですけど、たとえばインターネットがなかったころって、25年前ぐらいを書いてもあんまり面白くないんですよね。もしいま、近い過去で書いて面白いとしたらバブルの時代ですね。バブルのころは、いろんな黒社会とかの暗躍があったし、ヤクザもいまみたいに規制を受けてない時代なので、表裏のあわいのところでいろんな、たとえば銀行とつながってたり地上げもやってたりしましたので、材料としては多々あります。だからバブルは使える。だけど、中途半端な過去でいうとバブルぐらいで、それより前に遡るのは、逆に難しいんです。
 僕は『海と月の迷路』(講談社ノベルス)という、昭和35年を舞台にした小説を書きましたけど、ホントにこれが大変でね。まず言葉遣いが違うわけですよ。昭和35年というと、もちろん僕も生まれてたし、この教室にも、そのころをご存じの方も多々おられるわけですけど、昭和35年の大人が使っていた言葉って、いまの我々が使う言葉も使わない言葉もあるわけですよ。たとえば「ノイローゼ」なんて言葉は使わなかったし、「ストレス」っていう言葉も使わないし。そういう意味では、言葉がない。違う表現をしている。そしてやっぱり、理想とする人間像であったり、価値観がまったく違うじゃないですか。そういうのを考えた場合、時代小説を書いてるのと一緒なんですね。
 しかも、時代小説だったら「江戸時代のことなんてわかんねえだろ」って言えるけど、昭和35年だとみんな知ってるから「違う!」って言われたら終わりなわけで。だから、書くときは本当に苦労しました。
 
――いま話が出ましたけど、時代小説を書く予定ではなかったんですか。
 
大沢 いまでもなくはないんですよ。うるさいこと言ってる会社が1社あるんですけど、捕物帳を書けって。
 
――新潮でしたっけ。
 

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大沢 ううん、KADOKAWA(笑)。またKADOKAWAだよ。うるさいんだよ最近。まあそれはまだ先の話なので、いまはちょっとバックレてますね。まあ、時代小説を書くぐらいだったら、先に『新宿鮫』を書きますよ、私は(笑)。
 いま「小説すばる」で連載してる『漂砂の塔』という島ものがあるんですけど、これがどんな材料かというと、レアアースが採れる北方領土の島なんですよ。北方領土って、非常に面倒臭い政治関係があるじゃないですか。一応ロシアが実効支配してるけど、そこにロシアと中国と日本の合弁会社が入ってるんです。なぜかというと、まずレアアースに関して世界最先端の技術は中国が持ってるんです。そして実効支配してるロシアと、北方領土だっていう理由で日本の企業も入ってる。なぜかというと、レアアースには必ずトリウムという放射性物質が含まれているんですね。中国あたりでは、これを除去してそのまま垂れ流しにしたもんだから、村1個全部ガンになっちゃったりとか、おおごとになったんですけども、それが原発に使えるんです。しかも、トリウム発電はプルトニウムが出ない。だけど、じゃあなんでトリウム発電をやらなかったの、とみなさん考えるかもしれないけど、どこもほとんどやってないんです。ドイツとアメリカに小さな発電所があるだけで。プルトニウムが出ないんだから理想の原子力発電なのに、なんでやらないのか、と思うかもしれないけどこれは当たり前で、みんな核兵器を作るために原子力発電をやってるんです。プルトニウムが出ない原子力発電はいらないんですよ。だからどこの国も、それをやってこなかった。その技術が、日本にある。実際にはないんですけど、あるという設定で、2025年が舞台なんですけど、北方領土の春勇留島という架空の島で(秋勇留島という島は実際に存在する)、そこに「オロテック」という合弁会社が作られる。中国人、ロシア人、日本人がいる。中国人はレアアースの精製技術、日本人は原子力発電の技術を持っていて、ロシア人はそれ以外の運搬とか、食堂を運営したりとか、島に売春婦を連れてきたりとか、そういう生活部分で、サハリン州との契約でそういう仕事はロシア人しか使っちゃいけないというルールになっている。この3つの民族、合わせて500人ぐらいが働いていて、それ以外の人間は一切いない。
 昭和初期までは、昆布漁のために日本人の漁師が100人ぐらいいたんだけど、昭和20年にソビエト軍が攻めてきたときは1人もいなくなっていた、という設定の中で、主人公は、ロシア人とのクオーターの、ロシア語ペラペラの刑事なんですよ。最初は、中国語もしゃべれるので潜入捜査をやっていて、ロシアンマフィアと中国マフィアの、人身売買の現場に立ち会っていろいろ通訳をやっているシーンから始まるんだけども、急遽呼び戻される。で「お前、明日から北方領土に行け」と言われる。どういうことですか、というと、その島で日本人の死体が見つかる。原発の社員のね。
 問題なのは、ここはロシア領だから本来はサハリン警察の管轄なんだけど、ここには警察はいない。国境警備隊しかいない。で、死んだのは日本人なので、日本人の社員がみんな動揺してるから、刑事が来れば次の事件は起きないだろう、と安心する。ただそれだけのためにお前行け、と言われて、俺そんな寒いところ行きたくない、と主人公は思うんだけど、ロシアンマフィアと中国マフィアの取引に立ち会ってるときに、身分がバレそうになってて「東京にいると殺されるぞ」と上司に言われて、しょうがねえなと思いながら行くわけです。で、行ってみると、死んでたやつはなぜか両目をえぐられているというよくわからない殺され方をしていて、さあいったい犯人は誰? と調べていくと、実は90年前にもその島では同じような殺人事件が起こっていた、という。
 面白そうでしょう? ぜひ読んでください。
 
