お風呂のある国に生きる喜び「テルマエ・ロマエ」
私が住む山形はとにかく温泉が多い。
地元の南陽市には赤湯温泉があり、南隣の高畠町には駅に温泉施設がある。北には有名な上山温泉があり、その他にも蔵王温泉や将棋の駒で知られる天童温泉など、石を投げれば温泉地に当たるような土地だ。
小銭で入れる温泉浴場が近所にあっただけに、水と空気と温泉はあって当たり前だとさえ考えていた。大学生になって上京し、とんでもない思い違いであったと気づかされたわけだが……。窓ひとつない安アパートのユニットバス。狭い浴槽のなかに膝を曲げながら入るたびに故郷の温泉が恋しく感じられた。どんな形であれ浴槽があるだけ贅沢といえるが、けっきょく我慢ならなくなってアルバイトで金を稼ぎ、食費や遊興費をなるべく切りつめ、ちょっと家賃の高いトイレと風呂が分離したタイプの部屋に引っ越していた。飲み会の誘いを断り、食事の質を下げることはできても、風呂だけはどうしても譲れなかったのだ。どうしても。そして自分がどれだけ風呂を愛しているのかを自覚した。
さて身の上話から始めてしまったが、今回はそんなお風呂愛好家の期待に応えるかのような傑作ギャグコミック「テルマエ・ロマエ」を取り上げたい。2010年のマンガ大賞に輝き、大ベストセラーとなっている。
舞台は紀元128年の古代ローマ。堅物な設計技師のルシウスは新しい浴場を作るために頭を悩ませる日々。息抜きのために公衆浴場を訪れるが、なぜか時空を超えて現代日本の銭湯にワープしてしまうのだった。突然現れた極東の未来社会にルシウスは混乱するが、生来の仕事熱心ぶりを発揮して日本の風呂文化を貪欲に学び取り、ローマの浴場に新風を巻き起こすという物語。
食文化をテーマにした作品は数多くあるが、風呂文化について語るものは少ない。思い出せるのは吉田戦車の「フロマンガ」ぐらいか。しかしいくら風呂が好きと言っても、これをテーマに物語を作るのは至難の業だろう。作者は古代ローマの浴場文化と日本の風呂文化を反則ギリギリの豪腕でもって繋げあわせる。
風呂場限定でタイムスリップという大胆すぎるアイディア。まるでギリシャ彫刻のような風貌の男が、フルーツ牛乳やシャンプーハットに大マジメに驚くところがおもしろい。よくこんなこと思いつくなあと感心していたが、作者のヤマザキマリはイタリア在住歴が長く、現在はポルトガル在住。夫はイタリア人であり、夫の家族との異文化交流を描いた「モーレツ! イタリア家族」や、イタリアやポルトガルの食文化などをテーマにした「それではさっそくBuonappetito!」を過去に発表している。
風呂に対する過剰な愛が作品のなかにこめられているが、物語の間の挿入されているコラムによれば、現在の欧州には公衆浴場がまったくなく、ポルトガルにある作者の自宅には浴槽もないのだという。それでも湯に浸かりたくて、幼児用の小さな浴槽をシャワールームに置き、身体を「ん」の字にして無理やり入っているとのこと。その一方で日本の家々には浴槽があり、どこの町にもたいていスーパー銭湯や温泉がある。作者の望郷の念がこのユニークな快作を生む原動力となったのかもしれない。成熟した風呂文化のある国で暮らせることがいかに幸福か。お風呂の大切さを再認識させてくれる稀有な作品だ。