――いやあ、いいですねえ。そういうアイデアのインプットっていうのは、どこからくるんですか。
 

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大沢 いやあ、何となく思いつくんですよ。僕の場合「島もの」が好きで、島を舞台にすると余分な材料が入ってこないから、あるものだけで片付けられるから楽チンなんですよ。たとえば過去の『パンドラ・アイランド』(集英社文庫)もそうですし、『海と月の迷路』もそうですし。
 いまの捜査ってホラ、物量だから。たとえば科学捜査だとものすごい数の鑑識が入ってくるし、だいたいそれでもって、監視カメラが山ほどあればもう車の動きもわかっちゃうし、犯罪なんてほぼほぼ無理なんですよ。しかも携帯電話のGPSで動きまで全部わかってしまうという状況で、そういうのを排除するためには、そういう特殊な環境にせざるを得ない。特殊な環境の、さっき言ったルールを作ってしまう中で、登場人物を動かしていく。それによって、いろんな制約を排除するということですね。
 もちろん、そういう材料を簡単に思いついて書いてるわけじゃないし、実際に書こうと思ったら大変ですから。私もちゃんと日本のレアアースの会社まで取材に行って、もういろんな話を聞いて頭がパンクしそうになりました(笑)。レアアースの精製の仕方とか、ほとんど中国が一手に握ってるというところも含めていろいろ聞いて、漂砂鉱床という海底に出てくる層からレアアースが採れるという設定にしたんですけど、その設定だけで地図を書いたりして面倒臭いんですけど(笑)、けど地図さえ作っちゃったらあとはこっちのものなので、そこだけ苦労すればあとは好き勝手に書けますから。島に売春宿があってね、ロシアンマフィアのちっちゃいけどすげえ強いやつが出てくるとか、そういうのを書くのが楽しくてね。東京が舞台じゃなかなかそういうのは書けないんでね。
 
◆方言の正しい使い方/電子書籍と紙書籍、その割合は/編集者を通さない文章とは
 
――ある種の冒険小説では、そういった閉鎖された、外部との交流のない環境を舞台にするのが一番いいですよね。
 敵の存在を描くのも難しいし、初期のころは、敵の存在を大きくするために、最後の最後に敵が出てくるという話が多かったんじゃないですか。
 
大沢 でもそうすると、書き方によってはガッカリなわけですよ。出てきた途端に「出オチかよ」みたいな、そういうのになっちゃうので。だから、ルールという部分も含めて、未来にしたり、過去にしたり。

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 たとえば柚月さんは『孤狼の血』(KADOKAWA)で、昭和の広島を舞台にされましたけど、あれはズルイっちゃズルイんだよね。『仁義なき戦い』っていうバックグラウンドがあるんで、みんな思い浮かべちゃうわけですよ。これは菅原文太だな、これは千葉真一だな、とか思いながら読めちゃうので、ちょっとズルくね? というのが僕には正直あったんだけど、でも近過去にすることで、彼女が強くできた理由が、広島弁なんですね。方言をきっちり書けるっていうのはたいへんなことなので。日本推理作家協会賞の選考委員だった黒川博行は「方言がここまで書けてれば、わしゃそれだけでマルや」って。「それだけかよ!」と思ったぐらいなんだけど「この広島弁は完璧や! わしゃこれマルや!」って、それで受賞かよ、みたいな話だったんだけど、まあ方言っていうのは強いんですよ。
 私も、鹿児島を舞台に『灰夜』という『新宿鮫』シリーズの小説を書いたときに、全部鹿児島弁に翻訳してもらったら、何言ってるのか全然わかんなくなっちゃって(笑)、横にルビをつけないと、鹿児島弁のやり取りは読者に伝わらないんですよ。あまりに激し過ぎて。だからやっぱり、大阪弁とか広島弁ぐらいの、なんとなく聞き覚えのある方言ぐらいがいい。東北弁でもいいんですけど、でも東北はどうしてもコミカルになりがちなので、全体に、プラスでもマイナスでも、どっちにしても朴訥とした雰囲気が伝わっちゃう。すごく悪いヤクザが東北弁で脅かしても、怖くない感じじゃないですか、やっぱり。そういうところがね。
 
――方言って難しいですよね。なまじわかると、細かいところに注文をつけたくなるし。
 
大沢 そうですね。僕もいいかげんな関西弁でいっぱい書いてますけど、関西の人が読んだら絶対「これ違うだろ」って。「いや違うかもしんないけど、雰囲気雰囲気」みたいな話だから、それで許してくれって感じですね。
 

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――過去2回ここに来ていただいて、いろいろ話をしていただきました。5年前の前回は電子書籍の話もされていて、これから成長するみたいな話でしたが、実際のところどうですか。
 
大沢 電子書籍そのものに関して言うと、頭打ちになってます。ただ市場そのものは広がっています。でも金額ベースでいうと、まったく想像していたほどの規模にはなっていない。販売点数は増えているんですよ。コミックと、それからBL、あと官能ですね。この部分の市場は広がっています。
 小説に関して言うと、ほぼほぼ頭打ちです。紙でものすごく売れたものが、電子でも売れるという傾向はあります。それは簡単に言っちゃうと、紙の本が品薄で手に入らないから、仕方なく電子で読む人がいるというだけで、数字でいうとだいたい100分の1ですね。紙で10万部売れる本だったら、電子だったら1000部。これがひとつの目安かな、と。当然、定価は安いですから、金額でいうと非常に小さい金額にしかならない。
 ただアマゾンは、電子書籍でオリジナルのものを作ろうという意識がすごく強くて、うちのオフィスに対してもそうなんですけど、書いたものを直接アマゾンで売らせてくれ、という申し込みが一昨年ぐらいから来始めていて、うちは断ってるんですけど。それをやり出すと、要は出版社抜きで、直接、作家とアマゾンが販売するという構造になりますから、中抜き構造になるので出版社も困るし、作家の取り分が増えるということで乗る作家もこれからはいると思います。それから、いまアマチュアの人たち。新人賞とか取ってない、あるいは取ったけど紙の本を出せてない人たちに、そういうチャンスが増えるとなれば、積極的に電子書籍で自分の作品を発表していく作家も増えると思いますが、そういうことを考えていらっしゃる方も必ずいると思うので、先に言っておきます。
 編集者の手が入らない作品というのは、キャリア40年近い我々であっても自信がない。だから、必ずプロの編集者の目を通したものを売ってください。それはたとえば、アマゾンはもう水面下で始めてると思うけど、大手出版社の優れた編集者をヘッドハントして、自社内に、いわゆる編集スタッフとして抱えて、彼らを通して作品化するということであれば、アマゾンと組んでも別にかまわない。だけど、編集者をまったく抜きで、あなたが書いたものをそのまま完成形にしますよ、と言われたら、おそらくとんでもなく恥ずかしいものが出てきてしまうんで、それは考えたほうがいいです。
 これは出版社の問題じゃないですか。たとえば、宝島社の「このミス大賞」出身の柚月さんがいるからわかると思うんだけど、宝島っていう会社はそれほど文芸出版社として歴史があるわけではなく、編集者にも技術があるわけではない。彼女より大先輩である、楡周平という『Cの福音』という小説で宝島社からデビューした作家がいて、彼とも非常に親しいんですけど、彼が言ってたのは、宝島社で『Cの福音』シリーズをずっと書いていて、初めて他社から原稿の注文をもらって、書いて渡したとき、戻ってきたゲラを見てビックリしたって。真っ赤になるまで直しが入っていたから。つまり、宝島社はいっさいそういうことをしてくれなかった。する技術がなかった。だから、自分の文章がそれでいいと思って、普通に本にしてきていた。だけど、プロの編集者の目を通して見た自分の文章は、恥ずかしくていたたまれなくなった。これは間違い、これも間違い、これも日本語として正しくない、みたいなことがずらっと書かれていて、それを宝島社では全然やってくれなかった。「だから僕は本当に苦労したんです」と、彼から聞いたことがあります。
 それぐらい、プロの編集者の、文章に対する目というのは厳しい。中にはちょっといいかげんなやつもいるけど、ここに来てるような連中はみんなしっかりしてます。そうじゃないとここまで来て偉そうなことは言わないと思うしね(笑)。だからそういう意味でいうと、ちゃんとした出版社のちゃんとした編集者が読んだ文章と、それを通さないで作家が書いたままの文章だと、さっきの講評で取り上げたみたいに、「ビリビリに破く」を「散り散りに破く」と書くような、ごめんね佐藤さんまた引き合いに出して。そういうありがちだけどあってはいけない間違いが平気で起こってしまうんですよ。
 
◆「直し」のコミュニケーション術/シノプシスの功罪/あらすじを書くか、小説を書くか
 
――中には自己愛の強い作家もいて、指摘されても文章を直したくないという人も、最近はいるようですね。
 
大沢 それは作家本人の問題であるのと同時に、編集者のコミュニケーションスキルの問題でもあるんですよ。僕の若いころっていうのは、編集者っていうのは親のようにも思ったし、先生のようにも思ったし、そうなるようにいろんなことを話してくれて、教えてくれたんです。たとえば先輩作家はこういうことがあって、あの人はこうだったよ、というようなことを、僕なんかが聞いてる先輩作家っていったら、藤原審爾さんとか、阿佐田哲也さんとか、生島治郎さんとか、そういう人たちだから「ははあーっ」って聞いてるわけじゃないですか。そういう人を担当してきた編集者に「ここはこう直したほうがいいんじゃない」と言われたら、直さざるを得ないですよ。
 そういうコミュニケーションスキルがあって、そうやって説得力を持つように自分の仕事の経験があったり、さらに言えば一緒にお酒を飲みに行ったりして、人間対人間の信頼関係を築いている。だから「ここは直そうよ」って言われたら直す。
 正直ね、いまの編集者も、ちょっとオタクっぽいやつが多いわけですよ。だから、直接作家と顔を合わせないで、メールのやり取りだけで「こことここをこう直してください」って入ってきたら、おいおい、って話になるじゃないですか。そこを考えると、編集者のコミュニケーションスキルが低いということもあって、そういうことができなくなってる。
 それともうひとつ、これは圧倒的にいまの時代、みなさんがたとえばプロの作家になって苦労するだろうと思われるのは、新しい作品を依頼されたときに、シノプシスを作ってくれと言われる。要は、さっき言った「何が売りなんだ」というのを出版社としてはつかみたいから、出してくれという。だけど、あらすじだけで「これは先行する作品があるからダメですね」とか「これは材料として古いでしょう」とか言われて、ボツにされる。そういうことが何回か続くと、やっぱりちょっと疲れちゃうでしょう。あらすじが書きたくて作家になったわけじゃないんだし。僕も、小説なんてのはさっきも言ったように何も考えないで書き始めるんで、あらすじ書けっていま言われたら「書けねえよ」って言いますよ(笑)。主人公がこれこれこうで、物語はよくわかんないからこれから考えますよ、以上! みたいな話だから。それでもまあベテランだから通るけど、若い人の場合、そこまでやって書かせて、ダメだったときにボツにするのが、編集者は怖いんですね。だから、あらすじで判断しようとする。だけどそれは一番まちがってる。小説をあらすじで判断するぐらいダメなことはないんで、それをやったらその作家も育たない。
 だから、たとえば500枚とはいかなくても、200枚とか300枚とか書いたうえで、これはダメです、ボツです、という勇気を編集者は持たなくちゃいけない。それを、ボツにすることで嫌われたくない、怒らせたくない、だからあらすじで判断しようとする、っていうのが一番よくないんですよ。書いたうえでうまくなることってあるけど、あらすじを何十本、何百本も書いたってその作家はうまくならないです。でも100枚とか200枚とか300枚も書いたのをボツにされたら、作家は悔しいし、次はOKにしようと思うから努力もする。それが勉強だと思うんですよね。
 それを、あらすじで判断してボツにしたり、あらすじでOKを出して「書いてください」と言ったって、結局作品として完成しないケースってすごく多いんですよ。本当に、いまは新しい人に優しい出版界だから、新人作家が出てきてちょっとおいしそうだと、みんな注文しますよ。でも、注文してもフォローなんかしてくれないんだから。書かないでいたら忘れられるし、書いてダメならボツ、それで終わりだから。そういう状況の中で、新人作家というのはすごく厳しいです。それでもやるんであれば、本当に腹をくくって取り掛からないと生き残っていけないと思うし、毎年、何十人というライバルがデビューしていってるし、こういうクソうるさいジジイはなかなか死なねえでのさばってるし(笑)、柚月裕子みたいに伸びてきたやつはいまのうちに潰しとけ、みたいなそういう世界なので、本当に大変ですよ、作家としてやっていくのは。


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◆対決!! 柚月裕子vs大沢在昌/ものを書くのは恥をかくこと/ダブル受賞のジンクス
 
――いろいろ聞きたいことはまだまだありますが、そろそろ時間もなくなってきたので、質問に移りたいと思います。では、いま話題に上がりました柚月裕子さん、どうぞ(笑)。
 
大沢 仕返しにきたな(笑)。
 
柚月裕子氏 たいへん胸が痛くなる話ばかりで、膝を正して聞いておりました。いま質問したいことは、大沢在昌さんが長い作家生活の中で、最大の失敗と思われるのはどんなことかをお聞きしたいと思います。成功譚はあちこちで山ほど読んでおりますので、作品のことでも、プライベートなことでも、「これは失敗だった」と思われる、最大のことについて教えていただけますでしょうか。
 
大沢 お前、イヤなやつだね本当に(笑)。
 ええとね、「鮫島」という名前をつけたことですかね。手書きだから、画数が多いと面倒臭いんだよ(笑)。だけど鮫島じゃないと『新宿鮫』にならないから。編集者は「マルサ(○の中にサ)って書いてくれれば直します」って言うんだけど、それじゃやっぱり気分が出ないしね。だからせっせと「魚」を書いて「交」を書いて「島」書いて、画数多いなと思いながら書いています。まあこれは冗談だけど、でも本当に思ってるんですよ。

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 失敗ねえ、失敗なんて山ほどあるけど、作品に関しての失敗だって、本当に多々あるよ。偉そうに、柚月に説教したりしてるけど、俺のデビュー作なんて22歳のころに書いたんだよ。それをまだ角川文庫で売ってるんだよ、臆面もなくね。読むともう「ぎゃあっ」って言うぐらい恥ずかしいですよ。だけど、一度お金を頂戴しちゃったものは、もう引っ込められないんで、そういう意味では、全部が恥ずかしいと言ってもいいし、その恥ずかしさを背中に負って、今度は恥ずかしくないものにしようと思ってやっていくのが、作家の人生です。でも今度はどんどん才能が乏しくなってきて、底っ溜まりを爪でひっかくようになって、それはそれで「見苦しいなお前は」と自分で思うこともあるんだけど、でも「老練な技術が俺にはあるはずだ」と信じて書いて、それはそれでまた恥ずかしいみたいな気分になったりもするけど、でも作家がものを書くというのは恥をかくということだからね。
 柚月に関しては、僕は非常に厳しいことを言ったんです。彼女の『狐狼の血』が吉川英治文学新人賞の候補になって、落ちました。あのときは直木賞の候補にもなって落ちましたね。その前に『検事の本懐』(宝島社)で大藪春彦賞を取ったときは、僕はものすごく彼女のことを買って、認めて、差し上げたので、今度も期待してたのね。でも、正直『狐狼の血』を読んでがっかりして、今年の大藪春彦賞の2次会で彼女が来たので「ちょっと話そうよ」とふたりになって、僕はなぜこの作品を推すことができなかったのか、ここがこうでこうでこうで、というのを全部指摘したんですね。受賞したのは薬丸岳の『Aではない君と』(講談社)という、これはまた彼が苦労して苦労してようやくたどりついた、本当にひと皮むけた素晴らしい作品だったんで、柚月に対して「お前のこんなぬるい『狐狼の血』に対して、薬丸はこんだけたいへんなものを書いたんだぞ」と言いましたら、彼女は悔し泣きしましてね。「悔しいー!」と声を挙げて。
 
柚月氏 いや、あのね、みなさん。大沢さんは何か丁寧に指摘したみたいにおっしゃっていますけど、実際には「柚月、お前なあ!」と荒々しい感じでしてね、こんなジェントルな話し方ではありませんでしたから(笑)。
 
大沢 当たり前だよそれ(笑)。そりゃ、ふたりきりのときはもっとガンガン言いますよ。だから、それでもう「全然ダメだ!」という勢いでガツンといったら、彼女がベソかいてね。でも、ベソかく悔しさがあるなら次の作品に絶対プラスなんで。作家の世界って、体育会系なんですよ、実は。そこでへこんじゃったら負けなので、そういう意味では、ここで泣いてるんだったらこいつはOKだなと思っていたら、今度は日本推理作家協会賞の候補になってきて「また落とすのか俺」と思って。でも俺はマルはつけないで行くぞと思ったら、黒川博行が「広島弁がいい」とかすごいショボいマルの付け方をして(笑)、受賞が決まって彼女が相当びっくりしてね。記者会見があるんで選考会場で待ってたら、俺の顔を見たときに彼女が「なんで?」っていう顔をするわけ。「大沢さん、絶対落とすって言ってたでしょう。私どんな顔して大沢さんと顔を合わせればいいか、わからなくなったんです」と言われて「別に俺は推してねえよ」と俺も開き直ったんだけど(笑)、そんな感じですね。
 あれは山田風太郎賞の候補にもなったんだよね。それで落ちたら、4賞落ちになるわけか。4回落ちたらつらいよなあ。賞を落ちるのってつらいよ。とくに文学賞なんて、勝手に候補にされて、勝手にボロクソ言われてさ。すごい傷ついて、しかも待ち会やってると編集者が一緒にいてさ。編集者も「なんで自分がなぐさめなくちゃいけないんだ」みたいな話になっちゃうわけだから。だから俺は待ち会ってしないし、残念会も行かないという主義を通しているんだけど、作家の立場だったら「候補なんて断る」っていうぐらいつらい経験で、だから彼女は『孤狼の血』に関しては1勝3敗になったわけだよね。下手すりゃ0勝4敗になった可能性もあったんだけど、でもその悔しさが、次の柚月裕子の背中を押すと思ってるし、負けたことのないやつはいませんから。負けてないやつがいるとしたら、壁にぶつかったときに立ち上がれませんからね。
 いま俺「落ちたことない」って言いましたけど、吉川英治文学賞を10回落ちてますからね。10年落ち続けてたんです。候補は発表にならないんですけど、でも俺は吉川英治文学新人賞のほうの選考委員をやってますから、自分が候補になってることをわかっちゃうんですよ。本来は秘密なんだけど選考日がいついつ、っていうのもわかるし。講談社の西川くんがずっとその役で「大沢さん、その日はどこにいますか」って聞いてくるわけ。そうすると「また候補なの、俺?」「そうなんですよ」っていう話になるわけですよ。で「残念ながら」「残念ながら」っていうのが9回あって、10回目で違うやつが担当になったら受賞したんで、たぶん彼のせいだと思います(笑)。
 
――東野圭吾さんとのダブル受賞でしたね。それで1年後に逢坂剛さんが「東野圭吾と大沢在昌は、ふたりで一人前だからね」とおっしゃってて(笑)。
 
大沢 まあダブル受賞っていうのは、だいたいダメなやつが取るって言われているんですけど、俺はダブル受賞がすごく多いの。吉川英治文学新人賞は伊集院静と取ったし、直木賞は佐藤雅美さんと取ったわけ。柴田錬三郎賞は桐野夏生と取ったの。で、吉川英治文学賞は東野圭吾とでしょう。全部ダブルなのね。だから、ひとりで取ったのは、ひとりしか取れないミステリー文学大賞ぐらいですよ。
 前にね、北方謙三と伊集院静が話してて、北方謙三が「ダブル受賞っていうのはだいたいひとり消えるんだよ」って言って、伊集院静が「俺、大沢と一緒だ」って、そしたら北方謙三が「大沢、消えたじゃん」って言った、っていう有名な話があるんだけど。
 吉川英治文学賞っていうのは、エンターテインメントでは最高の賞で、これをもらっちゃったらあとは作品でもらう賞はないんですよ。だから、10年間落ち続けて、残念だと思う反面、ほっとしてたんです。なぜかというと、これをもらっちゃったらもうドキドキする機会はなくなっちゃう。吉川英治文学賞の候補になっていることがわかって、もうすぐ選考日だ、今年は取れるかな、とドキドキする。で、残念でした、と言われてがっかりするんだけど、でもまた来年頑張れるなと思う。作品で候補になってドキドキできると思うと、よしよしという気持ちがあって、それが10年間続きましたね。
 
◆「倦む」という経験/気持ちの切り替えが大事/作家は一生、死ぬまで作家
 
――では今度は、吉村龍一から質問をお願いします。
 

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吉村龍一氏 先ほどのお話の中で、書いているうちに倦んでくるというのが心に残りました。アマチュアのときは楽しく書いていて、デビューしてからもしばらくは楽しいんだけど、そのうち倦んでくるよ、ということでしたが、大沢先生が初めて書くことに倦んできたのはいつごろでしょうか。そして、それを乗り越えるためにどうされてきたのでしょうか。
 
大沢 そうだねえ、やっぱり売れるまでは倦まなかったですよ。『新宿鮫』を書くまでは一生懸命で、売れたいとか話題になりたいとか認められたいという気持ちが強かったから。『新宿鮫』は俺の29冊目の作品なんで、それまでの28冊は試行錯誤の連続でした。だからそれまでは倦むなんていう余裕もなかった。
 そうねえ、だから『新宿鮫』がヒットして、注文が殺到して、そういう時期は死にもの狂いで書かなきゃいけないんで、年に3冊、多いときは4冊ぐらい書くみたいな状況が数年続いたときは、やっぱり材料もとっくに出涸らしになっちゃうし、ストックゼロみたいな気分で、さっき言ったみたいに机の前で、明日から始まる連載小説、何するかまるで決めてないのにどうしよう、みたいなことで、倦みながら考えて。もう本当に思いつきで作って書いて、でも不思議なもんでそれがけっこう面白くなっちゃったりとか、評判になっちゃったりすることもあって、だから自分が倦んでるからといって、他人の評価が「あいつはダメだな」となるかというと、そうではなかったりするんです。
 逆に言うと、自分がすごいノリノリで、すごい傑作を書いたつもりでいても、世の中の評価はまったく異質ということもあるわけで、そこらへんはいくら冷静になれと言われても、自分のことなんで冷静には判断できないところがあるんで何とも言えないんですけど。
 倦んだときの対処法は、そりゃ書かないことしかないですよ。最低限書いて、あとは書かないこと。たとえばヘンな話、吉村さんにしても柚月にしてもそうだと思うんだけど……なんで吉村さんだけさん付けなんだ?(笑) 要するに、最低今日これだけ書いたからいいやと思ったら、我慢しないで遊んじゃうことです。気持ちを切り替えて。とにかく違うことをする。映画を観るんでもいいし、身体を動かす何かでもいいし、マッサージに行くんでもいいけど、とにかくもう、頭から全部締め出すことだね。

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 たとえば書きかけている作品の、この先どうすればいいかわからない。あるいは壁にぶつかりそうだ。そう考えると、ちょっとでも書いておこうと思いがちなんだけど、それってよくないんですよ。壁にぶつかって、目の前が全部厚い岩盤だと思う。頭を押し付けてぐいぐい押したって、抜け道なんかそんな厚い岩盤にはないんで、2~3歩引いて、その端にどこか穴があるんじゃないかとか、横道があるんじゃないか、と余裕を持たなきゃダメ。そのためには、考えてばっかりじゃダメなんです。1回、頭から全部追い出しちゃって、気持ちを切り替える。それはみなさんプロでなくても、書きかけの小説で先に詰まってしまったら、そういう方法があると思うのね。意識を持ち替える。どうしてもダメだったら捨てる。これはしょうがない。プロは捨てるってなかなかできないです。編集者との約束もあるんでそれはなかなかできないけど、アマチュアの場合はむしろ、この先はないなと思ったら捨てる勇気も必要です。プロの場合は、必死になって抜け道を探す。
 とにかく、自分が小説を書くことを嫌いにならない。なぜ嫌いにならないか、そのための方法は何かということですよ。たとえば、人の優れた小説を読めば、「俺もこういうのを書きたい」と思うだろうし、あるいは面白い映画を観たら、「俺もこういう話を小説で書くとしたら、どう書くだろう」というふうに考えるのは、ワクワクすると思うのね。要は、アマチュアのときの気持ちに戻れるというのかな。その気持ちをどこかに残しておいて、自分が倦みそうになったら、アマチュア時代に戻れるぐらいに自分を真っ白にする。そういう、デフォルト化するという気持ちを持ったほうがいいと思う。それでやり直す。
 どうせ死ぬまで続くんだから、この仕事は。元作家、というのはみんなが忘れちゃったただの人なんで、作家は一生、作家であることしかできませんから。
 
――今日は長くなりましたので、まだ質問したい人もいるかと思いますが、ここで終了とさせていただきます。今日は本当にありがとうございました。
 
(場内、大きな拍手)


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【講師プロフィール】
◆大沢在昌(おおさわ・ありまさ)氏
 
1956年、愛知県生まれ。79年『感傷の街角』で小説推理新人賞を受賞しデビュー。91年『新宿鮫』で吉川英治文学新人賞&日本推理作家協会賞、94年『無間人形 新宿鮫4』で直木賞、2004年『パンドラ・アイランド』で柴田錬三郎賞受賞を受賞し、10年これまでの業績に対して日本ミステリー文学大賞が授与される。14年『海と月の迷路』で吉川英治文学賞受賞。評論『売れる作家の全技術』は創作術の本として大ヒット。日本ミステリー文学大賞、日本推理作家協会賞、吉川英治文学新人賞、大藪春彦賞の選考委員を務めている。
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